今回の劇評コンペの審査に参加して、私がこのコンペには意味があると思ったのは、大筋において応募劇評の質が後半に行くにしたがって徐々に向上していっていると思えたからである。これは応募者がすでにUPされた原稿を読み、それを意識しながら書いたからではないかと私は想像した。あるいは、複数回応募した人は自分の前の原稿をも批評の対象にしたのではないかと私はしばしば思ったのであった。劇評は舞台芸術に対する批評であるが、それと同時に、その批評の質を上げるのは、イリヤ・カバコフが「作家は自分の作品を二度見る」の中で書いたように、自らの批評に対する自己批評性を獲得するかどうかにもあるのだと私は思う。

 今回の劇評コンペについては、次々とHP上にアップされていく投稿劇評を読みながら、評価のためのクライテリアを考えつつ、メモを取っていった。それらのメモは、まずは「〜ではない」という否定形になった。「観劇体験記ではない」「描写だけでは成立しない」「モノローグではない」「劇評/批評は自己表現だが、ベタな自己表現ではない」。まとめてしまえば、今回求められている劇評はブログ的劇評ではない、と言い換えてもよい。さらに、「原作/戯曲テクストがある場合、それを読むべき」、「調査すべきことは調査すべき」、「問題提起や分析が明示的に書き込まれているべき」といった幾つかの「〜べき」も加わった。このメモに従って候補作を絞ることになったが、そこから先は、それぞれの劇評が取り上げた作品についての審査員個々人の見解や劇評の文章そのものの力が評価の論点となるので、ある程度は相対的たらざるをえない、と私は考えた。

 今回選ばれた三作は、演劇やパフォーマンスの作品を批評するとはなにかということを単に技術的な側面だけではなく、その本来的な要素を含めて、改めて考えさせる機会にもなっていたと思います。
 特に堀切氏の『Cargo Tokyo-Yokohama』への評は、作品に真摯に対峙しながら、批評を書くものとしてのリスクを背負う覚悟がありました。それは、鋭く対象に踏み込む姿勢に現われています。なぜ素晴らしいものになるはずであったこの作品がこのような事態に陥ってしまったのか、時に筆が滑りすぎる観はあるものの、熱い想いをあくまで理論へと転化して、丹念に調べて書いていました。それは作品の問題点と可能性を吟味した批評の本質的なものをあらためて認識させるものでした。

12月20日(日)にF/TステーションでF/T09秋劇評コンペ優秀賞発表・講評会が行われました。
受賞者の皆様、おめでとうございます!


<優秀賞受賞作品>

柴田隆子氏 美しい静寂の地獄絵図 ―『神曲―地獄篇』 

堀切克洋氏 「本物」はどこにあるのか――『Cargo Tokyo-Yokohama』評

百田知弘氏 『あの人の世界』 劇評


追って審査員の皆様からの各作品・全体についてのご講評をアップいたします。
どうぞお楽しみに!

 客入れのとき、劇場に入ってまず驚いたのは「音」だった。"INFERNO"というネ
オンが舞台上でシネマの暗黒街のように瞬いていて、スピーカーからネオンの爆ぜるバチビ
チという音が鳴り響いていたのだ。その音の暴力的なこと。「ネオンから漏電しているわけ
ではない」ことは当たり前に知れているのに、それでも感電のイメージが繰り返し想起され、
開演を待つあいだ身体が縮んでいた。

 まず僭越ながら私の個人的なことを語らせていただくと、大学の卒業論文を1ヶ月後に提出しなければならないし卒業後の進路も決まっていない。芝居など見ている場合ではない。ないのだが、ひょんなことからチケットをいただいてしまい、さらに前評判の高さについ惹かれて劇場にやって来た。そして劇評などほとんど読んだこともなく、ましてや書いたこともなかった私だが、ものすごい感動に駆られて文章にせずには居られなかった。あんなに綺麗な舞台は見たことがなかった。

 「その旅は、『暗黒の森』すなわち、この芸術家の罪の意識から始まる。では、彼の罪、もしくは彼が落ちた穴とは一体何なのだろうか?彼の作品だろうか?」

 自ら演出し、かつ暗い森に迷う芸術家役で舞台に登場しさえした「地獄篇」について、かく語る張本人-イタリアの鬼才ロメオ・カステルッチの「神曲」三部作世界ツアーは、仏アビニョンでの初演から1年半を経て、ここ東京で幕を閉じた。そのスケールの壮大さゆえか、または「演劇は時間をかけて観客の記憶の中で反芻され、発展していく」との信念からか、再演は行わない意向という。

 であればこそ、その最初で最後の日本上演に立ち会えた幸いを噛み締めたい―これこそ、彼が穿った穴を覗き込んでの率直な思いだ。たとえそれが、の闇へと、彼もろとも落ち込むことを意味するとしても。

 耳障りな電子音がロビーにまで響いている。舞台上には文字をかたどったライトがおかれ、白い光がちかちかとまたたいているのが見える。時折、ビィーンというひときわ大きな音が鳴り響く。薄暗い客席は、空気もどことなく白く煙り、開演前から異様な雰囲気に包まれている。ライトの文字は裏返しになっており「INFERNO」と読める。つまり客席側の空間が、舞台に対し「地獄」として展示されているのだ。開演時間になりライトが片付けられる。男が一人登場し、「私はロメオ・カステルッチ」と名乗る。そう、彼はこの作品の演出家だ。それゆえダンテと同じように、主人公として自らの作った地獄を巡礼するのだ。

 演劇は、文化の機能を果たしているのだろうか?社会学者樫村愛子は、人が社会に対峙し、参入する際に「移行空間」すなわち「人が主観的に生きている世界と現実の橋渡しをし、人間にとって常に外傷となりうる新しい現実との出会いやその処理を本人にとって無理のない形で受容させる装置 1」が必要となることを示す。この、人の主観と現実(社会)との橋渡しの装置として樫村が注目するのが文化であるのだが、樫村は、現在の文化状況が橋渡しとして機能していないと警鐘を鳴らしている。樫村の指摘は私に問いを立てさせる。我々は、現在の芸術に、社会との接点を見つけることができるのだろうか。芸術は、我々の現実社会での生のあり方に、なんらかの思考を促してくるのだろうか。アニメ、映画、演劇、これらに樫村の言う意味での文化の役割を期待することなど、ほとんど不可能なのではないのか。そんなことを思う12月の中旬、私は、この文化状況への判断を打ち破るような劇に出会った。イタリアからやってきた、ロメオ・カステルッチの「神曲―地獄篇」である。それではこの劇について語っていこう。

12月11日は冬の雨が降り、しきりと皮膚から温度を攫った。


池袋西口を抜け折り畳み傘の弱さと濡れてインクの掠れた地図を持て余し辿り着いた会場で冷えた体を温める。私と、同行した友人は駅直通の出口があると知らな かった。時間よりも随分早く辿り着いてしまった無聊をこれから始まる演目への期待を語り慰め迎えた20時半7分前、私たちを迎える最初の演出として爆音か、さもなくばうんと聞き取り辛い音で流されれば良かったのにといった程度の微妙なボリュームで場内を満たすノイズ。客席に向いた"INFERNO"は要するに講演開始に先駆けおまえたちの居る場所が地獄だと通告する役なんだろう。開始直前文字は取り払われ残るは""のみとなり地獄の在りかの反転を示唆す る。

 私が小学生の頃、社会のテストで「加工貿易」と回答する問題がやたら多かったのを思い出す。(日本は資源が取れないから)資源を「加工」して、それを輸出して外貨を稼がなければいけない。そのような「世界のしくみ」をまだ右も左もわからぬ子どもに教え込むにはうってつけの用語、それが「加工貿易」であった。大型の油田や天然ガス田が発見されたというニュースはこれまでのところ報道されていないから、おそらく、現在も「加工貿易」は、小学生の社会科の必修ワードの一つなのだろう。

 観る前からこんなに盛り上がった芝居は、これまでなかったのではないか? 多分、これからもないような気がする。
 配布されたチラシには、『究極のパンチラを求めるスペクタクル!』とある。劇団が作成したチラシゆえ、多少の誇張はあろうが、しっかり文字としてこう印刷されているのだから、これは証拠物件意外の何物でもない。
 果たしてパンツは見えるのか? 見えないのか? これは世の男どもにとっては、何にも増して最重要項目である。世界の核の削減などという半ば夢物語などより、こっちの方がよっぽどリアリティのある命題に違いない。それを否定する者を、私は金輪際信用しない。
 パンツが見たい! そのことに限って言えば、世界の男どもは、人種も宗教も超越して、すでに一つだ。

狂気、あるいは狂気に近いものは異常であるから舞台には向いている。舞台は日常のふりをした異常だからだ。そういうとちょっと失礼だが狂気を使っ て上手に演出すると、いろいろな社会の断片が見えてくる。ブルックは、『The Man Who』(原作『妻と帽子と間違えた男』)で、精神病院という制度と、医者と患者の関係を描きながら社会を描いて見せた。患者と医者と制度と社会...。言え ばミッシェル・フーコーの『狂気の歴史』だろう。

1992.3.10. (H4) 『そっと触れられた表面』  銀座セゾン劇場

1994.7.8. (H6)  『しじま』             銀座セゾン劇場

1996.6.9. (H8)  『ひよめき』           銀座セゾン劇場

1997.11.22. (H9) 『卵を立てることからー卵熱』 相模大野大ホール

1999.5.15(H11) 『ひびき』            銀座セゾン劇場

2001.5. ? (H13)  『 ?  』

2008.10.12.(H20) 『時のなかの時―とき』   世田谷パブリックシアター

2009.3.8. (H21) 『金柑少年』          東京芸術劇場中ホール

2009.12.5. (H21) 『卵を立てることからー卵熱』 東京芸術劇場中ホール

2007年に観たラビア・ムルエの「これが全部エイプリル・フールだったなら、とナンシーは」は、優秀な作品が数多く上演されたTIFの中でも、チュニジアの「囚われの身体達」と共に、特別な輝きを放っていた。それは一つにはこの作品にレバノンから来たという付加価値がついていたからでもある。中東関係の仕事や研究をしているような人達を除いて、一般的な日本人にとってレバノンは馴染みの深い国とは言えない。また、レバノンについての正しい知識や現実に合ったレバノン像を持っている人は少ないと思われる。日本では「レバノン」という国に、「内戦」「危険」というイメージがあり、実際には1990年代以降しばらくの間、南部を除いて外国人もほぼ安全に旅行できたのだが、一部の物好きな人達(失礼、しかし筆者もその一人)以外は旅行者の数も決して多くはない。そして「エイプリル・フール」が東京で上演された前年の2006年には、首都ベイルートを始めレバノン全土が再びイスラエルに空爆されるという危機的状況に陥った(この想像し難い状態は、「エイプリル・フール」が上演されたにしすがも創造舎で同時に行われたビデオ・インスタレーションでも紹介された)。また当時は2002年の「911」事件に端を発する「中東=ムスリム諸国(レバノンはキリスト教徒の数と力がかなり強いのだが)」に対する米国の一種のネガティヴ・キャンペーンのようなものが今よりあった。そのような中、中東映画祭や中東講座を熱心に開催していた国際交流基金とレバノンやチュニジアの演劇を紹介したTIFの英断には今でも心からの喝采を送る。もっとも日本の知識人と国民は、米国などに比べると、はるかに冷静で中立的な視点で物事を見ていたのも事実である。

舞台の構成はごくシンプルだ。中央に吊り下げられたスクリーンとその操作卓があり、上手にはテーブルとソファが二脚。テーブルには一つだけ紙コップが置かれている。スクリーンの後ろは演奏者(主にシャルベル・ハーベルが担当)のためのスペースとなっている。
大きく分ければ、(1)テーブルとソファ=映画の監督(リナ・サーネー)と検閲官(ラビア・ムルエ)が、映画のコンセプトや内容に関して議論する場(2)スクリーン上=制作された映画のストーリー(3)操作卓とスクリーンの裏手=映画のために必要な演出を行う場所――と、三つの領域を行き来しながら公演は進行していく。

・劇と現実の接点である幕切れと幕開け

 寺山修司にとって、劇が終わった後で役者がステージに並んで観客の拍手喝采
を浴びるなんて許されないこと、トンデモナイ、アリエナイことだった。劇場の
内と外とは同じひとつの現実だ。観客は、劇が問題提起したことをそのまま家庭
や社会に持ち帰り、自分を主人公にしてすぐさま劇を始めなければならない。観
客席で安穏と芝居を楽しむことは許されないのだ。

 『デッド・キャット・バウンス』は「お金」が主役のショーである。一般に我々が考える「お金」とは貨幣のことであり、ものやサービスと交換するための交換価値として存在する。一方「お金」には資本という側面もあり、生産とストックを同時に生み出す投資は、資本主義社会にとって必要不可欠なものである。ところがごく最近まで「お金」の教育と言えばまず消費者教育で、収支のバランスを考えた消費活動と貯蓄の大切さが教えられてきた。投資に関しては、専門知識や分析力が要求されるのでプロに任せるものとされ、市場が開放された今日でも自分とは縁遠いものと感じている人が多い。こうした現状に対し、演出家クリス・コンデックは、株式市場の虜になった自身の体験から、このような関係性を演劇の場に持ち込めないかと考えたのである。

 長原豊が怒っている。

 曰く、目下のところわたしたちは、いわゆる市場原理主義から逃れられないような状況にあるという。規制緩和の果ての二極化。それも、「勝ち」はほんの一握りの人々で、ほとんどは「負け」。いったい、こんな世の中に誰がしたのか? まったくもって正論である。

 3日間ぐらいずっとあそこにいた気がする。
 世界との折り合いがうまくつかない。
ネオンサインや音楽に満ち満ちた、きらきらする世界は不自然でグロテスクだ。奇妙に距離を置いたところに存在しているように感じられる。
 観劇後、生まれたばかりの赤ん坊のように、世界を感じた。私の精神と肉体は血を流していた。この肉体に血が通っていることを思い出した。長く忘れていた。
 "生きる"という難題と重責を、観客は両肩にずしりと乗せられて劇場を後にする。

 会場内に案内されると、普段舞台として使われるスペースに客席が仮設されていて、プロセニアムア
ーチの向こうには本来の客席がビニールに包まれて並んでいるのが見える。その手前には、血の池を
思わせるように赤い液体が舞台の端から端まで長方形に覆っている。
 開演が告げられる前からすでに作品は進行している。正面の壁には"A very long silence"という戯
曲の一行目が投影されているからだ。

 池袋西口公園に建てられたプレハブ、これが『個室都市 東京』の舞台である。一般的なドア一枚分の入口の横には赤と黄色のロゴマークをあしらった立て看板、このロゴマークがとても印象的である。光が射してくる外界への脱出、といったイメージを喚起する緑と白の避難誘導のマークとは対照的に、外界からの避難先としてのイメージを与える。外界からの避難先、それこそがマンガ喫茶、個室ビデオなど「個室」に投影されるイメージなのかもしれない。そしてこのイメージこそがこの作品の大きな軸のようにも思える。

「個室都市 東京」は池袋西口公園に屹立していた。いや、とぼけた顔でおわしたのである。
のっぺりとした壁面の仮設プレハブの入口ドアを指し示しているのは、レトロな感のある電球を埋め込んだ矢印つきのスタンドサイン。赤の地に黄をあしらった対照色相配色がなんだか妙な元気さである。公園はざわついていた。風が冷たい。プレハブの窓から熱心にのぞきこんでいる老人がいた。噴水の近くで、待ち合わせをしていたらしい十代の男女数人のグループには「個室都市 東京」は関心の外のようだ。円柱を横倒しにした椅子に腰かける、肉体労働者と思しき人たちにとっても。

 ばっか、みたいに寒い日だった。ひょっとすると、その日が冬の始まりってやつだった
のかもしれない。暦では確か立冬とかいうやつ。小学校のときに習ったことだけれど、か
ろうじて覚えている。

 冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也。

 すとーんと腑に落ちた。ここを通った時、後頭部の隅っこの方に潜んでいて、意識に上ってこなかった何かが――。
 
 「個室都市東京」は、東京都豊島区の池袋駅からほど近い、池袋西口公園でやっている。やっているといっても、何をやっているんだか、よくはわからない。なんだか、個室ビデオ店なるものを作ったのだという。私は、台本があって劇場(必ずしも劇場じゃなくても、テントでも野外でもいいのだけれどともかく会場)でやる、いわゆる芝居らしい芝居が好きなので、こういうドキュメンタリーっぽいというか、役者を使わない作品は得意ではない。でもちょうど池袋で時間が空いていて、話の種にというのもあったし、何なんだそれは?という好奇心もあって出向いてきた。

 東京は世界でも有数の「都市」だ。日本にいて東京を知らない人はまずいないだろう。政治経済の中心地として、文化情報の発信地として、皇居のある場所として、東京は特異な位置を占めている。しかし本当に我々は東京を知っているのだろうか。「東京」とは多くの街、地域の集合体であり、それ以上にイメージの集合体である。地形的には地続きであるにもかかわらず、発信するイメージは見事に異なる地域が隣接しており、その全体像を捉えるのは難しい。そもそも東京という都市は、見る人によって姿を変える万華鏡的な場所なのである。
 都市計画によるきらびやかなイメージ作りにもかかわらず、都市にはいつもいかがわしさがつきまとう。それは東京に限った話ではなく、世界中どこの都市にもみられ、いわばこの両義性の氾濫が都市の属性といっていいだろう。そして対立する項を支え両者ををつなぐのは、都市に集まる人間である。

 言葉を憎むこと、「からだ」と言うあきれるほど自明な枠組みを拒否すること。黒田育世が自身/〈BATIK〉のダンサー達の「からだ」において指向するそれ(ら)は、自・他のない甘美なる運動、空の存在によって初めて色をもつ海と、水の蒸発によってのっぺりとした青の上に白い雲を内包させる空とが見せる、言葉も「からだ」も意識されることなく、曖昧な枠組みの中で永遠に続いていく運動を目指すための駆動力である。言うまでもない事だが、そこには不可能性の姿が強く露呈している。虚構でありながらも実在である舞台と言う枠組みの中で、どれだけ「からだ」からの超脱を目指そうとも、そこに表れるのは、「からだ(身体)」であり、それが誘発させる言葉にすぎない。

 舞台前方から客席の目の前までだけを長方形に切り取るように当てられた照明。その奥の暗闇から、2人のダンサーがそれぞれに現れる。2人はかすかな雑踏の音のみが聞こえる静けさの中で対峙する。時おり聞こえる、車が遠くを通りすぎていく音が、どこかの街の片隅でこのやり取りが行われている印象を与えていた。これは裏通りでくすぶる若者たちの一面なのだろうか。彼らが身につけている衣装も、Tシャツやポロシャツ、ジーンズにスニーカーといった、いかにもストリート上の若者の格好である。そんな若者の1人が喧嘩でも始めるような風体で、舞台上のダンサーの一方が他方に対して鋭く手脚を差し出すが、一方はそれをものともせず、攻撃してくる相手を視界にすら入れていないかのように、冷静に佇んでいる。そしてまた1人、暗闇からダンサーが現れる。いつのまにか新たなペアへと移り変わり、同じような対峙が始まった。より荒々しい動と、それを沈黙のうちに受け入れる静。ダンサー2人の身体の関係性がより強く見えてくる。寸止めのジャブを出し、蹴りを入れ合いながらも、ゆっくりと頭を他方の方にもたげ、時に身体を痙攣させながら、次第に2人は身を寄せあい、2人のダンサーが1つになっていく。が、次の瞬間にははじけるようにして再び相反する2つの身体になる。互いに引き付け合い、また互いに反発していくダンサーの間に働く力は磁力のようだ。流れるように静かに入れ替わったダンサー、波打つような彼らの動き。そのしんとした空間に、雑踏の音がかすかに響きつづけている。

 舞台は高層と低層に別れている。
 低層部舞台はさらに上手側に手前に傾斜のついた二等辺三角形が底をこちらにむけている。下手側にはそれよりやや高い位置に奥に傾斜した頂点の鋭角がきつい三角形だ。どちらも足場の上に乗り、中空に浮かんでいる。役者はその床下からも現れたりもする。高層部はギャラリーから渡した橋の上に、中央部に空間を切り、そこも重要なアクティング・スペースである。

 一度見ただけでは、頭の中がぐっちゃぐっちゃになって、心底わけがわからない。なのに、妙に記憶の染みになりそうなひっかかりが、たくさん出てくるお芝居だ。
 私は、松井周オリジナルものとしては「家族の肖像」と「通過」の再演を、また演出作品ではマリウス・フォン・マイエンブルグ作「火の顔」を観劇した。内向きのベクトルが強いそれらにくらべると、今回の作品は、バッカスの祝祭やカーニバル的な気分も満載。視覚面でも、どことなく地平線がほの見えているようでもあり、とりあえずはかなり開放感のある印象だった。

 松井周の描く家族の肖像は、ルキノ・ヴィスコンティのそれにも似て、どこか歪なとこ
ろがある。
 同じ歪とはいえ、ヴィスコンティが貴族の没落をデカダンたっぷりに表現するのに対し、
松井周はグロテスクな中にどこかバカバカしいユーモアがあり、笑いを誘いながらも後味
はかなり苦い。
 そもそも家族が家族たり得た時代は、とうの昔に過ぎ去り、今や過去への望郷の念の中
にしか存在しない。戦後の高度成長期がもたらした核家族化の波は、古い日本の家長制度
を崩壊に導いた。制度に縛られなくなったおかげで自由を得はしたものの、同時に伝統を
も失い、柱のいなくなった家族は、同じ家に住んではいるにもかかわらず、一家離散状態
へと陥った。
 前々作の『家族の肖像』は、そんな家族なき時代の家族探しとでも呼ぶべき物語であり、
前作の『伝記』では、嘘で固めた自分史のほころびによって侵食され、精神的に自爆する
家長の物語であった。それらで家族の再生と崩壊を描いた松井周。3度目の振り子はどち
らに振れるのか? それともまったく新しい軌道を描くのか?

タイトルが『あの人の世界』であるからには、「あの人」の内的世界を色々に切
り出してみせているのだろう、そこまでは予想できる。では「あの人」とは誰な
のか? を考え始めると、とたんに見通しが利かなくなっていく――そんな印象の
公演だった。
全体としては、(1)ホームレスのダンサーたちが、ホームレスドクター
(HLD)の指揮下でミュージカルを作ろうとしているところに「女」が訪れる
(2)目的を見失っている「男」が、「ビラ配り」との出会いをきっかけに「運
命の人」を探す(3)「上の男女」と「嫁・姑」の対立――これらが物語の大きな
軸ということになる。
それぞれの軸、あるいは個別のキャラクターに注目すればむしろ展開を追いやす
くもある一方で、それぞれの軸を構成するエピソードが他の軸に繋がる、あるい
は他の軸へ繋げられている(*1)といった役割を担っていることは無視できな
い。それらが組み合わされたところに立ち現れてくる複雑さや曖昧さが、独特な
奥行きや味わいを与えてくれるからだ。

 この芝居を観ると、タイトルが気になる。『あの人の世界』。チラシにある演出の言葉の「あの人」には全てカッコが付いている。この演出の言葉の「あの人」とタイトルのあの人。そのカッコが決してなくならないのが、面白くて少し哀しい。

 松井周(サンプル)の『あの人の世界』は、現代日本に於ける不条理演劇のように思われた。20世紀フランスの不条理演劇作家であるArthur Adamovの戯曲、『タラーヌ教授』(Le Professeur Taranne)でも、主人公タラーヌ教授がアイデンティティの確実性を主張すればする程、それは脆く崩れ去った。Adamovの場合は実際に見た悪夢を舞台上で表現したが、『あの人の世界』ではそこに他者と他者による自分の存在というテーマを取り入れ、全編ファニーな要素で味付けする事で、現代日本に於ける不確実性の上に安住する「リアル」を表現している。

 本稿が扱う『ろじ式』に特に当てはまることだが、多くの維新派の作品においては、表象の対象となる物語は重要な役割を果たしていない。維新派の舞台が持つ豊かさは、物語にではなく、それを表現するための物質的諸手段が生み出す表象作用それ自体の分厚い層にある。その特色は、舞台上で大々的に展開される諸事物の物質的運動が立ち上げる物語未満の独特の感覚的世界にあり、その凄さは、それが圧倒的な力で展開されることにあるのだ。
 従って維新派の作品を論じるためには、表象される物語とそれを表象する手段の間で働くかかる意味作用を明らかにしておく必要がある。この〈虚構〉と〈現実〉の間の意味の層を、〈虚実〉と呼ぶことにしよう (ii)。それは、「役の下に役者を隠す」こと(〈虚構〉と〈現実〉の一致)を理念とするリアリズム演劇にも存在し、当然、「役と共に役者を見せる」非リアリズム演劇においては極めて重要な役割を担う。そして、言わば「役よりも役者を見せる」維新派においては、それこそが主戦場となるのである。以下では、まずかかる維新派的〈虚実〉の特長を分析し、それを前提に『ろじ式』を検討することにしよう。

会場に行ってまず驚かされたのが、普段ならただのグラウンドであるはずの場所に建てられた「屋台村」だった。食べ物、飲み物を扱う屋台の間には、私はタイミングが合わず出し物を見られなかったが、一角に小さなステージまで設置されている。劇場を祝祭のための空間と捉えるならば、そこまでの橋渡しとして「屋台村」という非日常的空間までも一緒に設置してしまうという発想に、否が応でも興味をかき立てられる。

 文明に疲れたら

 心を自然にまかせ

 無心に体を動かしな、

 すると詩が生まれるから。