まず僭越ながら私の個人的なことを語らせていただくと、大学の卒業論文を1ヶ月後に提出しなければならないし卒業後の進路も決まっていない。芝居など見ている場合ではない。ないのだが、ひょんなことからチケットをいただいてしまい、さらに前評判の高さについ惹かれて劇場にやって来た。そして劇評などほとんど読んだこともなく、ましてや書いたこともなかった私だが、ものすごい感動に駆られて文章にせずには居られなかった。あんなに綺麗な舞台は見たことがなかった。
先に書いてしまうと、私はこの演劇のあらすじを理解できなかった。だからこの物語の筋道を紹介することはできない。鑑賞した人それぞれに理解が違ってそれでいいのではないかと思っている。私の理解力不足があるかもしれないが、正直に私が感じ取れたことを元に評価していくことにする。
劇場ホールに入ると、うっすらと霧が立ち込めた空間が観客を待っていた。舞台上に"INFERNO"の文字が後ろ向きに立っている。その並びは客席から見ると右から並んでおり、舞台上から客席に向かって立つと正しく見えるはずだ。蛍光灯が切れかかっているときの、ジジ・・・ジ・・・バチッという音が開場から開演までずっと聞こえていた。人によっては不快な音だったかもしれない。見慣れないイメージの取り合わせに、私を含め観客の期待がざわめき立っているのが感じられた。これからいったいどんな阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されるのだろうか?
《痛みのない暴力》
「ワタシノ、名前ハ、ロメオ・カステルッチ。」まず演出家自身が登場し、名乗ることから舞台が動き出す。演出家はクッション材の詰まった防護服を着て、大きなシェパード犬達に自分を襲わせる。ワンワンワンワンワン!と犬達がけたたましく吼え、容赦なく男に噛み付いた。むごたらしい暴力的な場面なのだが、何かがおかしい。いわゆるホラー映画や恐怖演劇と違うのは、明らかに嘘っぽく場面が作ってあったことだ。彼が防護服を着るところを観客は目撃しているし、犬は合図を待って襲い掛かった。恐怖演劇だったら防護服を観客に見せないし、肉や血が飛ぶような演出にしたはずだ。
また別の場面では人々の群れが三途の川を流れるようにゆっくりと進んでいく。暗い表情の彼らはみな個性のない同じ動作で、ぞろぞろと流れる。私は原爆投下後の広島を描いた絵を思い出した。ヨーロッパ人だったら強制収容所に送られるユダヤ人のイメージを思い出すかもしれない。戦争時代の暗い記憶を連想させながらも、ただ、そこには死への恐怖とか肉体的な苦痛がまったく欠けていた。
動物の死にはだいたいの場合において付き物である「血」。古今東西の地獄のイメージとは切っても切り離せない「血」。劇の後半にやっとその表現が出てきたと思ったが、それは明らかに偽物の血であった。白い大きな馬が舞台に登場し、人がその馬の体にバケツで赤い水をかけたのだった。
ロメオ・カステルッチの世界には、地獄といっても苦痛がない。暴力的だが、痛みがない。誰も叫んだり泣いたりしない。倒錯した感覚かもしれないが、それを私はとても綺麗だと感じた。登場人物が感情を殺していたことにより、時代や人種を超えた人間の根源的姿を描き出していたように思うのだ。
人の群れから恋人や親子が立ち上がって抱擁をする場面があったが、彼らは体でしっかり抱きしめあった後あっけなく剥がれて、また個性のない人の群れに戻っていってしまう。死者の魂が一瞬だけ生きていた頃の家族や恋人との繋がりを思い出し、その思い出はまたはかなく消えていってしまうという場面だと私は解釈した。地獄とは人の心が消える場所なのだと。
おじいさんが地獄で悲しそうに叫ぶ。「ドコニ、イルノ?」と。それは片言の発音で、日本人の私の耳には不自然に聞こえた。なぜあの台詞を英語やイタリア語で言わなかったのだろうと考えてみると、おじいさんの体と感情が乖離している超自然な状態を表現しているのではないかと思えた。おじいさんは孫の魂を求めて叫んだように見えたが、その言葉はもはやおじいさんの言葉ではなかったのではないだろうか。
ある場面では、うずくまるたくさんの人々を背にして、黄色い服の少年が舞台上でただ一人まっすぐに立つ。手にはボールを持っている。おじいさん、小さな女の子など、順に交代が現れ、何も言わずにボールは引き継がれていった。年頃の女性がそれを抱えたときには、妊娠したお腹のように見えた。あれは何だ?バスケットボールだ。最後にボールを受け取ったおばあさんはボールにかじりついた。巨大なオレンジの果実であるかのように、がぶがぶと飲み込んでいった。あれは何だったのだろうか?きっと観客それぞれにまったく違うものに見えたはずだ。
《観客に向かう、触る》
また、この舞台作品において忘れずに評価したいのは観客へ向かう姿勢である。
まず幕が開く前に"INFERNO"の文字が客席に後ろを向けて並べられていたことから、それは読み取れる。
序盤、マジック・ミラーでできた巨大な立方体が舞台に現れる。外界から隔離された不思議な立方体の中で、幼児達が遊んでいる。子供の声がする、あんな所に閉じ込められた子供はどんな様子だろうと観客が目を見張っていると、照明の向きが変わり客席に光が当てられた。すると立方体は鏡となって私達観客の姿を映す。観客は大胆な舞台装置と、鏡に映った自分を見る自分の姿に面食らってしまう。
白髪の男性が登場し、客席に向かっていきなりポラロイドカメラのシャッターをきる。彼はアンディ・ウォーホルである。ポップ・アートによって美術のパラダイムをシフトさせた彼が、舞台から客席へと干渉を仕掛けてくる。またシルクスクリーンを用いて肖像画を繰り返し描いた彼は、感情なく反復を繰り返す地獄の象徴である。
そしてこの舞台の演出における最大の驚きは、客席1階を白い薄い布ですっぽりと覆ってしまったことだ。巨大な布が前からじわじわと広げられ、私達の視界をすっかり隠してしまった。視界の不自由さだけでなく閉塞感も感じた。ただ照明が明るく照らしてくれていたので怖くはなく、繭の中にいるような暖かさも感じた。いずれにせよ舞台が観客に触れようとするなんて、私にとっては新鮮な体験だった。
このように、この舞台では様々な舞台装置を用いて観客の感性を挑発してくる。観客は何を感じ取るのだろうか?私はこの通り、感想文を書きたくなってしまったのだが。
《自分の感覚で見ろ》
読者の方々には興味がないであろう私のことからこの劇評を書き始めたのには理由がある。私が、この舞台から、「自分の感覚で見ろ」というメッセージを受け取ったからだ。だから無私の評論文にせず、まず私のことを読者の方に知ってほしかった。
鑑賞後、同じく『神曲―地獄篇』を観た友達に感想を聞いてみると、「自分はおもしろかったが、周りの観客はわけがわからない顔をしていた」と言う。確かに起承転結のない物語であったので、舞台上にあるものの意味をひとつひとつ考えていくと、付いて行くのが難しいかもしれない。
『神曲―地獄篇』の各種メディアでの取り上げられ方を見ても、「イタリアの鬼才演出家」「ダンテによる古典名作」など、魅力的ではあるがなんだか敷居が高そうな言葉が気になった。ハイ・アートには背景知識が必要で、正しい鑑賞の仕方があってそれに沿って見なければならないと思っている人が多いのではないだろうか。
背景知識が読み解く手がかりになることは確かにある。しかし私は今回そんなことは抜きに楽しめたし、何も考えていなくても感動してしまった。
「演劇だけでなくすべての芸術作品は、芸術家でなく観客によって所有されるもの」だとカステルッチは語る。(シアターガイド2009年12月号『「神曲」三部作 ロメオ・カステルッチ ロングインタビュー』)だからどういう風に受け取っても正解だし、意味がわからなくても楽しめればいいのだ。
先に述べたように、ここは痛みや心のない地獄だ。死後がどんな世界であるかという考えはその人の信教によって違うだろうし、現世の私達はどう頑張っても正解を知ることはできないが、もし地獄がこのようなところだとしたら、死後、感情もなくなるのだ。それを裏返すと、生きているうちは感情を大事にしようというメッセージを導くことができる。制作者が意図したかは知らないが、私はそう受け取った。
と、偉そうに書いてはみたが正直に告白しよう。私はこの舞台が終った時に立ち上がって拍手をしたいと思った。しかし一人だけ立ち上がった途端後ろの席の人の視界を遮っていることが気になってしまい、すぐにまた座ってしまった。日本人的に空気を読んでしまう悲しさよ。自分の感動のままに立ち上がることもできない不甲斐なさよ。
私はそんな自分に恥じ入りながら言いたい。今、現世の自分の感覚が全てだ。自分の感動に素直に生きよう、と!
ロメオ・カステルッチの描いた地獄は様々な謎を観客に残し、解釈を任せた作品だった。心のない地獄の様子は私の目にとても美しく映り、しかしそれだからこそ逆に自分の感動を見つめ直したくなった、そんな作品だった。