会場内に案内されると、普段舞台として使われるスペースに客席が仮設されていて、プロセニアムア
ーチの向こうには本来の客席がビニールに包まれて並んでいるのが見える。その手前には、血の池を
思わせるように赤い液体が舞台の端から端まで長方形に覆っている。
開演が告げられる前からすでに作品は進行している。正面の壁には"A very long silence"という戯
曲の一行目が投影されているからだ。
開演を予告するアナウンスがある頃には、演技スペースに反転された客席では、戯曲には指示のない、
ボクサーとトレーナーの寸劇が始まっている。客席の間の通路で、グローブに拳を打ち込むトレーニング
がしばらく続く。
日本人らしい若者からのパンチをグローブに受ける白人の中年男が「モットチャントヤレ、ドウシタンダ」
と片言の日本語で叫びかけながら殴りかかる。それが導入のようにして「デモトモダチイタデショ、
トモダチイッパイイタデショ」という風に、日本語がまだ上手くない欧米人が発音するような調子の声が
増幅されてスピーカーから響く。
飴屋法水演出によるサラ・ケイン作『4.48 サイコシス』は、このように始まった。
さて、Sarah Kaneの4.48 Psychosisを日本語で上演することには、いくつかの困難がある。
まず、翻訳にかかわる問題がある。Sarah Kaneによる戯曲4.48 Psychosisは、韻文的な性格を持った
戯曲として、シェイクスピアから20世紀に至るまでの英文学的伝統に対する緊張に貫かれているはずだ。
しかし、現代演劇として上演可能で韻文的な性格をもった戯曲の日本語は文体として確立されていない。
この点ですでに、4.48 Psychosisの美質の多くは翻訳不可能である。
それだけではない。英国には、そうした戯曲を上演する演技の様式があり、韻文的性格をもった戯曲を
上演するときには、たとえ正統とされる技法を用いないとしても、その伝統に対する緊張関係を無視できない
と考えられるのに対して、日本の現代演劇ではそのような伝統との緊張関係が無い。
その点で、飴屋法水が、多様な民族的背景を背負った日本語話者をキャスティングしたこと自体が
様式的な水準での創造であり、原作に対する文体的な対応として評価できる。
10名を越える出演者には、朝鮮半島の出身だろうと思われる人もいれば、白人系の人もいて、日本語を
成長してから学んだらしいそれぞれの人の日本語の流暢さはまったく違う。日本語を母語として習得した
らしい人もまた、異なった発話の様式をもっている。新劇の様式に近い発話もあれば、萌え系のアニメ声優に
近いような発話も併置される。そうした多様式性は、訳し分けの文体のレベルから意図されていただろう。
この舞台で、滑らかさに欠ける日本語が乱雑に舞台に併置されたことは、伝統や正統の欠如を欠如として
浮かび上がらせるような仕方で、演劇史的な緊張関係を生み出していただろう。その点で、Sarah
Kane の戯曲が英文学的な伝統に対して持っていただろう緊張と対等であるような緊張関係を、まったく
別の仕方で舞台に提示することに成功していたと言える。
もうひとつの困難は4.48 Psychosisには、時と場所と人物の指示が無いことだ。舞台に誰がどのように
現れるのかが、一切指示されていない。
ここで、舞台に置かれる言葉をいつ、どこで誰に発せられたものとみなすのか?という問いは、原作者と
どのような距離を取るべきか?という問いに直結している。テクストに繰り返される4時48分という時刻への
言及は、病室で戯曲を執筆するサラ・ケインの姿を参照させるようでもある。そして、作家自身の自殺という
事実が、4.48 Psychosisをあらかじめ上演以前に完結させていたかのようである。
原作戯曲は意識内の自問のように、時にはモノローグであり、時には対話であるように言葉が並んでいるが、
今回の舞台ではかなりのモノローグが男言葉で訳され、男性俳優が演じた。その点でもテクスト解釈を
原作者のイメージから解放しようとしている。そして、この上演の演技スペースは、さまざまな声がひとつの
意識のうちを通り過ぎるかのような、抽象的な舞台装置として成立していた。
4.48 Psychosisは切り取り線のように5つ並んだダッシュでそれぞれのセクションが区切られている。
上演は基本的にはそのセクションによって区切られ並べられた構成に忠実に展開されたようだ。
この記事の冒頭で描いたように最初のセクションが演じられた後、一度暗転した舞台には激しく雷の音が
響く。そして再び明るくなって、次のセクションが始まると、客席と舞台が入れ替わる反転関係を強調する
かのように、長髪で上半身裸の男が天井から逆さ吊りでぶら下がっている。
これは、戯曲にあるthe ceiling of a mind(意識の天井)という語と響きあう造形で、劇場の空間がある
意識の舞台であるかのように思わせる。その後の展開で、虫の声のような自然音や心臓の鼓動を思わせる
音が劇場の外から聞こえるように響き続けたのは、眼をとざした頭の中の意識の暗がりに、外から音が
響いてくるかのようでもあった。
開演前のロビーには血の池に頭から突っ込んだバイクがオブジェとして置かれていた。舞台にされた客席の
そこかしこには、ロビーのオブジェには欠けていたヘッドライトとハンドルがいくつか、放置された墓標のように
立っている。観客もまるでそのバイクのように、頭から血の池に飛び込んでその中の世界をのぞいているみたいでもある。
ヘッドライトは同期されて、戯曲に出てくる光のイメージを裏書するように輝いた。
ここで血の池はどこか地獄のイメージを喚起するが、出演者の個性にあわせてわりふられたそれぞれの
台詞は、たとえばベケットの戯曲で死者が生前を回想して語るような仕方で、様々な亡者の声のようにも響く。
内省的な意識のメタファーとしての上演空間が地獄のイメージに重ね合わされた造形であったとすれば、
意識を持つということ自体が、絶え間なく脅かされる試練としてあるという感覚を示しているようでもある。
演技スペースに反転された客席には、上手側の壁際にボクシングのサンドバッグなどがいくつか並ぶ。
下手側手前には、バスケットボールのゴールがあり、その下にはわずかな床が席の上に仮設されている。
トレーニング用の機器も設置され、卓球台も奥に据えられている。
そうした、ジムや体育館のような上演空間の印象は、サンドバッグに象徴される打撃のイメージに満ちている。
ある場面で天井から卓球台にピンポン玉が落下し続けたり、フェンシングで顔を守る防具のようなものが
立て続けにバスケットボールのゴールに落下してきたりする演出において、人を苛む打撃のイメージは
際立たせられている。
血の池には、ある場面でそこから壊れた電話ボックスが現れるという大掛かりな仕掛けも施されていた。
そこでは割れたガラスが直接に切迫した危機を印象付け、血の色にまみれて電話する男を介して、
第二次大戦以降の戦争の犠牲者たちの悲惨を想起させる言葉が響くことになる。
このようなイメージに満ちた上演空間は、黒と赤を基調とした沈んだ色合いに覆われて、鈍い打撃と不吉な
切迫の空間になっている。そのようにして、4.48 Psychosisの言葉たちが開くどことも名指されることのない
途方も無い空間に相応する空間が、劇場に設定されていたと言えるだろう。
この上演では対話のように読める部分は基本的に様々な人物による対話として演出されたのだが、そこで
戯曲にさしはさまれる"Silence"を、飴屋法水は、沈黙を指示するト書きとして扱わず、声に出される語として
舞台に響かせていた。それは、対話を対話として造形せず、対話の失効を造形するかのようにも見えたのだが、
ある時点まで沈黙は常に"Silence"の発話に埋められるかのように舞台は進行していた。
原作戯曲を見ると、最後から一つ前のセクションで、But You have friends という戯曲の最初の言葉が再び
現れ冒頭につながっている。飴屋法水は、このセクションの後に、しばらくの沈黙と静寂を置いている。
それまでは、音響的にも、イメージにおいても、全てが埋め尽くされているようだったので、この上演で最後の
セクションの手前にだけ、すこし長い沈黙が置かれていたのはとても際立っていた。原作戯曲で"Silence"の
一語が冒頭から執拗に繰り返されていることは印象深いが、まるで全ての沈黙がそこに集められたかのような
この欠如の時間は、戯曲に対する裏切りが始まるポイントでもあったのだろう。
原作戯曲では、最後のセクションは、その前のセクションの冒頭に返っていく循環を逃れて、未来への
傾斜をひたすら滑走していくかのようになっていて、特権的な位置にある。飴屋法水も、その特権性を尊重
するように、最後のセクションに他のセクションにはないアクセントを与えている。
英語による戯曲として、詩的な凝集度が高く、静かで美しくもあるそのセクションを、飴屋法水は、それまでの
舞台で示された出演者それぞれのキャラクターに台詞を分散させるように演出した。薄暗い部屋、微光の
なかにかすかに浮ぶように、それぞれの出演者が席に着いているのがぼんやりと見える。前を向いてきちんと
座ったままそれぞれにわりふられた声を発する。
please open the curtains
これが、4.48 PsychosisにSarah Kaneが最後に記した言葉だった。戯曲では、その後には、切り取り線の
ような5つ並びのダッシュがあるだけだ。
飴屋演出では、この言葉が女優のか細い声に委ねられた後、冒頭で逆さまにぶら下げられていた長髪の
男が、血の池の中に沈み込んでゆく。
そして、"Silence""A long silence"と女の録音されたなめらかな声が繰り返され、その反復に寄り添うように
穏やかな音楽が響く中、演技スペースの客席にはいくつかの入り口からエキストラ達が入場して、まるで、
これから舞台が開くかのように着席していく。音楽は続いたまま、黒い幕が左右から閉ざされる。終演の
アナウンスのあとも、"Silence"の言葉が繰り返され、音楽は続く。
ここで飴屋法水は、原作戯曲では、未来に向かって開かれたまま途切れるようになっている構成を
二重の仕方で裏切っている。
ひとつは末尾を冒頭のA very long silenceへと引き戻してしまうこと。"Silence"の反復は、まるで、
この戯曲の終わりを円環のように冒頭につなぎ、循環から逃れようとする戯曲の末尾を、限りない循環の
中に置きなおしてしまうかのようだ。
「カーテンを開けてください」という、まるでそこから舞台が始まるような原作戯曲の最後の言葉は、最後の
言葉を残して死んでいく作家というイメージに重なる。意識の舞台から解放される死の開幕といった解釈を
縫い込めて封じるように、飴屋法水はカーテンを閉ざす。
カーテンが閉じて、まるで向こうもこちらも客席であるかのようにして客席と舞台の反転が完結するとき、
舞台は舞台ではなくなるが、それはどこが舞台であっても良くなってそこから逃げようもなくなったみたいでも
ある。終わりの無い意識の煉獄は作品として循環するままにカーテンの奥に閉ざされると同時に、意識の
限りない試練としてカーテンの手前に現実が荒涼としたまま開かれたようでもある。戯曲を循環に引き戻す
ことは、戯曲をそのような両義的な再生産の場所に開くことでもあり、飴屋法水はそこにサラ・ケインの言葉を
迎え入れたのだろう。