演劇は、文化の機能を果たしているのだろうか?社会学者樫村愛子は、人が社会に対峙し、参入する際に「移行空間」すなわち「人が主観的に生きている世界と現実の橋渡しをし、人間にとって常に外傷となりうる新しい現実との出会いやその処理を本人にとって無理のない形で受容させる装置 1」が必要となることを示す。この、人の主観と現実(社会)との橋渡しの装置として樫村が注目するのが文化であるのだが、樫村は、現在の文化状況が橋渡しとして機能していないと警鐘を鳴らしている。樫村の指摘は私に問いを立てさせる。我々は、現在の芸術に、社会との接点を見つけることができるのだろうか。芸術は、我々の現実社会での生のあり方に、なんらかの思考を促してくるのだろうか。アニメ、映画、演劇、これらに樫村の言う意味での文化の役割を期待することなど、ほとんど不可能なのではないのか。そんなことを思う12月の中旬、私は、この文化状況への判断を打ち破るような劇に出会った。イタリアからやってきた、ロメオ・カステルッチの「神曲―地獄篇」である。それではこの劇について語っていこう。
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この劇は開演前から私を捉えて離さなかった。というのも、開演の20分前、東京芸術劇場の中ホールに入った私は、いきなり、劇場の雰囲気に心を奪われてしまったからである。劇場は私を苦しませるような空気に包まれていた。鏡に映したように反対になった「INFERNO」の文字だけが輝き、電子音のような耳障りな音が流され続ける。開演を待つ観客たちが思い思いの話をすることで生み出される喧騒は、私の不快の度をさらに高めていく。私には、われわれが生きる空間の息苦しさをカステルッチが抽出して、目の前に提示しているようにしか思えなかった。
開演を迎えるとき私が劇に期待したのは、当然この息苦しさの解明と療法であるが、観劇を終えた時、カステルッチは見事にこれを解明し、一つの療法のヴィジョンを提示しているように思えてならなかった。
カステルッチは「神曲」を演出するにあたり、次のように問う。
「地獄、煉獄、天国。これらは私に、今、何を求めているのか?
これらは日常のどこにあるのだろうか?私にとって、あなたにとって。
これらは日常のどこに潜んでいるのか?
地獄はどこにあるのか?〈「神曲」演出ノートより〉」
この言葉の通り、カステルッチは日常に潜む地獄を描く。地獄は罪が明らかになる空間であり、彼は私たちの罪を明らかにしていくのである。だからカステルッチは観客が他人事として地獄を見ることを許さない。私たちは、地獄のはじめで見るキューブに入った子供たちの、大人になった姿なのである。カステルッチは、観客を映した四角形の鏡の位置に、そのままキューブを入って来させることでそれを示している。
そしてカステルッチの舞台で我々が見るのは、その無垢な子供たちの末路である。子供たちのキューブは、巨大な黒いバルーンに圧倒される。カステルッチはさらに、少年がバスケットボールをつくたびに、ガシャン、ガシャンと何かが壊れていく、非常に印象的かつ不気味な場面を描く。私は黒いバルーンから、人が抗いがたい社会的構造を思い描かずにはいられなかった(ある人はそこに、グローバリゼーションの深化が生み出す諸社会事象―貧困地域を従属させ続ける構造的暴力、近代的価値による強制的な伝統的価値の浸食・・・―を描くかもしれないし、また別の人は、かつてJ.S.ミルが描いたような社会の多数派による画一化の圧力が顕在化していること―例えば「空気読めよ」という言葉で多様な意見を奪うように―をみるだろう)。一方のバスケットボールは、罪を犯す際の無自覚を象徴しているように思われた。バスケットボールをつく少年は、ボールをつくたびに何かがガシャンと音を立てて壊れていくのを感じ取りながらも、無自覚につき続けていく。少年は若く、美しい。しかしそこに我々は無垢な中に潜む罪を見つけださざるを得ない。他者に配慮することをしない罪である。グローバル化の中で、あるいは行為と帰結の関係において複雑性の増した現代社会の中で、他者の声に気付けない、無自覚の罪である。
この、社会構造に抗えず、罪を無自覚という私たちの特性は、以下に説明するような場面に見事に表れているだろう。
複雑性が高いがゆえに、少年の行為が引き金になっているとは確かにはわからないが、人々の間で、まぎれもなく確かに殺し合いが始まる。長く続く殺し合いの末に一人生き残った最後の男。孤独な彼は「お願い」と少年に言い、彼を殺すバスケットボールを持った少年。彼が、最後の男死体の頭の下に、静かにバスケットボールをおいても、死体たちはすでにそこにあり、そして彼ら全てが罪人になっている。彼らは殺し合いをしたくはなかったのかもしれない。殺し合いを迫る社会に抗えなかっただけかもしれない。しかし彼らは殺したのである。そして、少年がバスケットボールを手放すのは遅すぎた(ボールをついた後だった)のである。
では、劇中で描かれてきた苦しさ(社会構造からの強制)と、罪の無自覚の帰結は何なのだろうか。それを象徴する場面が、子供たちが入っていたあのキューブの上から飛び降りる人々である。かつては苦しみも罪も持っていなかった子供たちは、成長し、磔刑の格好をしてキューブの上から舞台の裏へと消えていく。苦しさと、自覚した罪の意識の重さから自ら磔刑の格好をして死んでいく彼らの後ろでは、あの、アンディ・ウォーホルの作品のタイトルがスクリーンに映し出される。キャンベル・スープ、マリリン・モンロー・・・。ウォーホルはカステルッチ本人の言葉でいえば「匿名性・無名性」の芸術家であり、大量生産・大量消費のアートを作り出した人物である。ウォーホルの提示は、は自らに磔刑を課し、消えていく彼らの苦しみはありふれ、罪の意識すらも凡庸なものでしかありえないことを示すのだろうか。この場面は美しく、そのせいで、いっそう哀しみは大きくなる。
今まで述べてきた、カステルッチの描く我々の日常=地獄。近代の社会に絡めとられて動けずに苦しみ、罪を無自覚に犯し続ける私たちの日常。カステルッチは、それでも日常を送らざるを得ない我々に、どのようなあり方を提示するのだろうか。
劇の最後にカステルッチは、アンディ・ウォーホルを登場させる。現代社会の匿名性の象徴、代替可能性の象徴である彼は、大破している自動車に轢かれる。しかし、彼はよろめきながらも、自動車の座席につくのである。私には、ウォーホルが座ったのはハンドルのある側の席だったのか、そうではなく、ただ運ばれるだけの席だったのかはわからなかった(私が観劇していたのは後ろから3列目の席だからである)。しかし、それでもカステルッチの提示する我々のあり方は私に伝わってきた。我々は苦しく、罪に苛まれていても、「乗る」しかないのである。ある時はただ壊れた現代の機械に乗せられ、運ばれるだけかもしれない。しかし、必ず運転手に異議を唱えたり、自らが自動車を運転したりすることもあるだろう。そのとき、我々は社会に絡めとられず、罪を犯さない道を手に入れるのである。私には、カステルッチが、私たちは日常に住みながらも、同時に「乗っている」ことに希望の光を見出してくれた気がしてならなかった。
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この文章の冒頭、演劇は文化の役割を果たしているだろうか、という問いを発した。多くの演劇はそうではないかもしれない。私たちに社会とのかかわり方について考えさせることは、私たち自身のあり方について考えさせることはほとんどないのかもしれない。しかし、ダンテの古典「神曲」に題を取りながらも、現代に生きる私たちに現代的な思考を促す、そんなカステルッチの劇を観て、私は喜びを感じた。
1 樫村愛子「ネオリベラリズムの精神分析」光文社 P118