身体の動と思考の静との混沌 ― グルーポ・ヂ・フーア『H3』 [中野三希子氏]

 舞台前方から客席の目の前までだけを長方形に切り取るように当てられた照明。その奥の暗闇から、2人のダンサーがそれぞれに現れる。2人はかすかな雑踏の音のみが聞こえる静けさの中で対峙する。時おり聞こえる、車が遠くを通りすぎていく音が、どこかの街の片隅でこのやり取りが行われている印象を与えていた。これは裏通りでくすぶる若者たちの一面なのだろうか。彼らが身につけている衣装も、Tシャツやポロシャツ、ジーンズにスニーカーといった、いかにもストリート上の若者の格好である。そんな若者の1人が喧嘩でも始めるような風体で、舞台上のダンサーの一方が他方に対して鋭く手脚を差し出すが、一方はそれをものともせず、攻撃してくる相手を視界にすら入れていないかのように、冷静に佇んでいる。そしてまた1人、暗闇からダンサーが現れる。いつのまにか新たなペアへと移り変わり、同じような対峙が始まった。より荒々しい動と、それを沈黙のうちに受け入れる静。ダンサー2人の身体の関係性がより強く見えてくる。寸止めのジャブを出し、蹴りを入れ合いながらも、ゆっくりと頭を他方の方にもたげ、時に身体を痙攣させながら、次第に2人は身を寄せあい、2人のダンサーが1つになっていく。が、次の瞬間にははじけるようにして再び相反する2つの身体になる。互いに引き付け合い、また互いに反発していくダンサーの間に働く力は磁力のようだ。流れるように静かに入れ替わったダンサー、波打つような彼らの動き。そのしんとした空間に、雑踏の音がかすかに響きつづけている。

 そこからふっと場面が変わり、黒のリノリウムが敷かれた舞台全体が照らされて、すべてのダンサーが一斉に舞台上を疾走する。3つのまとまりが、その疾走のうちに1つの大きなうねりを描いて、下手奥の暗闇に再び消えていく。ほんの一瞬の大きな動きだった。彼らが走り去った足音の残響のように、床を擦るスニーカーの音がひととき続き、そのまま全体での流れが見えてくるのか...と思えば、またデュオの緊張感へと戻っていく。相手の腕や自分の腕をくわえながらゆっくりと互いの肉体をすべらせて身を重ねるダンサー達の動きの中には、人肌を求めるような切なさも感じられた。腕を、身体をふるわせて寄り添っていく姿は、寂しげな子どものようでもあった。

 冒頭から入れ替わりで続くこれらの2人のダンサーの一連の動きは、一対一のやり取りにも見えて、実は1つの「個」の内面の具象であったのではないだろうか。あるいは、一対一のシーンのみならず、ダンサーたちが舞台に渦を巻き、全員があちこちで動き回るシーンもやはり同じだったのかもしれない。体育館の床にリノリウムのシートを貼っただけの、ごくごくシンプルで何の障壁もないステージの上で、それでも彼らは空間が足りないと叫ばんばかりに客席最前列ぎりぎりの空間まで走り回り、上手と下手に備え付けられたスピーカーすれすれまで飛び込んでいく。絶え間のない動き。絶えるどころか、その荒々しさとスピードはどんどん増してくる。ダンサーたちは空中でぶつかり合い、ふわりと空に身体を浮かせ、腰を落としてフロア上で回転してみせる。そして、そのめまぐるしいまでのダイナミズムの中にふっと生まれる、静の緊張感。動のシーンにせよ静の瞬間にせよ、ダンサーたちの身体は常にぶつかり合っている。物理的な身体同士の交差でもあり、直接交わらないにしても身体同士の間に働く磁力、張力によっても摩擦しあっているのだ。8人のダンサーは全く別個の8人の多様さでもあり、1つの個が孕む多様さでもある。他者とぶつかり合いながら走り抜け、生き抜いていくものと、自己をスパークさせようとするものとそれを冷静に受け止めようとするものとの2つの性質の対立が、舞台上に生まれていた。

 後半では、暗闇の中に、舞台の奥と上手下手の三辺を縁取る細い線状の白いライトが浮かび上がる。徐々に照らされていくステージの上では、2人のダンサーに力いっぱい押し出された各ダンサー達が、順々に下手の袖から舞台中を大きく旋回する。彼らのエネルギーは真っ直ぐに引かれた照明のラインなど気にしてはいられない。暗闇に浮き上がっていた繊細な四角いラインは、ダンサー達の激しい動きと息づかいに乗って、みるみるうちに歪んでいった。作品中では、このシーンを含め、胸を反らせて大きく上を仰ぎ見ながら舞台袖に退いていく動きが多用されている。これはダンサーが次の動に向かって静を充電する間でもあり、観客にとっても次に眼前に繰り広げられるムーブメントまでの息継ぎのような、唯一の休符であったと思う。突き動かされるように舞台上を飛び交うダンサー達の身体と、そこに垣間見える静とが相まって、この「H3」という作品の流れが出来上がっていたのであろう。

 そして突然、白い蛍光灯の光が劇場である体育館全体が客席まで含めて明るく照らす。これまでどこかしら影に隠れていた彼らの姿がようやく明るみに出たのだが、この後のスピードの中にはもはや観客に思考させる隙すら無かった。暗闇から解放され、衝動に任せるかのようにはじけるダンサーたちの速さには、我々の思考など追い付きやしないのだ。だが、だからこそ、その激しさの中にある彼らの感覚が、観客の肌にじかに伝わってくる。身体が、感じるのである。繊細に舞台を囲んでいたライン状の照明は、結局は他愛もない一本のロープででもあるかのように一人のダンサーによってステージの上から取り払われた。ここで彼らは、暗闇から、そしてステージを囲む縁取りからも、完全に解放されたのだ。観客の視界いっぱいに、あちこちで跳び、回り、走る、個々のダンサーたちの姿が映る。同時多発的、とでも言うのがふさわしいのだろうか。8人の身体のエネルギーが最も騒ぎ、暴れるシーンだったのだが、彼らの中から湧き上がる切実さを最も感じるシーンでもあった。本当に、よく動く。そこには何のセンチメンタルさも無く、屈強な身体を持った男たちがただただ衣装を汗まみれにしながら踊り続けているのであるが、観客の心に深く訴えかける何かがあった。彼らの「哲学」はここにある。彼らは頭の中の思考を身体の動きで振り切り、生というものに対するそれを身体に乗せきっていたのだ。動のエネルギーと思考の静とがこれほどまでに一体化したパフォーマンスはそう実現するものではない。これまでの振付の中にあった動と静の完全なるバランスは、ムーブメントと思考という一見相容れない二者が混沌となるこの瞬間に、集大成されていたのである。ひたすらに動き、息を切らせ、互いに身体をぶつけあう彼らの姿には、踊ること、舞台に立つこと、表現をすること、そうして、生きていくことへの衝動が溢れている。表に出ないけれども溢れ出てくる彼らのひたむきさに、自然と涙がこぼれてきていた。

 そのうちに劇場中を明るく照らしていた照明が再び落ち、ダンサーの一人が移動式のライトをひとつだけ灯して下手に集まった残りのダンサーたちを照らす。舞台いっぱいに散らばっていたダンサーたちのうちの数人はいつの間にか上半身を露わにしており、肩を上下させるほどに息を切らして隠れるように舞台の片隅に佇んでいるのだが、それでもまだ、動かずにはいられないかのように舞台のセンターに飛び出していく。舞台奥から真っ直ぐに客先に向かって照らされたまぶしいほどの光の中に、彼らの最後の一騒ぎの美しいシルエットが見えた。

 ラストのシーンでは全員が横一列に並び、奥の暗闇の中から現れる。それまであたかも無秩序に(間違いなく実際には緻密な構想の上で成り立っていたものなのだろうが、)舞台上のあちこちで火花を発していた彼らが、初めて我々観客を真っ直ぐに見据え、真っ直ぐに観客席に向かって歩いてくる。思考の針が振り切れたその先の域に到達してしまったような、すっかり落ち着いた静謐さを持っているけれどもどこか挑戦的な、余裕を含んだような彼らの視線と力強い足取り。私たちはまだ彼らのその域に追い付けていない、待ってくれ、もう少し、と、そう思っているうちに彼らは観客に背を向け、また胸を反らし、天を仰いで、暗闇の中に消えていった。闘いのようでもあった動きの連続の結末にあったあまりの静けさに、深い余韻が残る。作品の中でずっとそうであったように、最後の動作は次のムーブメントへの助走なのであろう。彼らは一体どこまで突き進んでいくのだろうか。

 ダンサー同士での対峙、一つの個の中での対峙、ラストシーンでのダンサーと観客との対峙。この「H3」という作品の中では様々な対峙が発生していた。それはダンサー同士での動きそのものでの対決でもあり、自己、あるいは他者との精神的なぶつかり合いでもあった。グルーポ・ヂ・フーアというこのカンパニーが軸としているヒップホップというジャンルのダンスは、そもそも抗争の歴史やダンスバトルの要素を髣髴とさせるものでもある。振付家ブルーノ・ベルトラオは、そのヒップホップの激しさを保ったまま、人間の内面にあるもの、人間の生への切実さまでをも観客に感じさせる鮮烈な作品へと、ヒップホップを深く深く、掘り下げていくのだろう。