ばっか、みたいに寒い日だった。ひょっとすると、その日が冬の始まりってやつだった
のかもしれない。暦では確か立冬とかいうやつ。小学校のときに習ったことだけれど、か
ろうじて覚えている。
冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也。
わざわざそんな日を選んだわけではなかったけれど、夜中二時、凍てついた甲州街道を
バイクで飛ばして、新宿バルト9でやっていたマイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」(ラ
ストステージはついに見られなかった)を見に行った。キング・オブ・ポップ。近頃オリ
コン・シングルチャートに並ぶような曲は正直さっぱりだけれど、MJのリハーサル風景に
は鳥肌が立った。やっぱり本気で何かを作るってこと、人に伝えようとするってことは、
それだけで圧倒的なパワーがある。テレビや雑誌で、MJはひどいやつだなんて書かれてい
たけど、PV撮影で頑張ってる子供の表情に、いいね、すごくいい、って言ってるマイケル
は好きだ。世の中っていうのは、あんまり正し過ぎたり、素直過ぎると、時として腫れ物
のように扱われることがあるけど、MJもきっと、そういうものに巻き込まれていたんじゃ
ないだろうか。
もちろん、今はMJについて書きたいわけじゃない。けれど、これは後々大事なことだ
から、今言っておくってだけのことだ。
映画を見終わってから、すき屋で牛丼を食べた。そのまま、一緒にいた女の子のアパー
トまでバイクで戻って、駆け込むようにベッドに入った。寒い日の駆け込み寺といったと
ころ。江戸時代、駆け込み寺っていうのは夫婦の離婚調停に一役買っていたらしいけど、
二人はそんなことお構いなしに、布団の中で取っ組み合いみたいにして転げまわった。冬
は人肌が恋しくなるって言うけど、それはきっとゆたんぽと同じ原理。ゆたんぽが二つ、
ごろごろ。
翌朝、雨がアスファルトを叩く音で眼が覚めた。天気予報士の皆様には申し訳ないけど、
最近の天気予報はよく外れる。これも地球が破滅にむかっているせいだっていうんだろう
か。それならすぐに「ヒール・ザ・ワールド!」って声を上げなきゃいけない。けど、そ
んなやつはいないし、少なくとも新宿駅の駅前広場でそんなことやってたら、変な宗教団
体みたいに扱われて白い目で見られるのがオチだ。私のマイケル・ジャクソン(MJ)様、
あなたは死ぬには早すぎた。本当に。ジーザス。
雨が降ると何がいけないって、バイクに乗ったら間違いなくずぶ濡れになる。だからベ
ッドの上で、出ようか出まいか、ぐだぐだ考えているだけで時間がどんどん過ぎていく。
「ぐずぐず言ってないで早くしなさいよ、優柔不断!」
なんて、言葉の平手打ちをほっぺにお見舞いしてくれる相手は、とっくの昔に仕事に出
て行って、そこにはいない。腕の中の温もりなんかすっかり冷え切って、寝返りを打って
部屋を見渡してみると、テーブルの上に「カギはポストに入れといて」の置き手紙が突き
放した感じで置いてあるだけ。当然、朝飯は抜き。
そのまま昼過ぎまで待っても雨は止まなかったから、仕方なくオーバーを着込んで部屋
を出た。鍵をポストに落とすと、「カラン」と乾いた金属音が鳴った。
二階建てアパートの細い廊下に立つと、熱を奪われたアスファルトに重たく張り付いた
冷気に色が付いて見えた。「グレート!」なんていうMJの雄叫びを遠い夢の中に聞きなが
ら、バイクにキーを挿して、セルを回すと、凍り付いたエンジンはかろうじて呼吸を始め
る。暖気にかかる数分の間も雨はひとしきり降っている。バイクにまたがってアクセルを
吹かした頃には、紺色のエディ・バウアーの肩に冴えない憂鬱の色が滲んでいた。
バイト、休み入れといてよかった、と自分を奮い立たせて走り出すと、時速60キロの雨
粒がマシンガンみたいに顔面に突き刺さった。ゆっくり走りたい気持ちはあったけれど、
早く帰ることのほうが今ある苦痛を和らげる気がしてアクセルを開け、腰の引けたロック
ンロールみたいに走った。雨が止むまでアパートにじっとしていることだってできたけれ
ど、そうはしなかった。
巣鴨のアパートにつく頃には、綿がいっぱいに詰まったエディ・バウアーは鉛のように
重たくなっていた。それを玄関に脱ぎ捨てると、着の身着のまま、湿ったシャツが少し気
持ち悪かったけれど、万年床になった布団にあっさり倒れた。
約束は夜の六時だった。その女の子は友達の妹の友達(なんだか微妙な関係性)で、四
人で六本木のクラブに踊りに行ったのが二週間くらい前のことだった。部活の先輩後輩で
は全然足りないくらい、どっちかっていうと、同じ小学校にぎりぎりいられないくらいに
歳が離れていたけど、感じの良い女の子で、ダンスが好きだった。
じゃあ、今度見に行こうよ、って誘ったのまではよかった。けれど、よくよく(という
か冷静に)考えてみると、大学のサークルでストリートダンスやってます、ってことだっ
たから、今回のセッティングはデートとしては落第点(のはずだった)で、「これ行ってく
れば?」と、フライヤーを渡された相手の見透かしたような顔がふと頭をよぎった。
コンテンポラリー・ダンス?「コンテンポラリー(現代の/同時代の)」なんて言葉だけ
聞けば、なんとなく頭が良さそうに思えるけれど、そういうことを相手が想像してくれる
んじゃないかっていう浅はかな期待は、舞台を見た後の喫茶店に流れる手持ち無沙汰な沈
黙のことを思うだけで簡単に消え去った。喫茶店で二人してゴダールのどこがスゴイかっ
て議論してるカップルなんて、正直、頭がおかしく見える。
それでも、やっぱり見栄は張る。勝負事ってのはそういうもんだから。それに、多少は
バカじゃない自信だってあった。そうなると今の世の中は便利で、インターネットを使え
ば大抵のことは自分で調べられる。
ダンサーは毎回体力の限界まで踊り続け、身体を取り繕えない状況にまで追い込まれる。
その瞬間、身体はその境界を失い、裏側に潜むものをさらけ出す。
それはつまり、言葉で言うところの「迫力/生々しさ」なんだと思う。「生々しさ」と聞
いて最初に思い出すのは、中上健次の文章。色んなジャンルでたくさんの人間が意識して
いる。中には、意識しすぎて、出来の悪いコピーになってる奴もいるけど、それだけ中上
健次の書く言葉は強烈で、生々しいってことなんだと思う。
「これ行ってくれば?」
そう言ってフライヤーをくれた女の子は黒田育世さんのダンスを見たことがある。それ
に、俺が中上健次にかぶれてると思ってるから、何かを薦めてくるときは、大抵の場合そ
ういうものか、あるいは逆に、ものすごく現実的なもの(脳科学の本とか)だったりする。
三年近くの間にそうやって薦められたものは、俺が相手に薦めたものと同じくらい多い。
他に何人かいる男にもそんな風なのか、一度聞いてみたことがあるけど、そいつらは返っ
てくるリアクションにがっかりする(だったら別れればいいのに、とは言わない)から、
そんなことはしないらしい。
そういう人間が読んで耐えられなくなったといって投げ出すくらい、中上健次の言葉に
は「生々しい」パワーが溢れている。
目を開けると、時計は五時半を回っていた。
六時の約束に間に合うように、大急ぎでシャワーを浴びて服を着た。急ぎ過ぎて、カミ
ソリが鼻の下を切った。皮膚からは薄っすらと血が滲んでいた。
雨は上がっていた。けれど、あいかわらず体の芯が凍って折れるような寒さだった。約
束の時間まであと五分もなかったから、とりあえず走ることにした。こういう努力は後々
効いてくる。遅れるにしても、顔を合わせたその瞬間に伝わる何かに大きな違いがある。
女の子は巣鴨駅の改札口で待っていた。ホイップクリームみたいなニット帽にレザーの
ハーフジャケット。古着っぽいワンピースの下はレギンスを履いた足にブーツ。いわゆる
イマドキな感じ。こちらはジーンズにジャケットといったパッとしない格好で、なぜだか
息を切らしている。当然、女の子は「どうしたの?」なんて聞いてくるので、「途中まで来た
んだけどチケットを忘れたことに気づいてダッシュで戻ったんだ」なんて、俺は飄々と
言ってのける。そしたら、女の子はくすぐったそうに声を出して笑った。
有頂天になっていた俺は今にも、そのまま女の子の手を引いてスキップを始めそうな勢
いだったけれど、次の瞬間にはまたさっきまでの不安がちらついて、開演まで少し時間が
あったから入った沖縄料理屋でも、頭の隅にこびりついて離れないそれのせいで、一杯だ
けのつもりだったビールをジョッキで三杯も飲んでしまった。
西巣鴨までは他愛のない世間話をしながら歩いた。心地良い北風がひっきりなしにほっ
ぺをなぶっていた。
席に座ったのは開演の五分前。何かとんでもないことが始まる直前にある、独特な緊張
の糸がぴんと張っているのがわかった。さっきまでの酔いはどこへやら、頭は次第に冷静
さを取り戻していて、隣に座った女の子の顔は見えなかったけれど、最高のコンディショ
ン、といったところだった。
今こうして書きながら思うのは、誰かと何かを見るとき、俺はいつも終わったら何を話
そうかと考えながら見るんだけれど、それは相手が何者であるかを知る上で、とても重要
なヒントになる。「批評」っていう言葉を辞書で引いてみると、[名](スル)物事の是非・善
悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。「論文を―する」「印象―」なんて書か
れている。そういう意味で、何かを批評するって言うのはすごく大事なことだと、俺は思
う。
けれど、必ずしもすべての批評がそうあるわけじゃない。今は雑誌だけじゃなくて、イ
ンターネットでも簡単に他人の考え方を知れる世の中だけど、そういうところにある大量
の批評の中には、それっぽい理屈や言葉を並べてるだけのものが、とんでもなく多い。
良い批評っていうのは、「書いた人間に会ってみたくなる」ようなものだと思う。それっ
てひとつの「生々しさ」だろうし、俺は、今書いている文章をそんなものにしたいと思っ
ている。けれど、もちろんそれは言うほど簡単な事じゃない。
ほんとうにすごいものを見たとき、俺は何も言えなくなる。そんなときにはどうすれば
いいのか、俺にはわからない。けれど伝えたいと思った衝動、それは本物だ。ダンスだっ
てそうだと思う。伝えるには、不恰好でも、そこに在る「今」を書き、踊るしかない。
「生々しさ」はそういう過程でしか得られない。だからこそ、それを表現するのは難し
いし、ちょっと見て来ましたという類の批評も、親切で添えられた演出ノートでさえ、ほ
とんど意味を持たない。結局、そこにあるのは切り離された言葉だから。
MJも、中上健次も、黒田育世のダンスも、それらは常に本当の意味でコンテンポラリー
だ。そして、だからこそ人々の目にいつまでも「生々しく」映る。
俺たちがいる時代の「今」ってなんだろう。思うに、それはたぶん、人と人を繋ぐ関係
性の喪失なんじゃないだろうか。そして、それを取り戻したくても、互いに触れることを
躊躇してしまう不器用さなんじゃないだろうか。
黒田育世のダンスから発せられているのは、そういったどうしようもない類の不安だ。
一人きりで回転する女性は笑っているけれど、その笑顔はどこか寂しい。
「誰も相手にしてくれないの?」
そういえば子供の頃、ただソファの上で飛び跳ねることが無性に楽しくて、そんな俺に
母親は構ってもくれなかった。
二人の女性が立っている。一人は痙攣したようにびっこを引いて、もう一人はそれを無
表情に見下ろしている。後者によって意図的に詰められる距離。けれど、その姿はどこか
ぎこちなくて、触れ合うことの「痛み」みたいなものが、じくじくと脈を打つ。
黒田育世のダンスにはパワーがある。それは煩わしい修飾語なんか簡単に振り払ってし
まうし、剥き出された乳房にいやらしい想像力を働かせる隙なんて微塵も与えない。
俺は産まれて初めて、本当に魅入られた人間が息を飲む音ってやつをすぐ近くで聞いた。
喘息患者のように不安定なそのリズムが今も耳から離れない。
舞台が終わった後、俺たちはまた来た道を戻って巣鴨の上島珈琲店に入った。テーブル
に向かい合って座ると、心配していたような沈黙はそこになく、ただ相手の学校のことと
か、自分の仕事のこととか、そういった他愛もない話をした。
最近予定が詰まっちゃって、なんて言いながら女の子が手帳を開いたので、見ると、次
の水曜日のところに書かれているマイ・バースデイ。
「来週、誕生日なんだね」
そういうことで、次のデートは水曜日に決まった。
ちょうど終わってしまうMJの「THIS IS IT」を一緒に見ることになった。