言葉を憎むこと、「からだ」と言うあきれるほど自明な枠組みを拒否すること。黒田育世が自身/〈BATIK〉のダンサー達の「からだ」において指向するそれ(ら)は、自・他のない甘美なる運動、空の存在によって初めて色をもつ海と、水の蒸発によってのっぺりとした青の上に白い雲を内包させる空とが見せる、言葉も「からだ」も意識されることなく、曖昧な枠組みの中で永遠に続いていく運動を目指すための駆動力である。言うまでもない事だが、そこには不可能性の姿が強く露呈している。虚構でありながらも実在である舞台と言う枠組みの中で、どれだけ「からだ」からの超脱を目指そうとも、そこに表れるのは、「からだ(身体)」であり、それが誘発させる言葉にすぎない。
「私が私を私と意識するようになったのは、言葉をもってからではないかと感じます。そして、私を私として意識する様になってから、皮膚の内と外を覚え始めたのではないかと感じます」。「縁取り刻む」と題されたエッセイの中での黒田育世の言葉は、「花は流れて時は固まる」における舞台装置、白いワンピース、を、ふくらませ、青いワンピース、に、閉じ込められる彼女たちの運動により、言葉に対する憎しみとして立ち現れてくる。粒子、小さな凹凸のついたベージュの舞台地(床)は、砂浜を想起させ、舞台の手前、細長い溝にためられた水が、上部からのライトによって青く染まる。水は、長方形の溝の中で初めて形を持ち、舞台上に存在しえる。白いワンピース、を、着た(5人の)彼女達は、水の中、に、沈み、起き上がり、手足をバタつかせ、青いワンピース、の、女性は、小刻みなジャンプ、を、行いながら、溝の左端で、4で分の1ずつ、静かに回転し続ける。彼女達の水に対するアクションは、水への同一化を目指すものである事によって、人工的な状況としてある「いま、ここ」を自明化させ、「からだ」という枠組みを強調していく。そこには、滑稽さが強く存在している事を否定できない、が、それは、あまりにも幼稚な悲劇でしかないのだろうか。水、に、顔を、突っ込み、口、に、含んだ水、を、舞台地(中央あたり)に吹き出す、白いワンピース、の、彼女達の運動も又、徹底的なまでに枠組みを強靭なモノへと変貌させていくだけだ。そこでは、(彼女達の足首に付けられた)鈴、の、音だけがむなしく響いていく。
本作が見せる、幼児的悲劇性とはしかし、絶望の中、不可能性の中でしか行えない行為を、楽天的にこなしてのではなく、その絶望、その不可能性を引き受けながらも運動を持続させていく〈BATIK〉の強度それ自体を表出させている(く)と言える。強靭化された(ていく)枠組みは、(同一化への)絶対的な不可能性を構築し、彼女たちの口から「ナニか」を吐き出させる。「間」の変容の為ではなく、「私」と「あなた」の「間」を暴力的なまでに消失させるその、言葉以前の言葉は、不可視でありながらもそこにあるものとして、枠組みを提示していくのではなく、具体的なかたち、「からだ」を持ったモノとしての「間」を私に触れさせてくる。言葉を憎み、私の「からだ」を拒否することによって、「間」、つまりは運動の為の場が、開かれてしまっている余白としてではなく、「からだ」を持ったモノとして立ち表れて来る。私に与えられた安全な「場」の喪失を伴いながら。
「ダンスとは言葉を発する状態のことである」。矢内原美邦は言葉を反復し、ズラし、戯れながら、重力や意味をその言葉達から奪い、舞台空間を包むヴェールへと変容させる。「私」やダンサー達の内側にある言葉を拾い上げ、枠組みをズラし続けていくニブロールの運動、「場」とは、「からだ」ではなく「身体」を、見つめている状態だと言える。それに対し、言葉を憎みながらも、「私」と「あなた」、「私」と世界、「私」と「からだ」との絶対的隔絶の中で生まれざるを得ない、言葉以前の言葉を可視化させる「花は流れて時は固まる」における運動は、言葉を内包している「身体」ではなく、無関心なまでにそこにある「からだ」への凝視としてある。
「ねぇねぇ、ギャハハハハハハハ」、「うヴぁァァぁ」、「ギュっァァぁ」。確固たるモノとして表出した枠組みの前で、彼女達の口が吐き出すものとは、吉増剛三の銅板に掘られた文字や、フランシス・ベーコンの密閉的生活空間における叫びとの類似を感じさせる。が、何よりも私は、ベネトンの広告が提示してきた様々な画のイメージを、ここに見てしまう。
エイズに湾岸戦争にユーゴ紛争、あるいは出産や死やセックスと差別。ベネトンの広告写真、オリビエロ・トスカーニが提示してきたイメージとは、きわめて社会的意識の高いものでありながらもステレオタイプなものにすぎず、暴力的でしかない。それは、メッセージを伝達するものとしてではなく、社会的と規定化されている画のイメージを広告に使用し、あまりに凡庸なスキャンダルを発生させているだけにすぎないと、私は考えてきたのだが、果たして、そうなのだろうか。
石油が「からだ」にへばりつき、飛べなくなった水鳥、腕ではなく、錆びの始まっている金属性のスプーンを付けた筋肉質な黒人男性の胸部写真。それらのベネトンの広告写真は、意味として直接ユナイテット・カラーズと言う会社とは繋がり難いものであるが、イメージが私の中に表出させる「かたち」は、私とその写真との「間」に服の必要性を生みださせるものである。「にゅるにゅる」とか「ベタリ」とか温度の差異とか。それらのテクスチャーが表出させる「かたち」は、私(受け手)の皮膚を刺激していく。イメージが読ませる意味ではなく、イメージがその表層に保持してしまっている「かたち」。ベネトン広告は、それ自体が服であるかの様に、私の皮膚に密着し、私の「からだ」とイメージの「かたち(からだ)」との距離を無化していく。そこには、重力を持った、(私には)喋る事も書く事もできない言葉の姿がある。
絵文字や略語を見るまでもなく、現在、言葉はいかにして早く、楽に伝えられるかを第一義とされ、ディスプレイの中の空間ではない空間の中で、都市や学校という実在の空間の中を、ただ、横滑りしていく。言葉はそこ(ここ)で、便意上の形しか持ちえず、漂い、消えていく。「花は流れて土岐は固まる」を作り出す彼女達の口が吐き出してしまうモノの不透明性はだからこそ、むき出しなモノとしての「いま、ここ」を、私のグロテスクでしかありえない「からだ」とともに表出させていく。彼女、と、彼女、の距離の無化運動であるはずの叫びは、私がいる客席、と、舞台、と、の「間」をも喪失させながら、見る者としてではなく、触れてしまうものとしての「からだ」をそこに生成する。
豆電球が(ズラされながら)点滅している、背景に作られた3段構造の鉄の骨組み。その、上段(2段目)から飛び降り、設置された梯子を上り、又、飛び降り、再度上り・・・を繰り返しながら、テクスチャーとフォルムを持ってしまう言葉(モノ)を吐き出し続けていく〈BATIK〉のダンサー達。鈴、の、足枷から、も、白いワンピース、から、も、解放されながら、も、自身の「からだ」からは絶対に開放されることができない彼女達の姿。「身体にとって一番重要な(のは)呼吸(である)」(勅使河原三郎)を動きとしてでも、ましては、立つことにおいてでもなく、ビニル袋(を被ること)、に、よってそれをあきれるほど自明に表出させる時、白いワンピース、の、彼女達は、「からだ」としてしかそこにいない。グロテスクなまでに、啞然とするほどに、ただ、アル、「からだ」。舞台(装置)のジオラマを頭にかぶった人物が、「約束事」として舞台の裏に去った後も、「からだ」はただ、そこ・ここにアリ続け、「私」を殺し続けていく。
「生活」することは、忘却することを根底に置いており、その中で「身体」、制度が生まれ、保守化されていく。その、制度としてあり、保守化されている「身体」こそが「私」の1つであり、「からだ」はそれを崩壊させる装置として常にある。忘却よって成り立つ「生活」と、携帯電話やオンラインゲーム等、「間」の媒介の肥大化とバーチャル化により、見返されることが希薄化した現代、「からだ」は透明なものとして無視され、「身体」は、安全な「場」の中に喜んで埋没していく。「花は流れて時は固まる」は、その保守的で、肥大化し、すでに視線でしかない「身体」、「生活」者としての「私」に、(運動により)点、「からだ」を身も蓋もなく可視化させ、突き付ける。(コンテンポラリーダンスにおいて)現在言われている多様性が、ネット空間的、空間ではない空間の中でだけ成り立つものならば、そんなものいらない。「からだ」と言う確実すぎるほどの、点。そこから、保守としてでも、視線としてでもない、線、が生まれるではないか。薄っぺらな多様性なんかよりも、モノとしての、点、が作り出す、モノとしての、線、を。それこそが、私が望む開かれた多様性を内包したモノ、「花は流れて時は固まる」であり、何よりも、本来、生きるとは、モノとしての私が、モノとの接触によって作り出していく、線、であるはずだ。