・劇と現実の接点である幕切れと幕開け
寺山修司にとって、劇が終わった後で役者がステージに並んで観客の拍手喝采
を浴びるなんて許されないこと、トンデモナイ、アリエナイことだった。劇場の
内と外とは同じひとつの現実だ。観客は、劇が問題提起したことをそのまま家庭
や社会に持ち帰り、自分を主人公にしてすぐさま劇を始めなければならない。観
客席で安穏と芝居を楽しむことは許されないのだ。
レバノンの演劇、ラビア・ムルエとリナ・サーネーの構成・作・演出による
「フォト・ロマンス」のエンディングも、暗転の一瞬に役者の姿が消えて戻って
こず、カーテンコールのない演出だったから、久々に寺山の演出を思い出した。
劇作品と現実の緊張関係にカーテンコールは水を差す。この作品の現実へのこだ
わりを感じた。
ステージに幕はない。開演10分ほど前から舞台奥でラビアと音楽のシャルベル
が客席を見つめながら話をしている。客席と舞台の反転を客はあまり気にしてな
いようだったが、これは「君たちも人生という劇の役者だ、しっかりと演じてい
るかね」というメッセージだったのだろうか。
開幕時間を少し過ぎてから、ラビアが舞台左手に登場し、パソコンのキーを押
して、テレビニュースのデモシーン映像を流し始める。
・リアルはシンプルな白黒の静止画にあり
視聴覚(AV)刺激は、有無を言わせぬ現実感覚(リアリティー)をもつ。実映像と
実録音を突きつけられると、それは本当の世界としか思えない。しかし実際に
は、映像配信は背後に必ず編集や制作(ヤラセを含む)の作業があるので、安易に
信じることは危険である。ファシズム、コミュニズムに限らず、およそ 20世紀
のすべての政治体制がAV刺激による大衆操作を利用した。
仮想現実とは、「現実には存在しないが、脳が現実と受け取るもの」である。
つまり我々の脳は、実在と仮想、本当と嘘の区別がつかないのであり、だから仮
想現実というカテゴリーが存在することになる。AV刺激は目と耳を経由してリア
ルな刺激を脳に送りこむが、それが本当かどうかは他人任せ、作った人、流した
人任せであるところが危険なのだ。
AV刺激でない他の視覚刺激の場合はどうだろう。我々の脳は、感覚器官からと
りこまれる外部世界の知覚(A)を、自分のもっている記憶(B)と照らし合わせて、
A=Bなら現実、A≠Bなら非現実だと論理演算をして真か偽かの旗(フラッグ)を立て
るようだ。
かつて美術館で尾形光琳の絵を見て、雁が本当に飛んでいると感じたことがあ
る。絵に近づくと、驚いたことに、雁はひらがなの「へ」の字を逆さまにした形
で一筆書きされているだけだった。写実性の高いコンピューターグラフィックの
動画より、単純な白黒の静止画のほうを脳はリアルだと受けとめる傾向がある。
記憶の映像はかなり単純化されて保存されるようだ。
・子どもの似顔絵を使って会話が成り立つ
「フォト・ロマンス」は、映画監督のリナが、検閲官のラビアに、新たに制作す
る映画の説明を行なって、作品の検閲と独創性についての意見を求めるというス
トーリーだ。イタリア映画「特別な一日」の舞台を2007年のレバノンに移して、
順番や歴史や政治状況を変えると説明される。
彼女がそれぞれの場面について原作との相違を口頭で簡単に説明したあと、舞
台中央に吊り下げられたスクリーン上に、映画のスケッチとして撮影されたスチ
ル写真が次々に映し出されていく。
まず「ヒロインは原作と違って、離婚して両親のいる実家に戻った女というこ
とにしました。」そして、「レバノンにおいて家族全員が家を離れて、女が一人
で留守番するということはほとんどありえません。だから、二つの大きなデモが
同じ日に催されるという設定にしました。」スクリーンを左右に二分して、冒頭
と同じデモの光景が両方に映し出される。ラビアは「どちらかの派閥の肩をもっ
ているわけではないので、これは政治的に正しいです」とコメントする。
「家族がいる間は、女は自分を生きてないので、家族の姿も彼女の姿も写しませ
ん。」女を残して家族全員がデモに出かける朝、人影のないベッドや衣装棚や洗
面台の写真が次々と映しだされる。家族の会話をリナが一人で読み上げていく
が、誰と誰の会話なのかさっぱりわからない。
ラビアがそれを指摘すると、リナは「幼い姪が描いた家族全員の絵が居間の壁
に飾ってあるので、話し手が変わるたびにその人に色を塗ってみることにしま
す」といって台詞の読み上げをやり直す。スクリーン上に幼児が描いた絵が映し
出され、リナが読み上げる台詞の主が変わるたびにその人の姿にだけ色がつく。
すると不思議なほどにはっきりと誰と誰の会話かがよくわかるようになった。脳
は言語処理に関しては意外と器用で、それが誰の声かが理解できれば、たとえ声
が同じであっても会話に聞こえるようだ。
「いってきま〜す」という台詞とともに、ヒロイン以外全員に色がついて、い
よいよ一人の時間となる。
すぐにヒロインが姿を見せるかと思いきや、「原作の順番を入れ替えて、最後
の場面を映します。」朝出て行ったままの食卓の写真を背景に、夕食の用意が出
来てないことで戸惑う家族と女の会話が聞こえる。(これがエンディングの第一案)
昼に何かあったことを匂わせてから、女と男の特別な一日が始まる。
・検閲も内戦もどうでもいい、男と女が一日をどう過ごしたかが大切
国民を二分する大規模なデモで家族みんなが出払うという設定や、台詞が政治
や宗教に及ぶとすかさず「その台詞は外してください」という検閲官のひと言が
入るところなどは、現代レバノンがおかれた政治状況を表している。だけど、た
くさんの血が無駄に流れた内戦の傷跡や情容赦ない政治弾圧の糾弾といったもの
は一切出てこない。
二人の物語は、女の家の猫が窓から飛び出して男の家にいったので、女は猫を
引き取るため庭を隔てて向かいの家を訪ねるところから始まる。
女は男の部屋にあった踊りの教本に興味を示す。健康法として医者に勧められ
たのだと言って、男は踊ってみせる。
スチル写真なのに、まるで動画を見ている気分になったのは、脳が動きを補正
して、動画のように感じさせるからだろう。これは、後で出てくる屋上で洗濯物
を取り込むシーン(二人はそこでキスをする)や階段を駆け下りながら追いかけっ
こするシーン(階段での追いかけっこを無限ループとして流すことで映画を終ら
せようというのが第二案だった)でもそうだった。
クライマックスでは完全にのめりこんで、スチル写真であることを忘れて、本
物の映画を観ている気分になっていた。
・生演奏が心を掻き立てるクライマックス
フォト・ロマンスは様々な魅力をもつが、音楽が生演奏であることも特筆すべ
きだ。レバノンでロック・グループのリーダーをしているシャルベル・ハーベル
が舞台の中央奥でギターの生演奏をしていて、それが観る者の心の琴線を掻き立
て、弁士が台詞を語るだけのスライド・ショーをよりリアルな世界へと高めていく。
リナが最後の場面(第三案)の説明をすると、ラビアは台本のその頁をくしゃく
しゃに丸めて捨て、「僕の仕事はもうないから、シャルベルの演奏を手伝うこと
にするよ」と言って、舞台奥にいく。ラビアは男として、検閲官として、原作に
はあった情交場面(濡れ場)がこの映画にはないとわかってがっかりしたようだ。
こうしてラビアによるピアノ、それからピアニカの生演奏も加わって、映画は一
気にクライマックスへと向かう。
女が男の部屋を訪ねる。男は女を招き入れ、食事を用意し、二人は食卓で向か
い合って食べはじめる。食事を口に運ぶ、語り合う、食卓の上でお互い手を伸ば
して相手の手に触れんばかりとなる、この3つの光景が繰り返し繰り返し映しだ
される。それ以上のことは描かれていないから、情交があったかどうかはわから
ない。
女は、恋愛結婚して学校を中退したあと、湾岸で9年間暮らしている間ずっと
夫の家庭内暴力に苦しめられ、離婚して実家に戻ったもののもう7年間も自分の
子どもに会わせてもらっていないと打ち明ける。
男も妻に逃げられたことを告げる。男は新聞記者なのだが、イスラエルによる
空爆の意味を問う記事を書いたことによって、新聞社をクビになったのだ。この
国では何かに疑問をもつことは許されない。彼は国を二分する大きなデモの日で
ありながら、どちらの側にもつくことができずに、一人で家にいたのだった。
やがて家族が帰ってきて、女は自分の家に戻る。女が帰った後、男は荷物をま
とめて、長期に留守にするために家具にシーツをかける。おそらくアメリカに行
くのだろう。迎えの車がきて、運転手に案内されて家を出る。女は台所に灯りを
つけて、外から見える位置に立ち続ける。そして男が立ち去ったことを確認し
て、灯りを消す。
そして、映画のエンディングのようにテロップが流れる中、ギターとピアニカ
がむせび泣くような音楽を奏で、劇は終わる。
・食卓の上で寄り添う手が心を通わせたのだろうか
観終わったとき、なんだかよくわからないけれども胸に迫るものがあって涙が
流れてきた。この涙の原因はなんだろう。
別に悲しいとか寂しいというわけじゃない。むしろ美しいものを観たことによ
るポジティブな涙だった。では何を美しいと思ったのか。男と女がセックスもせ
ずに、お互いに心を開いて、自らのおかれた孤独で息詰る状況を告白しあったこ
と、お互いの心と心が結びついたことだ。そして、心を通わせた相手のことを思
いやる優しさである。
仮に体を重ねたとしても、身の上話を打ち明けあうほどの心の解放は得られな
いだろう。しかしどのようにして心が通いあったのかだろうかと考えてみたとこ
ろ、食事中の手の動きが気になってきた。もしかすると、食事のときに手を近づ
けあいながら、相手の心の温かさや思いやりを感じ、やすらぎを得ていたのかも
しれないと思う。
フォト・ロマンスは、肉体的な交わりによって得られる共感を超えた、もっと
高い次元にある心のエクスタシー、純愛中の純愛を描いた作品である。
・ヒトは滅ぶときにも、美しく滅んでいける
芝居を観る前は、内戦の悲惨さや検閲を糾弾するメッセージが送られてきたら
どうしようかと少し身構えていたのだが、完全に裏をかかれてしまった。内戦で
多くの尊い命が失われ、街並みが瓦礫に化して、おそらく多くの人々の心が傷つ
き荒んだであろうレバノンで、このように繊細で美しく心温まる芸術作品が生ま
れたということは驚きであり、絶賛に値する。
人類は、人間同士を殺しあう戦争や、自然を敵視した環境破壊といった過ちを
たくさん犯してきて、地球文明は今まさに滅びつつある。この時代状況におい
て、5000年前にレバノン杉を伐採したギルガメシュ王の物語においても、近隣国
家の影響を受けながら展開された内戦においても、レバノンは文明の滅びの最先
端にある。そこで美しい芸術作品が求められ、生まれていることは、人間精神の
美しさと可能性の証明であり、人間本性が善であることの確かめである。ナザレ
のイエスを生み出した土地だけのことはある。紅海の大地溝帯が霊力を放つのか。
私は人類の一員として、この作品を誇りに思う。この作品を招待しただけで
も、今回のフェスティバル・トーキョーを実施した意義は大きいと思う。この作
品を招いたFT関係者の識見に心より敬意を表し、ご苦労をねぎらいたい。