【F/T09秋劇評コンペ 講評】高橋宏幸氏

 今回選ばれた三作は、演劇やパフォーマンスの作品を批評するとはなにかということを単に技術的な側面だけではなく、その本来的な要素を含めて、改めて考えさせる機会にもなっていたと思います。
 特に堀切氏の『Cargo Tokyo-Yokohama』への評は、作品に真摯に対峙しながら、批評を書くものとしてのリスクを背負う覚悟がありました。それは、鋭く対象に踏み込む姿勢に現われています。なぜ素晴らしいものになるはずであったこの作品がこのような事態に陥ってしまったのか、時に筆が滑りすぎる観はあるものの、熱い想いをあくまで理論へと転化して、丹念に調べて書いていました。それは作品の問題点と可能性を吟味した批評の本質的なものをあらためて認識させるものでした。

 また、百田氏の評は、これも劇評にとって必要不可欠な、その作品を観ていない読み手にとって、そこでなにが行われていたかを想像させる記述に長けていました。ストーリーが追いづらい作品をうまく括るような言葉を使ってまとめる手法は、せっかくその仕掛けを作ったにもかかわらず踏み込みが足りないようにも映りましたが、文体の読みやすさも相まって、読み手のことを非常に意識させる評でした。
 そして、講評会の場で主に私が中心に述べた柴田氏の劇評も、緻密に作品を記述する精度の高さは、群を抜いてすばらしいものでした。時間軸に沿って記述されながら現われてくる舞台のイメージと、その一つのシーンごとになにが起こっていたのかを見つめる眼差しは、的確であると読み手に思わせるような説得力があります。たとえば、そのシーンの舞台の記述の後に書かれる「ここに再現されているのは罪の判断がつかない人間たちが、愛と死を自らの手で生み出している地獄のような「現実」の似姿である」や最終段落の前半の箇所などは、単純な物語のない作品を執拗に記述するなかではじめて現われる言葉だと思えました。ただ、そのシーンごとにはせっかく的確に記述された批評であるのに、そこから更に深く追求すること、もしくは作品の全体像を掴み、そして切り込んでいくような批評のダイナミズム性があまりみられなかったのは少し残念でした。
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 教えることが学ぶことであるのと同様に、審査をすることは審査をされるということでしょう。だから、今回の応募作のなかからこの三本の劇評を選んだことは、私も劇評というものに対しての審査をされていると思わざるをえない事態にしばしばであうことになりました。それほど、他にも優れた劇評、もしくは優れた劇評になる可能性を秘めたものが多数ありました。ここから、次の芸術シーンを形作る礎の批評というものが、----もちろん若手である私もその場に加わりたいと思いますが----出て来ることを願っています。