この芝居を観ると、タイトルが気になる。『あの人の世界』。チラシにある演出の言葉の「あの人」には全てカッコが付いている。この演出の言葉の「あの人」とタイトルのあの人。そのカッコが決してなくならないのが、面白くて少し哀しい。
松井周(サンプル)の『あの人の世界』は、現代日本に於ける不条理演劇のように思われた。20世紀フランスの不条理演劇作家であるArthur Adamovの戯曲、『タラーヌ教授』(Le Professeur Taranne)でも、主人公タラーヌ教授がアイデンティティの確実性を主張すればする程、それは脆く崩れ去った。Adamovの場合は実際に見た悪夢を舞台上で表現したが、『あの人の世界』ではそこに他者と他者による自分の存在というテーマを取り入れ、全編ファニーな要素で味付けする事で、現代日本に於ける不確実性の上に安住する「リアル」を表現している。
舞台は二階層になっており、下の三角形の八百屋舞台と上の舞台を、細い柱が貫いている。一応上層階を現実、下層階を空想としているように思えるが、相互の行き来は可能である。登場人物達は誰もが他者による自らのアイデンティティの確立を望んでいるが、芝居の進行はその願望を叶わぬものとして捕らえさせる。二階にいる男(上の男:古舘寛治)と女(上の女:石橋志保)は犬(そもそも本当に犬なのかそれとも娘なのか分からないが、取り敢えず犬と称しておく)の喪失によって自分達の居場所を失い、果てには自分達がその犬の位置に定まる事で居場所を得ようとする。下の舞台でミュージカルの練習をするホームレスの動物(渡辺香奈)は自分の役を決められず、同じくホームレスのウサギ(善積元)は「ウサギ」である事に疑問を感じ続けている。ビラ配り(芝博文)はどこの誰かも知らない女のビラを配り続ける事で、過去も現在もない男(田中祐弥)はそのビラの女を探すよう運命付けられる事でそれぞれアイデンティティを得る。互いに首輪で繋がれ、主従の関係が交換可能な嫁(山崎ルキノ)姑(羽場睦子)の姑が言う「あたしがいなきゃ何一つ出来ない癖に」という台詞は、虚しく自らに返って来る。
他者がいなければ自分を存在させる事が出来ない。しかし、その他者の中に存在する自分は本当に自分の中の自分と同じなのだろか。松井氏はF/T(Festival Tokyo)パンフレットの「あなたにとってリアルとは?」というコラムで、「僕が思う僕ほどあてにならないものはない。/他人が思う僕を全面的に信用したい。/けれど他人が話す僕の話は誰か知らない人の話のように聞こえる」と述べている。自分の中の自分と、他者の中の自分の乖離は劇中にも表現されている。例えば、ダンスを習おうとホームレスドクター(古屋隆太)率いるホームレス達に弟子入りした女(深谷由梨香)は芝居の後半でネズミ(奥田洋平)と「運命付けられた」関係になる。実際の所ネズミは「ネズミ」である為に必要な姉(辻美奈子)の代用品として女を利用している。それ故、女が自らを語り出すとネズミは恐怖心を覚えて止めさせる。名前も過去も語らず自分は「ネズミ」のままでいたい、女の詳しい事情等は知りたくないと言う内容の台詞は、つまり自分の中の「女」が女の中の「女」に変化する事を拒絶していると取れる。女はネズミが寝た後に本来の自己と他者の中の自己との乖離を嘆き、その後ネズミ以外のホームレス達によって「革命の最初の一人」であると更に別の自己を押し付けられ、それを受け入れたが故に吊るされて死ぬ。『タラーヌ教授』でも、主人公は自らアイデンティティを確立する事が不可能と思い知り、最終的には存在する為に他者の押し付けた自己を受け入れて終幕となる。又、Harold Pinterの『バースデーパーティ』(The Birthday Party)でも他者の持つ自己というのは扱われている。
イメージ先行の現代社会に於いて、居場所を持つ事はそんなに難しい事ではない。本当に難しいのは、それが「自分の」居場所かどうかである。もっと言ってしまえば、「自分」かどうかである。先程の松井氏の言葉を読み返すと、それでは「誰か知らない人の話のように聞える」と思っている「僕」はどこにいるのだろうか、という事が問題になって来る。それこそが本当の自分なのではないだろうか。だが、他者を持たない自分に信憑性や存在意義はあるのだろうか...?
ビラの女を探し続ける男は、やがて吊るされて死んでいる女を見て、ビラの女と同一人物だと発見する。過去も現在もなかった男は未来すら失い、同時に辛うじて持っていた自己存在の意味を失う。だが、男は結局死体というモノを持ち続ける事で自己を保つ。それはつまり、自分の中の他者が無機質な物体と同一化している事を意味する。一度他者の中で無機質化・物質化した自己の本体である自己は既に存在していない。この事は上の男と上の女にも言える。上の女は男に何が一番大切なのかと問われて死んだ犬の墓であると答えるが、上の男はその墓の下には何もないと言う。
この距離感が『あの人』の距離感である。そして今の私達(というのはおこがましいだろうか)にとってリアルな距離感だと思う。一人でいる事は出来ない、居場所が欲しい、他者と繋がっているという意識が欲しい。だから意味もなくパソコンを開いてネットをし、ケータイを常に持ち歩いて、忘れようものならその日一日は不安で仕方が無い。だがあまり深くは関わりたくない。家庭事情や精神世界まで共有共感はしたくない。恋愛も結婚もしても良いけれど、ちゃんと自分の時間は持っていたい。自分が「恋人」や「配偶者」や「親」になりきって「自分」でなくなるのは恐い...。この芝居はそこにある「自分」を根本から問う。誰かに「あの人」と呼ばれる「自分」と、自分が「これが私」と思っている「自分」。その乖離は現代社会に於いてどんどん根深くなっている。だがそれを殊更に、不自然だ異常だとするような事はしないし、観客である私もその距離感が心地良いように思う。ただ『あの人の世界』を観ていると、そこはかとなく違和感を覚える。「あぁ、そう言われてみると何かおかしいかもね」とも思うのだが、何をどうしたら良いのかよく分からない。そこを突き詰めて考える人が、一時期流行った「自分探し」というヤツに出るのかもしれない。この芝居では自分探しをしている人物ばかりである。その終着点は、自分の中の喪失した「あの人」に成り代わる者、「あの人」を維持する事で「自分」を保つ者、「あの人」の中の「自分」になる事で破滅する者と様々である。ウサギと動物は互いに自分の中の「自分」を、他者の中の「自分」として受け入れて貰う事に成功する、というこの芝居の中では唯一甘いというか優しい幕切れになるが、観ている客としては最早そんなハッピーエンドは信じられなくなってしまう。ひょっとしたらこの二人が感じている安心感も結局の所は、上の男のおしっこを浴びて何だか生まれ変われる気になってしまう嫁の錯覚と同じようなものなのではないだろうか。
色々ぐちゃぐちゃとしていて、何だかよく分からない文章だと思われた読者の方は一度、最初から最後まで読まずに目を走らせて頂きたい。この文章の鍵カッコの多さが目障りに映ると思われる。筆者の私としても、書いていてかなり邪魔であった。要するにカッコが論点になっていると思って頂ければもう殆ど言う事はない。『あの人の世界』という作品は、このカッコを何となく上手く扱いかねている人物達の話だったと思っている。そして私が思う「現代人」(これもカッコ付きである)が安住しつつも何か違和感を覚えている部分だと思う。カッコが付いていれば、それはそれとして定着する代わりに本質が変わってくる可能性を多分に含む。「私」としていたらいつの間にか中身が無くなって「 」となっているかもしれない。それでも「私」という表面的外面的なものは変わっていない。私が他者の「私」を受容した場合、それは「「私」」となるのだろうか。
このカッコが消えて相手のカッコも消えて欲しいと思う一方で、決してカッコが消えない事に少し安堵する『あの人の世界』は「リアル」(このカッコが一番厄介である)を感じた。