現代の教育劇 ―『デッド・キャット・バウンス』 [柴田隆子氏]

 『デッド・キャット・バウンス』は「お金」が主役のショーである。一般に我々が考える「お金」とは貨幣のことであり、ものやサービスと交換するための交換価値として存在する。一方「お金」には資本という側面もあり、生産とストックを同時に生み出す投資は、資本主義社会にとって必要不可欠なものである。ところがごく最近まで「お金」の教育と言えばまず消費者教育で、収支のバランスを考えた消費活動と貯蓄の大切さが教えられてきた。投資に関しては、専門知識や分析力が要求されるのでプロに任せるものとされ、市場が開放された今日でも自分とは縁遠いものと感じている人が多い。こうした現状に対し、演出家クリス・コンデックは、株式市場の虜になった自身の体験から、このような関係性を演劇の場に持ち込めないかと考えたのである。

 舞台はまるでテレビのスタジオセットのようで、正面奥には大小のスクリーン、前面には両端にマイクとノートPCが置かれたテーブル、右奥にもPCや機材の置かれた机が見える。観客席は正面と右手にひな壇型にしつらえられ、ADの位置には効果音やイメージに合わせた音楽を演奏するベース奏者がいる。生放送の収録のように、スクリーンにはモニター画面などが投影され、それを見ながら観客はパフォーマーと共に株の売買を体験する。有名なチューリップ投機の暴落の話で安易な夢はどのように破れるかが示された後、既に未来も含めて市場経済に組み込まれているのだとスクリーンの中で経済学者の長原豊氏が警告する。資本は差異を求め続ける。
 ここで取り上げられたデイトレードは非常に敷居の低い投資方法で、必要なものはPCとネットから無料でダウンロードできる専用ソフトと取引口座だけと説明される。投資する資金は当日の公演チケット代金総額。売買毎に必要な手数料は取引の度に透明なケースに入れることで、見える形で示される。投資先の選択は、条件に合う銘柄を抽出するソフトを使い、実際の会社への関心はビールと煙草のどちらが好きか程度の気分でかまわない。あるいはダーツで決めたりする。公演中、投資先の会社に電話をかける場面があるが、これはその会社が実在するということを示すパフォーマンスに過ぎず、実際に投資担当者からこの会社の株を買うための判断材料を得るためではない。購入する株を選択する基準は、投資する会社そのものでも、それが生み出す生産物の価値や株価でもなく、株価に値動きがあるかどうか、つまり差異があるかどうかだけである。分秒単位で微変動する株価を見て、買った時の値より高い金額になった時点で売れれば勝ち。また投資した金額全体を90分の公演時間で運用し、運用益が出れば勝ち、下回れば負けである。証券分析もポートフォリオも必要ない。楽しいゲームである。
 資本主義に貢献することは、社会に対して有意義な行為だけを意味しない。デイトレードは市場をかく乱する迷惑な存在であり、ギャンブル的要素の強い胡散臭いもののように語られるが、個人投資家が自身の資金の範囲を超えず、常識の範囲で参加する限り、個人と資本にとっては有意義なのである。差異を生み出し続け、最終的に増えていることが資本にとって重要であるのだとすれば、デイトレードへの参加も、りっぱに差異を生み出し続け、全体の取引量を増やすという貢献につながる。売買の差額分のリスクしか負わず、時間を区切って参加すれば生活への影響も少ない。全体の分析ではなく直近の差異だけに注目すればいいので経験も関係ない。小遣い程度なら稼げるかもしれないと投資への意欲を刺激するかもしれない。
 デイトレードが一般に開かれた形で可能になったのは、証券取引に関する税制度や法制度が緩和されてからである。投資とは長期的視野を持って社会への貢献も考慮にいれて行なうべきであり、それに利益がついてくるといった考え方が通用していた時代には、市場は投機的な短期の取引を制限するための規制をいくつも設けていた。この10年の間に市場の自由化が進んだ結果、それまで「投資」とは分けて「投機」と呼ばれ賤しまれていた短期的な利ざやを狙う取引が、デイトレードと名前を変えて一般にも見える形で顕在化してきたのである。我々はこれが何かを知らなければならない。
 変動する数字に反応し、クリックひとつで売買が成立し、扱う数字の全体量ではなく、前後の差異だけが利益を生み出し、そこに「意味」は介在しない。そういう世界に我々の「お金」はある。もちろん元々の数字は「意味」を持っている、つまり株式発行高や株価はその会社のもつ力や社会における信用力などを示し、そこに働く人の労働力や生産物の評価も含みうる。平均株価は日々の暮らしや未来のヴィジョンなどの判断材料にもなりうる。しかし、瞬間の差異だけが問題となるデイトレードにおいては、「意味」は読み解く必要すらない。我々がパフォーマンスに見るのはそういう「現実」であり、それが必要とされている社会である。
 視聴者を退屈させないよう細部にわたって作りこみ、ADの指示による観客参加もネタバレ的に使うテレビの視聴者参加型バラエティ番組に慣らされている我々にとって、このパフォーマンスは物足りなく感じるかもしれない。刻々と変化する「リアル」な株式市場の動きに対し、通訳を介するパフォーマンスは人間たちの判断ののろさと情報量の少なさを際立たせる。しかし、これはテレビではなく、教育を目的にした演劇なのである。デイトレードに一喜一憂するパフォーマーと同じ場に居合わせることで、アミューズメント的なリアルさを疑似体験することで学ぶのだ。
 このパフォーマンスを見る限り、メディアで恐ろしげに語られる「市場原理主義」も、人が作った制度に過ぎないのではないかと思えてくる。このパフォーマンスの主人公は確かに「お金」ではあるが、やはりパフォーマーたちが選び取る差異に価値を意味づけすることによって初めて、そこに売買や利益や差損という「出来事」が発生するのである。制度とは人間が集団で生きるための知恵である。この舞台で問われていたのは、ひょっとしたら今言われている財界や経済学者らの言っている「市場経済」なるものをもう一度自分自身の身体感覚としてとらえなおすことだったのかもしれない。
 ドイツでは経済に関連する演劇は比較的多くあり、戯曲レベルではローランド・シンプフェルニヒの『プッシュ・アップ1-3』やファルク・リヒターの『氷の下』『エレクトロニック・シティ』などでビジネスエリートの悲喜劇が描かれている。これらの作品では映像メディアが効果的に用いられており、実際の演出でもビデオ映像が多用されている。ドイツに限る傾向ではないが、今日の舞台はビデオ映像との効果的な演出が高い評価を得ることが多い。ベルリンを拠点に映像作家としても活躍するコンデックの真骨頂は、アクチャルなテーマをビデオ映像とパフォーマンスの融合で描いた舞台だろう。今回、西すがも創造舎の特設舞台では十分その力を発揮したとは言いがたかったが、平田栄一朗氏の特別寄稿にある、ドイツでの「マネー講座」としての評価は、日本バージョンでも有効であろう。
 最後にタイトルについてふれておこう。パフォーマーが説明した通り、意味としては死んだ猫でも高い所から落とすと跳ね返る、転じて「大幅な下落に続く株価の急激な回復」を指す。これが現在の状況を揶揄するものだとしたら、思いっきり下落したら少しは反発する可能性があることを示唆しているのか、それとも命脈が尽きているのに将来性があると思わせているといいたいのだろうか。このタイトルは経済だけでなく、社会全般の気分を指しているのかもしれない。見かけのテレビショー的なお手軽さや軽い作りの裏に、観客が自分で考えるべきことは結構ありそうだ。