「パンツは見えたか?」  [内田俊樹氏]

 観る前からこんなに盛り上がった芝居は、これまでなかったのではないか? 多分、これからもないような気がする。
 配布されたチラシには、『究極のパンチラを求めるスペクタクル!』とある。劇団が作成したチラシゆえ、多少の誇張はあろうが、しっかり文字としてこう印刷されているのだから、これは証拠物件意外の何物でもない。
 果たしてパンツは見えるのか? 見えないのか? これは世の男どもにとっては、何にも増して最重要項目である。世界の核の削減などという半ば夢物語などより、こっちの方がよっぽどリアリティのある命題に違いない。それを否定する者を、私は金輪際信用しない。
 パンツが見たい! そのことに限って言えば、世界の男どもは、人種も宗教も超越して、すでに一つだ。

 『太陽と下着の見える町』というほのぼのとしたタイトルをそのまま引きずったような、ひばりの鳴き声も清々しい朝、一人の初老の男の姿を皮切りに、オープニングからテレビのチャンネルを切り替えるが如く、目まぐるしく様変わりするイメージの羅列。それぞれのイメージにはどこまでの繋がりがあるのか、この時点では明確にされない。それどころか、そんな関係性を探ろうとする観客の想いをわざと無視するかのような圧倒的なスピード感に、ただただ翻弄されるばかりだ。
 作者であるタニノクロウ氏は、ザッピングという手法を大胆に用いて、自分の頭の中に浮かび上がっては消えてゆくイメージへの共有を、観客の頭蓋骨を切開し、脳の中に無理矢理押し込んで迫るのだ。好きとか嫌いとか言う前に、まず、力でねじ伏せる。まさにハイジャックならぬブレインジャック!

 目まぐるしいザッピングがひと段落すると、舞台は明かりを増し、白く寒々とした建物の全貌がはっきりと現れる。1階には、鉄格子のはまった部屋、左右にベッドが並んだ部屋が2つ、そして2段ベッドのある小さな部屋が並んでいる。すべては白で統一され、余計な物が何一つないほど綺麗に片付いている。2階は会議室のような机と椅子が並んでいて、そこそこ広いベランダが開放的だ。察するに、どうやらここは精神病院らしい。
 最初に登場した初老の男が何やら一人で喋っている。先のザッピングで一瞬2人の刑事によって語られたように、後々、顔に満面の笑みを浮かべながら死を迎えるこの男は、それでもまだ知性を保っているように見える。時々便器の中にいる誰かと話してはいるが。
 その隣の部屋では、40代の既婚の女と、30代の落語家志望の女がベッドに腰掛けている。既婚の女は一見おしとやかに見えるが、その裏にどうも何かを隠しているような雰囲気を漂わせ、落語家志望の女は一日中喋っているので自分の口は大きいと言う。そして既婚の女のことを可愛いと褒め、迫る。
 またその隣では、マゾでデブで食べ物と旅行にしか興味のない10代の青年と、自分には解けない問題などないと豪語する数学の得意な受験生が、そして一番左の2段ベッドのある小さな部屋では、まだ幼い女の子が無邪気におもちゃの車で遊んでいる。
 彼らは壁一つ隔てた部屋で過ごしているが、基本的にはお互いのことに感心を持たない。ご近所付き合いのないマンションにでも例えれば分かりやすいだろうか。そんな彼らの生活を、まるで配線のセレクターを切り替えるように、カチッ、カチッ、と、素早く映し出してゆく。ある部屋にライトが灯ると別の部屋のライトが消え、消された部屋の住人は、暗闇の中そのまま動きを停止する。
 さらに、たとえ同じ部屋の住人であっても、一緒に過ごす時間のほとんどは他人だ。ただそんな間柄ではあっても、時として目に見えぬシンクロが発生することもあり、それがかえって可笑しさを誘う。既婚の女が配る幾冊もの赤い本の一つを無理矢理手渡された初老の男は、試しにページをめくってみる。そこに書かれている内容は、愛を巡る物語という女の説明とは裏腹に、セックスによって服従させられる男とさせる女のエロ話。男の読む声に続いて女の読む声、それが聞こえているわけでもあるまいに、時を同じくして隣の部屋のベッドで赤い本を手にオナニーする受験生。

 一方2階では、"パンティ" と呼ばれている青年がパンティの歴史物語を熱く語る。1階の入院患者たちの勝手な行動を横軸とするならば、2階で展開されるパンティにまつわるやり取りは縦軸だろう。このバカバカしくも異様に熱意のこもった歴史物語は、今まさにバラバラに進行中のさまざまなエピソードを関連付ける一本の太い柱となっている。そう、そもそもこの物語はパンツとパンチラにまつわる物語なのだ。
 ちなみにパンティの起源は遥かシュメール文明にまでさかのぼり、腰ミノのような状態から、次第に形を変化させてゆき、今のような形となったらしい。もっともらしいが、真実かどうかは定かではない。
彼はその後もところどころで登場し、時には狂言回しを演じながらも、強い自己主張でもって、観客の笑いを誘い、また、呆れさせもする。中身に比べてパンティに対する議論がおざなりにされているのはけしからん! などと。
 また、ミニスカート姿の自分の彼女がベランダに出て景色を眺めれば、下からの風邪でスカートがそよぐところをすかさず膝まずいて覗いたり、下着を付けたままでのセックスを希望して、彼女に、また? とか胡散臭がられたりとか。
 同じ建物に住む画家とその妻のモデルの場合などは、夕日を眺めれば妻の股間には赤いパンツが、青空を見渡せばやっぱり彼女の股間には真っ青なパンツがパンチラどころか、パンモロ状態で露出する。
「ねえ、見てる?」
「ああ、見てるとも!」
 彼女の問いは画家である夫に対して発せられたものなのに、心の中で無意識に返答してしまう自分が忌まわしい!

 このように随所で露出される赤、青、黄緑、ピンク、白、黒、などの色鮮やかなパンツに一喜一憂している最中、しかし、音もなく忍び寄って来る<黒い死の天使>の存在が、砂糖に混ぜられた一粒の岩塩のように異質な存在として鈍い光を放つ。
 それは黒ずくめの幼い少女のような姿をしていて、2段ベッドのある部屋にいるやはり幼い少女のもとを訪れ、友達になるのだ。そして眠った少女の姿がいつしか同じような黒装束に変わっているのにハタと気づく。
 初老の男がいつものように独り言をつぶやいている。
「頭の違った人間の見る光景は、普通の人とは違い、自分の都合の良いものだけで出来ている」
 彼の頭の中にフランク・シナトラの歌う「ムーンライト・セレナーデ」の甘いメロディーが溢れ出す。色とりどりの風船を手にして、まるでビング・クロスビーばりに踊り、幸福感に包まれたままベランダから飛び降りる。
<黒い死の天使>は再び初老の男の死体の近くにも現れ、死体を横目に見ながら楽しそうに踊る。先に死へと導かれた少女もそれに呼応するかのように、別の場所で一人踊る。
 エロス(性)とタナトス(死)は分かち難く共存する。それはコインにおける表と裏。明るさに満ちた『太陽と下着の見える町』においてさえも・・・。

 パンツは見えた。約束は守られたのだ。欲望のおもむくままに私的な妄想を開放し、その結果、演劇は意外な地点へと辿り着いた。にもかかわらず、全体を通しての感触はどこか冷ややかだ。
 それでもこの冷ややかさこそが、実は我々を取り巻く世界の感触に他ならない。もう70年代の熱狂はとっくに過ぎ去ったのだ。だからすべての人が共通して持てる感動と熱気など、すでに幻想の中にさえ探し出すのは困難だ。
 ならば今、語るべき、表現すべきは、私的な思い込みの中にしか存在しないのかも知れない。あらゆる表現形態が時代の雰囲気とかかわらずには済まされないとするならば、マニアックな個人的関心事の中にこそ、実は人と人との関係がますます希薄になりつつあるこんな時代に生きる我々が共感出来る可能性が散りばめられているはず。
 この『太陽と下着の見える町』には、パンチラという極めて極私的な感心事でありながら、しかし同時にそれが生殖という逃れられぬ本能に根付いている点において、多くの共感を得ることを可能にしている。そこから導き出されるのは、演劇の一つの未来図・・・。
 などという屁理屈は抜きにして、世の男どもには大いなる好奇心を持って迎えられるであろうこの作品。では、もう一方のパンツを覗かれる立場の女性にとっては、どのように受け止められたのだろうか? ミニスカートをはいた女性にぜひ聞いてみたいなぁ・・・。