3日間ぐらいずっとあそこにいた気がする。
世界との折り合いがうまくつかない。
ネオンサインや音楽に満ち満ちた、きらきらする世界は不自然でグロテスクだ。奇妙に距離を置いたところに存在しているように感じられる。
観劇後、生まれたばかりの赤ん坊のように、世界を感じた。私の精神と肉体は血を流していた。この肉体に血が通っていることを思い出した。長く忘れていた。
"生きる"という難題と重責を、観客は両肩にずしりと乗せられて劇場を後にする。
全編は散文的なテキストで構成される。精神病を患い自殺願望のある"わたし"。時折挟まる医師との会話らしきものが唯一客観的に見られる部分で、あとは長い長いモノローグのような"わたし"の心理が断続的に描写される。
とりとめもなく現れては消える思考。そこでは引きのばされたり、ジャンプしたりして時間感覚は失われ、それを追いかける観客も開演してからの時間の経過を次第に見失う。人間の奥底に深く落ちていくような感覚に襲われる。
ロビーからその体験は始まる。ロビー中央の床面には平滑で光沢のある深紅の板が置かれ、そこに時折煙を上げるオートバイと、ドラムセットの一部が沈み込んでいる。一見水没しているかのようで、静謐な眺めだ。場内は客席と舞台が通常とは反転して使用されており、その境界はロビーにあったものと同じ赤い床面で隔てられる。舞台空間に並ぶ座席の赤い背もたれは、一様に透明なビニールで覆われて異様な雰囲気を醸し出し、そこにバスケットゴール、ロッカー、卓球台、サンドバッグ、トレーニングマシン(時折十字架のように見える)など体育館のような場所を連想させるものが点在する。
客席に座り、見るともなく舞台を眺めていると、赤い床面に映り込む光がかすかに揺らめいているのに気が付いた。ようやくそれが固いものではなく、赤い水で満たされた水槽であることがわかっていきなり、ゆらゆらと世界が歪みはじめる。
心音に似たドラム音。振動を感じる。客席が揺らいでみしみしいう。
舞台のあちこちに時折現れるろうそくの明かりのような煌めき。天井から逆さ吊りになる長髪の人間。
台詞の間に時折字幕が投影される。
"Silence"
"A long silence"
その単語は死を思わせる。
腕からものすごい量の赤い液体を滴らせる人間。
真っ赤な池から突如出現する電話ボックス。池に吸い込まれていく人間。
それらの光景は、悪夢に似て歪で美しく、観客の心を攫う。しかし、この上演の本当に力のある点はそこではない。
モノローグのようなテキストは、男女も年齢も国籍も様々、10名ほどの人間で紡ぐようにして代わる代わる語られる。中には日本語が流暢でない人物もいるが、彼らは俳優と言うよりは、剥き出しの人間とも言うべきあり方で舞台上に存在しており、そのことに日本語の巧拙は何ら影響しない。むしろ正直に語られる言葉は切実な色合いを帯び、流暢に話す日本人の言葉の方が時に軽々しく聞こえるほどだ。何かの役を演じるというよりは、自分そのものを背負って舞台に立っている。そのことで、舞台上の言葉はその時その場でその人自身から発せられる叫びとして、実にリアリティを持って迫ってくる。そこにあるのは"精神病者の言葉"ではなく、もっと普遍的な、誰もが抱える生きることの苦しみと生きることへの切実な希求である。それはテキストとひたすら真摯に、愚直に向き合う作業からしか生まれない。
テキストをどう立ち上げていくかということは重要な問題であり、様々に追求されている。今、日本のゼロ年代の作家たちの描く世界でも、テキストが散文的になり、物語や演じられる主体が喪失する傾向にあるように思う。そして彼らが描き、発する言葉は、限りなく軽い。軽いというのは別に貶す意味で使っているのでなく、単純に、重さがないのである。
彼らは単語の羅列で世界を認識する。柴幸男の『わが星』は単語を韻を踏んで連続させることでめまぐるしくイメージを展開させ、篠田千明の『アントン、猫、クリ』では毎日見る風景が単語の羅列で描写される。また演劇からは離れるが、作曲家の安野太郎は『音楽映画』のシリーズで映像を無数の単語に変換し、それを声に出し重ね合わせることで音楽を生み出す。彼らの使用する言葉は観客の脳内にあるイメージを作り出すために用いられるものであり、そこに血液は通っていない。
それらの表現を現在20代である私は「リアルである」と感じる。まさにインターネットの世界では、個々の考える主体は喪失し、一つの巨大な意識が共有される。ハイパーリンクによって単語と単語が結ばれ、膨大な量の単語の結びつきによって世界が構築されている。そこではどの単語も等価である。「ふとん」も「ジョギング」も「おめでとう」も「東京」も、「生」も「死」も、同じ軽さである。私たちはそのような世界に育ち、そのような目で世界を見ている。黒い円盤としてある重さと手触り、質を持っていたレコードがCDになり、MDになり、とうとう重さのないデータになったように、言葉もどんどんその重さを失ってきている。
『4.48サイコシス』においても、単語や短文の羅列のような表現は随所に見ることができる。が、その重みが全く違う。
以下は覚書なので正確ではないし、上演時のような力はないが、読んでみて欲しい。
「ひとといられない/ひとりでいられない」
「ここはわたしが生きていたい世界じゃない」
「神様がむかつく」
「I can't find you」
「蓋が開く/一条の光」
「わたしがユダヤ人を殺しました」
「犬と一緒に寝て全身のみだらけ」
「わたしをこれに殺させないで」
「消える」
「見て」
これらの言葉が重いのは、それが自らの内面を語る言葉だからである。身を切るようにして絞り出された言葉だからである。肉体があり、血を流している。ここには人間が確かに存在している。
私たちは自らを語らない。自分をさらけ出すのはスマートなやり方ではない。しかし舞台上の人間たちから放たれるこれらの言葉は、深く、鋭く、観客の胸をえぐる。この言葉たちを前に、交換可能な無数の言葉は無力である。
私は軽い言葉たちをリアルだと認識すると同時に、これらの言葉たちもまたリアルであると感じる。軽い言葉と裏腹に、私たちは他者と繋がりたいという強烈な欲求を抱えている。それでいて自ら他者との関係は絶ってしまう。誰かといてもイヤホンで耳を塞ぐ。携帯や小型ゲーム機の画面に目を落とす。でも一人になるのは怖い。どうしようもなく怖い。側にいて欲しい。自分の胸に空洞があるのを感じる。何をしても生きている実感なんてない。どこにも居場所がない。
しかし悲しいことに、私たちの悲鳴はそれでもどこか軽い。精神と肉体がひとつであるという状態が信じられない、と舞台上の人物は言う。私たちは肉体が信じられない。コンピュータに支配されたバーチャルな世界で、私たちは一つ一つの命の重みの実感を、失いつつある。
この上演における言葉の重みを考える上で、重要と思われる展示がある。
飴屋法水が2005年に行った、「消失」をテーマにした展示「バ ング ント展」("バ ング ント"とは"バニシングポイント"の文字が一部消失したもの。宣伝美術に用いられている無数の顔のない人々の写真は、この展示において使用されていたものである)。飴屋氏はこの展示で、24日間完全暗転した箱に籠もり続けるパフォーマンスを行った。以下、バ ング ント展HPに記載された本人コメントより引用する。
「・・・それはおそらく、幸せのためのささやかなテロ、のようなものになるに違いないと・・・その消去行為の先には、絶望ではなく、必ず希望があると・・・僕は信じています。 ・・・(中略)・・・失踪や自殺のような形で自分を消したい人もいるでしょう。戸籍を消す人もいるでしょう。指紋や顔の一部を消す人もいるでしょう。ジェンダーを消す人もいるでしょう。ペニスを消す人もいるでしょう。子供を生まず精子も売れなかった僕はDNAを消してしまうのでしょう。・・・ 」
しかしいかに消失を試みても、肉体は確かに存在しており、そこに人間の限界と可能性がある。
今回のテキストも、人間の消失を巡るものである。そしてその消失は、仮のものではなく真の喪失である。だが公演パンフレットに記載された「あなたにとってリアルとは?」という設問に対する回答は、「外を裸足で歩く3才のウチの子供は、まだ足の爪を爪切りで切る必要がない。」というコメントと、おそらくは飴屋氏の子供のつま先の写真である。4年前、消失を通して存在することの答えを求めた氏が、今より強く生そのものと向き合っているのだと感じる。彼のDNAは消えなかった。彼の血と肉体は、生きて動く人間に受け継がれた。想像に過ぎないが、それは本当に大きなことなのであろう。
自殺という形で世界から消失したサラ・ケインの言葉に、彼は血液と肉体を与える。24日間暗闇を辿り、新しい命を獲得した飴屋法水だからこそ与えられる。「まだこの世に生きている人の口で、/他人の声で」(演出ノートより)。
物語は"わたし"の自殺によって幕を閉じる。朝が来て、あたりが明るくなってゆく。強い逆光。人物達の表情は見えない。聞こえていた水の音が潜ってゆくようにだんだん低くなり、やがて心音と共にふっつり止む。静けさが訪れ、あたりには虫の声のみが残される。不思議と、空気が通っていくときのような心地良い感じに客席は包まれる。私たちは静かに、失われた命に思いを馳せる。
と、舞台上に大勢の人が入ってくる。彼らは数時間前に私たちがしたように、やってきてはばらばらと席に座り、皆何かを待っているようにこちらを見る。
舞台と客席が再び反転する。
今度は他人ではない。"私"の番が来たのである。
どこかあっけなく終演を告げるアナウンスが流れ、幕が閉まってゆくが、幕が閉じてもなおその向こうから見られているのを感じる。観客はいつまでも舞台の上に取り残される。長い長い生が"私"たちを待っている。
あなたは生きている、と言われた気がする。私たちは血液と肉体を与えられる。
ロビーへと出ていく暗い道で、ふと虫の声が聞こえてきた。全身を振り絞るように口にしていた女性の言葉が甦る。
「友と語らい楽しむ、ため」
「笑顔でコミュニケーションをとる、ため」
「信頼される、ため」
「自由である、ため」
人生には何と多くの無言の重責が伴うのだろう。
どんなに全てのものが軽くなってゆこうとも、この肉体には重さがある。心臓が動いていて、血が通っている。それはひどく重い。しかしそれに耐えねばならない。それを忘れてはならない。命の重みが両肩にのし掛かっていた。
(了)