今回の劇評コンペについては、次々とHP上にアップされていく投稿劇評を読みながら、評価のためのクライテリアを考えつつ、メモを取っていった。それらのメモは、まずは「〜ではない」という否定形になった。「観劇体験記ではない」「描写だけでは成立しない」「モノローグではない」「劇評/批評は自己表現だが、ベタな自己表現ではない」。まとめてしまえば、今回求められている劇評はブログ的劇評ではない、と言い換えてもよい。さらに、「原作/戯曲テクストがある場合、それを読むべき」、「調査すべきことは調査すべき」、「問題提起や分析が明示的に書き込まれているべき」といった幾つかの「〜べき」も加わった。このメモに従って候補作を絞ることになったが、そこから先は、それぞれの劇評が取り上げた作品についての審査員個々人の見解や劇評の文章そのものの力が評価の論点となるので、ある程度は相対的たらざるをえない、と私は考えた。
ただし、PC(ポリティカル・コレクトネス)が前提とされていないもの、即ちジェンダーや植民地主義、あるいは大文字の権力をめぐる問題系についての意識が薄いものは、それがたとえ上記のクライテリアを満たしていても、受賞作とすることは許容しないという決意が私にはあった。PCでなければ認めないということではない。PCが既に、あらゆる言説のひとつの規範的価値基準であることを前提に、その基準に従うにせよ批判するにせよ、その前提が意識されていなければ困るということである。舞台芸術関係の大半のブログ言説のみならず、主要マスメディアの舞台芸術関係の言説もまた、日本語圏ではPCなどないかのように振る舞っているからこその、私個人の譲れない立場である。
受賞作になった三名の方々の劇評については、上記のクライテリアをクリアしているということで、特に異存はなかった。そのうち、百田知弘氏の二つの劇評(『フォトロマンス』と『あの人の世界』)については、分析的な突っ込みが足りないと感じたが、取り上げた上演を限られた字数でイメージさせる氏の文章力が印象に残った。特に『あの人の世界』の劇評では、要約困難な松井周の戯曲内容を「拒絶」と「対立」という記述用語によってうまくまとめ、この作品の主題として提示できたという意味で、よくできた劇評だった。受賞作以外では、柳澤望氏(『4.48サイコシス』)、香取英敏氏(『あの人の世界』)、それに柳生正名氏(『神曲――地獄篇』)の劇評がそれぞれ高い水準にあると思われた。