タイトルが『あの人の世界』であるからには、「あの人」の内的世界を色々に切
り出してみせているのだろう、そこまでは予想できる。では「あの人」とは誰な
のか? を考え始めると、とたんに見通しが利かなくなっていく――そんな印象の
公演だった。
全体としては、(1)ホームレスのダンサーたちが、ホームレスドクター
(HLD)の指揮下でミュージカルを作ろうとしているところに「女」が訪れる
(2)目的を見失っている「男」が、「ビラ配り」との出会いをきっかけに「運
命の人」を探す(3)「上の男女」と「嫁・姑」の対立――これらが物語の大きな
軸ということになる。
それぞれの軸、あるいは個別のキャラクターに注目すればむしろ展開を追いやす
くもある一方で、それぞれの軸を構成するエピソードが他の軸に繋がる、あるい
は他の軸へ繋げられている(*1)といった役割を担っていることは無視できな
い。それらが組み合わされたところに立ち現れてくる複雑さや曖昧さが、独特な
奥行きや味わいを与えてくれるからだ。
こうした全体の構成は、舞台の構造にも影響を与えているのだろう。
傾斜した二つの三角形が並べられ(大きい方は長辺が客席に向かって開け、下手
側へ下るように傾斜がつけられている。小さい方は頂点が客席側に向かってせり
上がるように傾斜がついている)、さらに上層のキャットウォーク部分(ここに
設置されているモニターに何度か映像が流れるが、「姉」はこの映像だけにす
る)と舞台の外周部分、計4つの領域で演技が進行していく。
上層は概ね「上の男女」に代表される一般人が日常生活で接する世界に、2つの
三角形はホームレスたちに代表されるアンダーグラウンドの世界に対応している
ようだ。これを、頭の「内」と「外」に見立てることも可能だろう。また、上方
のキャットウォーク部分にいた登場人物が舞台下層へ「下りる」ことはあって
も、逆に「上る」ことはない点は象徴的でもある。
但し、客席前方に座っていると、上下2つに分割されている舞台の両方を同時に
見渡すのは少々厳しいという憾みがあるため、工夫の余地があるかもしれない。
舞台の構造に着目した場合、上層と下層を繋ぐ媒介が何であるかも問題となるだ
ろう。
この公演では小道具としてモニターと携帯電話が使われているほか、「上の男」による
放尿シーン以外では、キャットウォーク上の「上の男」と外周にいるHLDが直接
語り合うシーンがある。
中でも特徴的なのはモニターの使われ方だろう。例えば、その呼び名も「動物」
であるキャラクターが、下層で「動物の人間に対する反逆」ないし「人間の動物
化」の思想を展開させているシーンでは、同時に上層のモニターでは無防備に腹
を撫でさせている犬や猫の映像が流れている。また、「ネズミ」の頭の中で交わ
されているらしい、「姉」との対話のシーンも印象的だ。
さらに言えば、携帯電話をかける側は、それぞれ盲人と徘徊老人とおぼしき
「嫁・姑」の組み合わせであるのに、受ける側である「上の男」はまともに応対
しようとしない。結果、「嫁・姑」が舞台の上層に上ってくることもない。
これらを踏まえた上で、『あの人の世界』に出てくるキャラクターに共通する要
素は見いだせないものか? そこで一つ挙げることができそうなのは、「拒絶」
と「承認」の対立関係だろう。
言うまでもなくホームレスたちは社会を拒絶した、ないし社会から拒絶された者
たちに他ならず、彼らは「革命」によって社会に自分たちの思想の承認を迫ろう
としている。そして彼らの持つ思想もまた、「人間性の拒絶」とでも呼ぶべきも
のであることは注目すべきだろう。これには、前述した(a)「人間の動物化」
に加え、「『動かす』んじゃない、『動かされ』ろ!」という台詞に端的に表れ
ているような(b)「肉体による理性の克服」という側面もある。
ここにおいて、「女」がホームレスたちに自身の承認を迫ることが話の発端と
なっている、という入れ子構造は分かりやすいが、同時に「女」は「痒くて勝手
に動き出す身体を抑えるため」ダンスをしているのだという動機も興味深い。彼
女の場合、「バイト、どうしてるんですか?」などという台詞などからも社会と
の繋がりを完全に断てているわけでないことは窺える半面、上記の(b)は満た
している。半端な形でホームレスたちに「承認」されたものの、結局は「拒絶」
されるという結末は、必然的だったのかもしれない。
こうした「拒絶」と「承認」の鋭い対立は至る所に見て取れるわけだが、登場す
るキャラクターたちは個々の内面においても同様の対立を抱え込んでいる、とい
う設定が今作で目を引く仕掛けといえる。
「上の男・女」、および「嫁・姑」の組み合わせは、1対1の関係で捉えても2
対2の関係で捉えても、見事に対称をなしている。「男」の場合は、忘却によっ
て過去の自分を拒絶すると同時に、新たに「運命の人」を探す=「運命の人」の
承認を得ようとするために動き始める。
ホームレスたちも同様である。「ウサギ」と「ネズミ」はどうやら強烈なトラウ
マを抱え込んでいることが社会の拒絶に繋がっているらしい。さらに言えば、
「ウサギ」は他のホームレスたちとの関わりを拒絶し、個人として「女」に承認
を求めるもののすげなく拒絶され(*2)、しかも「姉」に対しては、決して果
たされることはないのに承認を求め続けている。
「動物」も例外ではなく、「あらゆる動物のオス」と宣言するものの、しかし肉
体的には明らかに女性なのであり、やはり自己を拒絶しようとするキャラクター
といえる。
HLD(*3)の場合は、少々事情が異なる。彼はホームレスたちをまとめ上げ、
自らを、というよりも自らの肉体性を承認せよと「男」に迫り、さらには「上の
男・女」を下層に下ろすという重要な役割を帯びている、いわばトリックスター
だ。だが彼もまた、医師としての社会的地位を何らかの理由で拒絶したからこ
そ、ホームレスになったのである。
上述の見方からやや外れるのは「ビラ配り」だろう。彼はいったん「男」から承
認を得て、「ずっとこのビラだけ配ってようか」などとまで言い出すのだが、終
盤で再び登場したときには「ビラを配る」という任務を放棄して、ゴムボートの
中で釣り糸を垂らしている。目的を果たしたと思っている「男」を否定しようと
している。初めは「拒絶され、承認される」立場だったものが「拒絶し、承認す
る」立場に入れ替わっているわけだ。その変化の理由は明確には語られないが
「自らの任務の拒絶」が契機になっているという点で、HLDと類比すべきキャラ
クターなのだろう。また、HLDが「ビラ配り」に干渉するシーンは出てこないこ
とを考え合わせると、ビラ配りもまたトリックスターとしての役割を負わされて
いるのかもしれない。
ストーリーの構成と舞台の構造とが連動している、あるいはパラレルであること
や、ストーリーの内部における対称性や入れ子構造が松井周の劇作の特徴だと筆
者は考えているが、今作『あの人の世界』においても、その特徴は遺憾なく発揮
されたと言うべきだろう。
(*1)「上の男」が放尿するシーンを挙げることができる。台詞を伴わない動
作、しかも一方向的な運動であるからには、「繋がりがある」というよりは「繋
げられている」という表現の方が適切だろう。このシーンでかかっているBGMは
「Raindrops Keep Falling on My Head」だが、曲中の「Because I'm free,
nothing's worrying me.」というリフレインがとりわけ印象的に響く。「上の
男」は犬としての自意識に目覚めつつあるためか実に気持ちよさそうに、いわば
生理的な自由を謳歌している一方で、舞台下層でそれを浴びるのは、ホームレス
あるいはアウトサイダーとして束縛からは自由な、そして社会的には不自由な立
場にいる者たちである。
なお、この場面での放尿は、冒頭で「上の男」が犬の墓に水を供える際、必要以
上に高く柄杓を持ち上げて注いでみせる仕草と比定することも可能だと思える。
(*2)序盤、仲間に加えてほしいと訪れた「女」を自転車で轢くのがウサギで
あるのに対し、ここでウサギが「女」に馬乗りになってビンタされている、とい
う対比は興味深い。
(*3)HLDはシャツを引き裂いて筋肉を露出させたり舞台上で懸垂するシーン
がある一方で、ペニスバンドを着けるシーンもある。舞台上で実際のペニスを露
出させるわけにはいかなかったからかもしれないが、他のキャラクターの内面的
ないびつさを考えれば、過剰な男性性を誇示しようとするキャラクターを表現し
ているのだろうと私には思えた。