文明に疲れたら
心を自然にまかせ
無心に体を動かしな、
すると詩が生まれるから。
1 野外活動の多い維新派
学生時代はよく芝居を観たが、社会人になり、家族をもって以来、あまり観て
いない。忙しいのと金がないことのほかに、劇団や作家についての口コミが入ら
なくなって、何を見たらよいのかわからなくなったこともある。そもそも1980年
前後の演劇に感じた情念はもはや感じられないとあきらめていたのかもしれない。
当時は青年座や文学座のアトリエ公演をよく観た。高桑徳三郎の「ドラム一
発、マッドマウス」や別役実の「天神様のほそみち」などには心の底から感動し
た。赤テントの状況劇場、68/71黒テント、風の旅団などのテント劇も好きだっ
た。大都市の中でたまたまぽっかりと残された空間にはられたテントの中で、都
市革命や心の解放を求める熱情に心を躍らせ、挫折に心を痛めた。だが幕が下り
ると、布一枚隔てた外はいつもどおりのよそよそしくて冷たい都会の空気。ドラ
マ性も情熱もすべてテントの中のつくりごとだよと大都会がうそぶいているよう
で、劇の後で日常のあまりの健全さや不感症にさらされていつも無力感や寂寥感
を感じていた。
そういう嗜好が作用したのか、F/Tでは野外活動が長いという維新派の芝居を
観ることにした。30年前に比べると、東京に空き地はますます少なくなったけ
ど、それ以上に驚くべき勢いで都会自体が確実に廃墟に近づいている。にしすが
も創造舎も、何年か前に廃校になった小学校だ。野外を追われて廃校に迷い込ん
だ維新派がいったいどんな作品を見せてくれるのか楽しみだった。
200人ほどの会場は、アフタートークもあるせいか、補助席も売り切れて札止
めの超満員。客層に私と同じくらいのおやじの姿を結構見かけたのは、不況のせ
いだろうか。自分が不況を作り出したわけではないと腹をくくり、自由時間を芝
居に心を遊ばせられるなら、不況もそれほど悪くないさ。
2 芝居の進行に沿って
ろじ式はそれぞれ異なる性格のことばを使用する四つの場から構成されてい
る。勉強で覚えた博物学的な知識、自然と対話するオノマトペ、自分をみつめる
沈黙、生きていることを讃える詩のことば。
(1) 博物知識と文明
舞台上と両脇には、科学標本室のように類人猿をはじめとする鳥や魚など大小
の化石標本が積み上げられている。
幕開けは、声を揃えて元素記号を読み上げるところからはじまる。子ども服を
着たからくり人形のような姿をした役者が両手でうやうやしく標本箱を抱えて、
教科書の知識を口にしながら、独楽ねずみのように舞台上を行き来する。それは
それで楽しい光景だった。
はじめのうちは、きれいな動きと、台詞のリズムが面白く見とれていたが、だ
んだん見慣れて(見飽きて)くると、そんな知識が何になるのだ、うるさいぞ、と
いう気分がわいてくる。これは僕のわがままというより、演出の狙いだったと思う。
何のドラマがおきないじゃないか。役者同士の出会いひとつ、会話ひとつな
い。これでは殺伐しすぎていて虚無だ。もういいよ、かんべんしてくれ、そんな
心にもない、借りてきたことばを口にするのはやめろよ!という思いが高まって
くる。
自然を標本にするという発想も、もともとは純粋な科学の探究心に根ざしたも
のかもしれない。だけどすべてに名前をつける行為は、人間が万物を所有してい
ることの確認のようでもあり、そこに人間のおごりを感じる。野生生物が死屍累
々と居並ぶ横で演じられる芝居は、文明という不自然な存在は野生生物の生息環
境や命を奪うことでかろうじて存在していることを示唆している。
(2) オノマトペによる自然と意識の一体化
とつぜん「お帰り〜」という声がそこかしこからする。四季や自然を賛美する
台詞に変わる。そして、役者の両手は鳥のように羽ばたきはじめ、「でれんでれ
ん」、「ぼろぼろ」といったオノマトペがことばにまじりはじめる。虫網をもっ
た役者と金魚をもった役者が舞台上で出会って、はじめて会話らしい会話がはじ
まる。
それから背景のスクリーンは雨を映し、役者は「ざーざーざー」とその音に一
体化し、観客席に座っている私の心までなぜか安らいでくるのだった。
オノマトペと教科書知識の台詞が交互に叫ばれるとき、驚いたことに、オノマ
トペのほうが圧倒的に力強く、教科書的知識は化けの皮がはがされて一挙に影を
薄くした。オノマトペの力の源泉は言霊にあるのだろうか。
縄文学の小林達夫先生によれば、オノマトペが多いのは日本語特有であり、そ
れは山川草木悉皆成仏という自然観にねざしていて、自然もことばをもつとする
縄文人的な思想だという。裏返せばそれは、自然の語ることばが聞こえる耳つま
り意識と思考回路を我々がもっているということである。
自然の語ることばを、人間が聞き取れるとは、なんてすばらしいことだろう。
道元も「山声渓色は8万8千の経を読む」といっている。山の声と一体化すること
は悟りである。雨音を口ずさむことは悟りである。さかしらな文明に疲れたとき
に、心を雨と一体化させればスカッとした気持ちになれるということを維新派は
教えてくれた。
つづいて頭の上に靴を載せて歩く人たちが舞台に登場する。禅の公案「南泉斬
猫」に登場する趙州和尚を思い出す。境内で学僧たちが二派に分れて子猫に仏性
はあるのかないのかと言い争っていたところを通りかかった南泉は、子猫を奪っ
て「何かひと言言ってみたまえ、さもないと子猫を殺す」と迫ったのだった。学
僧たちが無言でいたために、その子猫は一刀両断にされた。夜になって外出から
帰ってきた一番弟子の趙州に南泉が昼間の話をしたところ、趙州は黙って草鞋を
頭に載せて部屋を出て行ったという話である。
これまた悟りである。いろいろ知識をふりかざして頭で考えて、行動がストッ
プすることほどくだらないことはない。知性を否定せよ。動物的本能に身をまか
せて行動せよ。文明生活に心も体もがんじがらめにされているから辛いんだ、さ
かしらな文明なんて忘れておしまい。
(3) 無言で踊ることの楽しさ
南泉斬猫を心得た役者たちは、自由に体を動かして、無言で楽しそうに踊りは
じめる。足をのびのびと高く掲げ、体をくるくると回して、体も心もいっぺんに
解放されていくようだ。動物みたいにことばなく生きてごらん。悩みなんて吹っ
飛ぶから。
しかし無心で気持ちよさそうに踊る役者をずっとみていると今度は別の考えが
浮かんできた。たしかに人間が動物のように生きれば、悩みもない。でもそんな
ことが許される時代を我々は生きているのだろうか。
人間はたしかに動物の一種ではあるが、ことばを生み出し、ことばによって考
えてきた動物である。そして、人間はことばを獲得したために、自分だけ偉いと
勘違いし、他の生き物を殺しつくし奪いつくし、自然からの略奪をつづけて来た。
その結果、地球上の森林という森林は姿を消し、野生動物は住む場所を失って
絶滅した。68億人にふくれあがった地球人口の半数以上が住んでいる都市に廃墟
の臭いが漂うのは、都市をとりまく後背地の環境が破壊されたためだ。後背地か
らの収奪の上に存在している都市に住んでいる限り、動物のようにことばなく生
きることはできない。
それにことばなく生きるということは、人間が人間であることを否定すること
にならないか。人間はこれまでたくさんの過ちを犯してきた。それはことばを獲
得したためである。しかし、ことばに罪があるのだろうか。むしろことばにこ
そ、人間らしさの本質があるのではないか。
(4) 詩人になって愛のことばを
じつは人間がいつどのようにして言語を獲得したのかは、人類学でも言語学で
もまだ解明されていない人類最大の謎である。21世紀になって、分子生物学的手
法を用いたミトコンドリアDNAの突然変異解析やY遺伝子の変異解析によって、現
生人類は今から5〜10万年前にアフリカで生まれて、世界に広がったというとこ
ろまでは明らかになった。しかし、ことばがいつどこでどのように生まれたのか
については、まだ仮説ひとつないのが現実である。
ヒトは周囲からの言語刺激さえ受ければ自然にことばをおぼえる。チョムス
キーは、それを生成文法・生成概念といって、ヒトの言語は生得であるという。
言語能力は人間の遺伝子の中に組み込まれているというのだ。
分子生物学を情報理論によって読み解く学者によれば、人間の言語の文法や概
念形成の手法は、DNAからRNA、アミノ酸、タンパク質へとつながる生命の文法や
タンパク質合成のやり方をそのまま受けついでいるという。音節が単語になり、
単語が意味と結びつき、いくらでも長い鎖となって物語を紡ぐこともできる。ま
だ証明されていない説であるが、心惹かれる説である。
これは、ことばが自然進化の中で生まれたということを意味する。人は生まれ
ながらに善であるとする孟子の性善説や、人は生まれながらに悟っているとする
天台仏教の本覚理論の主張と通ずる。そして、厳しく修行し、過ちを犯さなけれ
ば、宇宙の真理や自然の法則もことばにおきかえて自らの意識の中に取り込むこ
とができるのだ。
人間とは、ことばを話す動物である。だとすれば、いつまでもパントマイムだ
けというわけにはいかない。正しく使うことを心がけながら、ことばを使わなけ
れば人間ではないのだ。ではどんなことばを使えばよいのだろうか。
足首くるぶし。
つまさきかかと。
とこかか、かかとこ。
はだしであるく。
自分の身体をささえてくれる足を祝福する。はだしで歩くことで、大地のぬく
もりや生命を感じる。生命のあふれる世界に感謝し、身近な景色を寿ぐ。これは
詩心のはたらき、詩人になるということだ。詩人は、ことばをつかって何かをほ
めたたえるのが仕事である。
ことばを耳にするだけで、体中の細胞が振動しはじめる。DNAの二重らせんや
RNAやアミノ酸ポリペプチドが詩のことばのリズムに合わせておどりはじめる。
これは元気の源である。
それから、詩人は風と一体化して、みずから風となって世界へと旅をはじめ
る。「八重山、宮古、、、、」と南西諸島の名前が叫ばれるが、これはもはや試
験勉強のための丸暗記ではない。我々が風になってアジアに向けて旅をするとき
に通過する島々だ。役者たちが「アジアの路地を」、「アジアへ歩く」と歌いな
がら標本箱の取り去られた舞台の上でのびのびと踊るなかで暗転、幕が下りる。
3 そして、日本はアジアである
この芝居の筋はわかりやすい。知性のみ振りかざしてきた文明が行き詰まって
きたので、オノマトペにより心を自然と一体化して解放し、舞踏によって身体を
解放し、詩人となって世界と交われというメッセージである。文明の終局が確実
なものとしてみえてきた21世紀に大切なテーマである。
しかし、アジアにいくために、我々は海を渡る必要が本当にあるのだろうか。
日本はアジアでないのかという疑問がわいてきた。日本古来の稲作文化や縄文文
化はどう見てもアジア的である。オノマトペが豊富な言語もアジア的である。世
界でも珍しい一音節を一文字で表す音節文字を、ひらがな・カタカナと2セット
ももち、万葉集の時代から、支配層から庶民に至るまで詩歌をつくり愛し続けて
きた日本こそアジアの中のアジアではないか。
我々は、この日本でオノマトペを使い、無言の行をし、そして詩人になればい
い。この三つのことばを身につければ、どんなことがあっても希望を失うことは
ないし、生きていく力を手にすることができる。
松本勇吉はこのメッセージを伝えるためにろじ式を作り演出したのではないだ
ろうか。
(終)