東京は世界でも有数の「都市」だ。日本にいて東京を知らない人はまずいないだろう。政治経済の中心地として、文化情報の発信地として、皇居のある場所として、東京は特異な位置を占めている。しかし本当に我々は東京を知っているのだろうか。「東京」とは多くの街、地域の集合体であり、それ以上にイメージの集合体である。地形的には地続きであるにもかかわらず、発信するイメージは見事に異なる地域が隣接しており、その全体像を捉えるのは難しい。そもそも東京という都市は、見る人によって姿を変える万華鏡的な場所なのである。
都市計画によるきらびやかなイメージ作りにもかかわらず、都市にはいつもいかがわしさがつきまとう。それは東京に限った話ではなく、世界中どこの都市にもみられ、いわばこの両義性の氾濫が都市の属性といっていいだろう。そして対立する項を支え両者ををつなぐのは、都市に集まる人間である。
「個室ビデオ店」
Port Bが近代的な東京芸術劇場の前に設置したインスタレーションは、池袋という街の猥雑さのシンボル「個室ビデオ店」である。都市に集まる人々へのインタビュー映像をおさめたDVDを、参加者が1回に5本を限度に選択し個室で視聴する。このプログラムの眼目のひとつは選ぶことにある。個室ビデオ店では、まるで交換可能な商品のように、多くの「人の顔」が陳列されている。正面向きで証明書写真のような回答者の顔が、DVD選択に与えられた唯一の情報である。個室ビデオ店という形式を模しながらPort Bが試みるのは都市のイメージの再現である。
いかがわしさのイメージは、むしろチラシに顕著である。薄っぺらな紙に目を引くショッキングピンク、青、黄色、紫といったけばけばしい色使い、「東京」の文字をハートで装飾したフォント等、内容はプログラムの情報しか掲載していないにもかかわらず、我々のイメージする風俗関係のチラシそのものだ。インスタレーションとしての「個室ビデオ店」は一見快適な空間で、明るい店内に整然と並べられた陳列棚、ファストフード店のような受付にフリードリンクコーナーもあり、個室も見たところ清潔で機能的だ。おそらく実際の個室ビデオ店もそう大差はないのだろう。しかし、ミニマムな快適さに隠されてはいるものの、両手が伸ばせないほど狭く、隣室の物音は丸聞こえで、立てば頭が出てしまうような個室空間にプライバシーはない。隣室にいる人の気配を遮断するのにヘッドフォンを利用するのは、満員電車と同様だ。個室ビデオ店の利用には都市生活者のスキルが必要である。
インタビューで問われていること
インタビューの対象は池袋西口公園に集う人々であり、住人もいれば仕事や遊びで来た人、海外からの旅行者もいればホームレスもいる。社会学的な統計調査では数値化することで客観性を担保するが、ここでは生の声が映像と一緒に収録されている。画面に映るのは回答者だけで、インタビュアーは抑揚のない声のみで表れる。1本の収録時間はまちまちで、全体を2分足らずで手早く答える人もいれば、10分近くかけ言葉を選びながらゆっくり考える人もいる。
設問は様々だが、筆者が注目したのは以下の4つの点である。まずは自身を取り巻く社会をどう見ているのか。今欲しいもの、今朝の朝食、月に必要とする生活費、東京は住みよい街か、日本は豊かな国か、などの質問がそれにあたる。2つ目はその人が持つ精神的なセーフティ・ネット、社会とつながる結束点を問うものである。友人の名、愛されている人、守りたい人、シェルターに持っていきたいもの、などの回答に現れるものである。3つ目は難民やネットカフェ難民、風俗で働くものをどう考えるかである。「他者」とどう向き合うかは、関係性の域を広げられるかどうかにつながる。あるいは天皇に会いたいかを問うことと共に、国やコミュニティといった概念を問う設問と見てもいいかもしれない。
閲覧した20本ほどの回答者たちは、真摯に問いに向き合っているように見えた。言語化された言葉もだが、答えられないことも含めて、表情や反応に彼らの答えがあった。そしてこれらの回答は全て最後の質問「あなたは誰ですか?」につながっている。己が何かというのは、究極の問いかけである。名前を即答できる人は、意識的にせよ、無意識にせよ、名前に自己のアイデンティティを重ねているのだろう。名前を名乗ることを躊躇し匿名性を確保しようとする人もまた、名前に自己のアイデンティティがあると考え、見ず知らずの人間に自己を開示することに漠然とした不安を感じたのだろう。興味深かったのは、未来の自分を名乗る、意識的な自己決定を行なう人が意外と多かったことだ。もちろんこれはその直前に尋ねられた夢や生きがいといった質問に引きづられた結果かもしれないし、インタビューに答えようとする集団にはポジティブに人と関わろうとする割合が高いということもある。あるいは顔写真で判断する時点で、ポジティブな人物を無意識に選んでいたのかもしれないが。
「アイデンティティ」がないと生きられないと感じるのは近代の呪縛だ。自己同一化する対象は結局のところ他者から与えられる認知である。認知がなかったり、同一化する対象が複数だった場合、自己喪失感を味わったり複数の自己に戸惑ったりする。しかし、この問いに答えられなかったとしても、人は存在する。多くのインタビュー映像を見るうちに、自分自身の中にこの問いに対する自分なりの答えを考え始めている「自分」を発見する。そしてオプション・ツアーでの「出会い系喫茶」で、まさにこの最後の設問を含む一連のインタビューを体験することになる。
避難経路・「出会い系喫茶」
オプション・ツアーの名目は避難経路の確認である。順路は芸術劇場のエスカレーターを降り、多くの人で賑わう地下のおしゃれで明るいショップや駅の前を通る。「エチカ」と呼ばれるそこはさまざまな店舗が入居する巨大な構造物である。駅と街の融合をめざしたというその空間は、一度も外気にふれることなく快適に、駅の反対側に避難することを可能にする。地下から抜け出ると、そこは猥雑さのただようもうひとつの池袋だ。開発側の意図はこの空間を排除し隠蔽することかもしれないが、この猥雑な空間も確かに池袋という街の一部を形成している。
避難場所に指定された「出会い系喫茶」は、照明の暗さ、受付のスタッフのひそひそ声がいかがわしさのイメージを裏切らない。安普請な作りまでがその雰囲気を盛り上げる。マジックミラーなのか、視線の合わないガラス窓の向こうで気ままに過ごす人たちが見える。彼らはDVD映像にあった回答者たちである。こちらの姿を見せずに人を観察し指名するというのは、どこか後ろめたい気分だ。薄暗い店内のモニター画面に映るインタビュー映像と断片的な字幕を見ながら、本人を照合しようとするのだが、不思議なことになかなか同定できない。モニターに移るのは、彼らのほんの一面にすぎないのだ。
指名した相手の待つ別室に入ると、まずDVDで見た同じインタビューを相手から受けることになる。この質問の答えを聞きたいのは当の質問者でもなければ、問題を設定した側でもない。DVDを視聴しながら、ずっと考えてきたことを言語化する行為であり、答えている本人以外に興味を持つ人間はいないはずである。しかし、二人の人間がいて、会話をすればなんらかの関係が生れる。参加者とインタビューの回答者という関係は、参加者が同じ質問に答えることで解消する。映像内の人物とは異なり、実際の人間は回答に対し反応することができ、相手の反応を見て言葉や態度を変えたりもできる。10分間は短いようで関係性の発露がみえるには十分な時間だ。もちろんこれはパフォーマンスという安全な枠組内での「出会い」である。それでも人との関係性は、相手に興味を持ち自分に興味をもつことで生れるという当たり前のことが、図らずも実体験できた。ただし、この体験も選択の結果かもしれず、そうは感じられない結果に終わった人もいたかもしれない。
このインスタレーション/パフォーマンスが参加者に提示するのは、参加者自身が持っているイメージと体験とのギャップである。池袋という街に対してもつ漠然としたイメージは、「個室ビデオ店」や「出会い系喫茶」の疑似体験や、そこに集う人々の個々の表情や声の断片を見聞きし、歩くことくらいでは変わらないかもしれない。しかしイメージと体験との差異に感じたものは何かを考える契機にはなりうる。
都市に暮らすことは個室ビデオ店の個室にいるようなものなのかもしれない。もれ聞こえてくる音をヘッドフォンで塞いで自分の世界を守ってもいいし、個室のドアを開けて外に出てもいい。ロビーで他の参加者と話すのは意外にハードルが高いように、他者を認識し他者とつながることは思っているよりも難しい。「個室」にいることは、そのまま「孤独」を意味しない。問題はその外を想像できるかである。例えば、今いる場所が災禍に襲われた場合、避難しなければならないことを想像できるか。そうしなければならない人を想像できるか、そうした他者と関係をもつという状態を考えられるか。こうした問いを身体的な感覚として考える契機をPort Bは提供しようとしたのである。
ただしこの見方も残念ながら参加者によっては異なるかもしれない。提供されているどのDVDを選ぶか、オプション・ツアーに参加するかどうか、そこにいる誰と話すかによっても受ける印象は異なるだろうし、まったく同じものを選んだ場合でも、参加者自身のもつベースによって解読される意味は異なるのだから。それゆえこのパフォーマンスには参加者それぞれのバリエーションが存在するのである。