長原豊が怒っている。
曰く、目下のところわたしたちは、いわゆる市場原理主義から逃れられないような状況にあるという。規制緩和の果ての二極化。それも、「勝ち」はほんの一握りの人々で、ほとんどは「負け」。いったい、こんな世の中に誰がしたのか? まったくもって正論である。
しかし、たとえばスポーツ。プロを目指して小さい頃から練習を重ねても、実際にプロのアスリートになれるのは一握りである。それに、たとえプロになってもチーム制のスポーツであれば試合に出られるかは別問題だ。個人種目でも、勝ちつづける人がいれば、負けつづける人もいる。こうした状況が正当化されるのは、「努力は実を結ぶ」という信念が根強いからであろう。本当は先天的な能力によるところが大きいと思うのだが、スポーツにかんする言説はそれを覆い隠して、「努力は実を結ぶ」と主張する。だから、朝青龍みたいな「稽古をサボっても強い」というのは、横審などからすると、とても困るわけだ。
長原豊が怒っているのは、もちろん「資本」という名の妖怪が幅をきかせすぎていることにあるのだが、その怒りは同時に、妖怪に取り憑かれている人々に対しても矛先が向けられている。
その[=お金を使ってるんじゃなく、お金に使われている]典型が、自分の小さな部屋でモニターを観ながら、「デイトレード」している連中です。彼らは一日中起きている。彼らは世界中のマーケットをモニターだけで見ている。彼らは外出しない。彼らは社会を失い、社会を必要としない。僕たちは知ったのです。マーケットと社会が離れてしまったことを、マーケットが最早社会を組織する必要がないことを。なぜって、マーケットは「私が社会だ」と言っているからです。
『デッド・キャット・バウンス』(2005年初演)の上演で使われる映像のなかでこのように説明する長原の言葉は、冷静に「彼ら」と言いながらも、心の底では「奴ら」と言いたいのではないか、と思わせるほどだ(実際に「連中」というワーディングから予感は確信へと変わる)。こう言ってよければ、わたしたちはここで、この言葉の裏に、稽古をサボっても強い朝青龍を「倫理的に」指導して威厳を保とうとする横綱審議委員会を見ているときとよく似た感情を覚えてしまうのである。「稽古」を「社会のなかで溌剌と働くこと」に、「強い」を「お金を稼ぐこと」に置き換えてみると、それがよくわかる。
つまり、長原は一方で資本の妖怪性を批判しつつも、他方では妖怪に取り憑かれた人々に「それは労働ではない」と言い放つのである。「部屋のなか」よりも「外出」を、「直感」よりも「理性と知性」を、「指先」よりも「身体全体」を!――まるで、小学校の先生のように、「外に出て、たくさん友達をつくりなさい」、「勘じゃなくて頭を使いなさい」、「勉強ばかりじゃなくて、たまには体も動かしなさい」!――言い換えれば、「お前、それじゃちゃんとした大人になれないぞ」と「倫理的に」(=一段高いところから)言わなければ叶わない相手、それが「デイトレーダー」/「子供」なのである。
上演パフォーマンスの最中、観客の払ったチケット代金を「軍資金」として株に投資して、全体の1%の利益を目指す『デッド・キャット・バウンス』は逆に、観客全員を「デイトレーダー」(アワートレーダー?)あるいは「子供」にしてしまう。上演中、ペニー単位(1ポンド=150円換算にして、1ペニー=1/100ポンド=1円50銭)で変動する株価に、観客はまるで「子供のように」一喜一憂する。棒グラフが急な角度で右上にあがれば「おおっ」と客席はどよめき、逆に右下にさがれば「ああっ」と客席はやはりどよめく。
客席の「トレーダー」たちの子供のように素直な反応は、儲かれば「配当金」が上演終了後に手元に戻ってくる――損した場合は「配当金なし」という扱いだから、大損する心配はない――からというよりも、リアルタイムで変動していく――おそらく大多数の観客=トレーダーは初めて体験する――棒グラフの動きが、息を飲んで観ている美しいダンスのように、純粋に「面白い」からである(もちろん、「面白い」と純粋に思えるのは、大損する心配がないことを保証されているからにほかならない)。
『デッド・キャット・バウンス』という「作品」のなかで、観客が食い入るように見ている(聞いている)のは、数人のパフォーマーが「代表」となって投資した株価の変動――数十秒おきに現在の株価が読み上げられ、それが棒グラフに書き込まれていく――であって、舞台上で起こる変動ではない。舞台上では何も起こっていないのである。「株とは」「投資とは」といった教育的なレクチャーがあいだに差し挟まれてはいるが、それらに真新しいものは何一つなく、観客の関心からすれば二次的なものである。そして何よりも、それらの準備されたテクストは――観客の「そんなのどうでもいいから」という声を代弁するかのように――株価チェックのアナウンスによって時折、「遮断」されるのだ。
だから、上演自体はひどく退屈である。あえて肯定的に言えば、上演自体が「舞台の外で起こること」に徹底的なまでに「賭けられて」いるのである。ふつう、舞台上の演技者が「賭ける」のは自分自身であって、自分以外の何ものかではない。観客はそうした役者の「演技=賭け」を見届けるのである。だが、『デッド・キャット・バウンス』では、舞台上のパフォーマーが「賭ける」のは自分自身ではなく、観客が血と肉をわけた「チケット代金」である。そして、観客が見ているものは舞台上のパフォーマーの「賭け」ているもの、すなわち自分自身の「血と肉」である。
こうして、観客は舞台上で起こっていることが自分のことのように錯覚し、たかが一本の棒グラフの変動に一喜一憂するのだ――まるで、子供のように。
しかしながら、世の中には「子供」になりきれない拗ねた大人というのもいるものだ。わたしはどちらかというと、そっちのほうで、たとえばこんな具合である。
「いや、俺がチケット代で買ったのは、そんな株じゃない。あんたたちの90分間の〈パフォーマンス〉なんだよ」
「言ってみれば、俺たちは〈株式会社デッド・キャット・バウンス〉の株主なわけだけど、配当はこれっぽっちの〈株ごっこ〉なのかい?」
上演中、ユニリーバ(オランダに本社をもつ石鹸会社)に実際に電話をして、「おたくの製品はすべてオーガニックですか?」「地球温暖化については?」などとパフォーマーたちが質問をする場面があったのだが、上演そのものに対してチケット代を払っているはずの「わたしたち」は全く同じように、「あなたたちのパフォーマンスに未来はあるんですか?」と質問する権利をもっているはずである。
もちろんここで、「つまらなかったから金を返せ」などと主張したいのではない。「演劇を(金を払って)観る」という行為自体が、投資と同じように「成功することもあれば、失敗することもある」ということが言いたいのである(ただし、わたしが観劇した二日目は、おそらく招待客が最も多い日で、「54名」もの観客が招待扱いであった。この劇は何人の観客がいくら払って見ているかがばれてしまうという意味では、恐ろしい芝居である。蛇足までに、わたし自身はちゃんと(?)「学割チケット」を「3000円」で購入しているということを付け加えておく)。
自身が株式を保有している会社の本社に電話したところで、株価の変動に決定的な情報を聞き出すことはできないのと同じように、上演に立ち会う前にその善し悪しを判断することはできない。たいていの場合、上演前に手元にあるのは、チラシに書かれた触れ込みだけである。舞台の関係者に知り合いがいれば、どこにも書かれていない裏情報を教えてくれるかもしれないが、それもたいした役には立たないだろう。関わっている舞台の評判を下げるようなことは、ふつうは誰も言わないからである(「面白いよ」「見に来てね」と彼らは言うに決まっている)。
つまり、『デッド・キャット・バウンス』の試みは、リアルタイムでロンドンの株式市場に観客のチケット代を投資するという点では真新しいとはいえ、観客が自分の「血と肉」をわけて劇場に足を運ぶというのは、実は当然のことなのである。さらに、わたしたちが「賭け」ているのは、お金だけではない。時間も、体力も賭けているのである。そのうえ、体感的に言えば、圧倒的に「損失」のほうが大きい。にもかかわらず、劇場通いをつづけてしまうわたしたちは、デイトレーダーを嗤うことはできないのである。観客がたやすく『デッド・キャット・バウンス』に「参加」してしまうのには、このような理由があるのだ。
したがって最後に、「いや、俺がチケット代で買ったのは、そんな株じゃない。あんたたちの90分間の〈パフォーマンス〉なんだよ」とか、「言ってみれば、俺たちは〈株式会社デッド・キャット・バウンス〉の株主なわけだけど、配当はこれっぽっちの〈株ごっこ〉なのかい?」と怒っていたひとには、このように言うことができる(と彼らは想定しているかもしれない)。
「実は、今回の〈パフォーマンス〉は〈配当〉ではございません。〈株主総会〉でございます」
「こうして皆さまにお集りいただいて、弊社の方針やビジョンをご理解していただこうと企画いたしました」
「ええ、現在はまだ〈損失〉が大きいところですが、今後は将来的な発展のため、〈努力〉を重ねて参ります」
なるほど。今後、わたしたちが受けるべき「配当金」は、クリス・コンデックの「未来のパフォーマンス」というわけである。その通り、わたしたちはこうしてまた「劇場通い=投資」をつづけてしまうのだ。何ということだろう。見事なまでの構造的な敗北。せめて、「努力は実を結ぶ」ということを信じたいものである。