『演劇書簡 -文字による長い対話-』 返信への返信:松田正隆
『演劇書簡 -文字による長い対話-』 返信への返信
私はこの書簡の問いかけを、ある具体的な実感から始めたいと思い、個人的な願望を持ち出して来て「母を嫁がせる」という表現にした。それから、その有機的で個的な願望が主体性を失い誰とも何とも判別できない無機的な「欲望」へと変貌することを夢見たかった。その変貌の契機が流行歌手の言葉にならない声である。それは、あまりにナイーブな発想だし、性急な問いかけだったのかもしれない。何よりも、私の主体は温存されたままに欲望らしきものに行き着いたかのようだ。
夢を見ること。カタチなきものへと変貌したとしても、それでも何か、夢で見るようなカタチあるものへのイメージを思い浮かべている。見えないものであっても、見えるような輪郭をそれに与えている。この無自覚な眼差しの暴力性は反省せざるをえない。むしろ、その制限のない欲望に忠実であること。私と母を起点とした力の配分から生じる「なしうること」を、主客の関係を設けることなく、正確に価値づける必要があったようだ。
アポロンとディオニュソス。見えることと聞こえること。ニーチェは、この二つの悲劇の概念を夢と陶酔として特徴づける。真実をあるカタチにして象徴的に告知する予言としての夢。なんとか造形を保持させたままであろうとする限界としての節度。夢において、見えるものは個別化された欲望の仮象として出現する。一方、陶酔は、過度の真実を告げ、個体の解消、溶解へといたらしめるのである。
陶酔。白昼、現前のままに自失して明朗なる声にうながされること。自らの意思が及ばないにもかかわらず、確かな距離感で聞こえることのパースペクティブが開始されること。このようなアポロンとディオニュソスの存立の可能性のことを、どのように論じたとしても、論じそこねてしまう。声に心うばわれ、声にうながされる陶酔のことをうまくとらえられない。そもそも、心うばわれているにもかかわらず、誰のものともわからない声について、そして、そこから生まれるであろう出来事について、いったいどのように言葉にしたらいいのだろうか。もちろん、なんどもなんども、問いを立て論じてみるしか仕方がない。
Photo: Masanobu Nishino
「演技」と「態」という問題においても、まだ説明として不十分である。
演劇上演において俳優がその態(てい)でいるというのは、その戯曲上に書かれている様態(モード)にまとわりつかれてのことだと思われる。「様態」というのは、戯曲に書かれた設定等によって生じている事態である。それは、しかし、戯曲に書かれてある言葉そのものではない。戯曲に書かれたことによって生じるであろう事態は、それなりに領域があって、そこではその内部で運動している事態の推移がある。その事態の推移に俳優は入り込む、これを私たちは「その態でいる」としている。
登場人物Aがある喫茶店にいて、店員に「すみません」と言って、手をあげる。ということが書かれた戯曲においては、Aのいる喫茶店の様態に俳優は入り込む。
ここで演技ということについて述べると、俳優がAの演技をするというのは、Aの置かれた状況にフィットするように俳優もふるまうということである。Aの置かれた状況が、ある事情によってBの来訪を待っている、ということであれば、誰かを待つという心理もその状況のうちに入ってもこようが、しかし、その心理の現れようはなかなかに難しい。なぜなら、Aの事情は個的であるから、喫茶店においてはあらわれにくいからだ。もちろん、なんとなく、誰かを待っている人だろう、という感じは出せるかもしれないけれども。そのような喫茶店においてのリアリティーの問題もさることながら、何よりも重要な問題は、それが演劇であるということでもある。そのことによって、上演に生じる様態は大きく影響を受けている。
Aの事情は、Aのいる喫茶店の様態に溶け込んでいる。さらに、そのような表現を演劇ですることによって喫茶店の様態は演劇の様態に内包される。事情(戯曲に言葉として書くことができる分節可能な心理や社会的状況)をその二重の様態(どちらかがどちらかに帰属しているという関係ではない、一つでありながらも二重に存立している位相)から分けて取り出すことはできない。つまり、様態の側からするとAの個的な事情はその様態を形成する無数のネットワークの一つにすぎない。無数のネットワークとは複数の力の意志のことでもある。それはまさに上演と戯曲の境界を跨ぎ越して、俳優の意志、役の意志、観客の意志が、舞台上で生じる複数の力へと関係しようとする意志の組み合わせを生成するのである。
複数の力は量の差異としてあらわれる。たとえば、俳優は、まずは、その量を意志する。なぜなら、それは量的に俳優の意志を触発するからである。力の意志は、触発される能力として自らを表明する。意志が触発されるのは量の差異としてあらわれてくる徴候であり、言語化、形象化できるような対象、目的ではない。俳優の身体は、上演の展開において、今より小さく動くのか、大きい声で発話するのかを量として計測している。眼差す角度、舞台上での立ち位置、感情表現も量としてあらわれるのである。俳優は、どのぐらいの量でそれら(行為や佇まい)を呈示するのが最善なのかを、その触発し触発される身体の変様能力によって決定している。その配分と総合からはじめて上演における質も生まれるのであって、既存の質に量をなぞらえるのではない。観客もその量の配分・総合を価値づけることで、そこに生じている質を評価する。社会的に力が強いのか弱いのかは事情(既存の性質)の問題であって、それだけで質を評価するのでは演劇という様態への批判とはならない。
Photo: Masanobu Nishino
「態の演劇」の上演において、俳優とAとの関係はどのようなものなのか。Aは戯曲の中でその様態のさなかにあるので、俳優もそのようにふるまうことになる。俳優がAを演じるというのは、そういうことである。Aの人格や行動をまねるというよりも、Aはその様態とともにあるのだから、Aの置かれた状況をなぞるようにすることだ。
俳優は、Aにかかわる様態・状況・事態を、「ふるまう」「なぞる」のである。それを、私は様態に入り込むと言い、「その態でいる」と述べていた。
それは、俳優がAの置かれた状況を演じるということと何が違うのか。
言い方をかえてみると、その様態が、俳優とAの置かれている状況において生じている、ということである。それゆえに、「俳優とA」という「演技者と役」の関係は、その状況・事態の推移によって生じた様態によって成り立ちをみる、ということになる。
それに対して「演技する」につながり、それと同様に意味を持つような「ふるまう」や「なぞる」「まねる」では、俳優が主体化され、その主体が何かを行うという動詞として規定されてしまう。いや、「入り込む」というのも、結局はそのような俳優の主体化と同じことになるのかもしれない。そこで、生じてしまう俳優の意識という働きからはどうしても逃れられない。
「その態でいる」としたときの俳優のありかたの舞台上での微妙なうしろめたい感じというは、やはり、何かあるのかもしれない。雨も降っていないのに雨が降っているような態でいて、ごめんなさいというような、いたたまれなさ、あるいは、ぬけぬけと嘘ついてますけど何かというふてふてぶしさ。思わず、俳優の意識のようなものを代弁してしまったが、そんな意識とはまったく関係ないところで、演劇は成り立ちをみ、出来事を起こしているのだろう。上演において生まれているのは、戯曲から汲み取りうる事情だけではなく、力の流れという多元的な意志のネットワークであり、それは無意識の織りなす様態なのである。
なるほど、俳優は、ある意味、関守石である。石という姿を隠さないまま、境界を分け隔てるという出来事の渦中にあって石であることを消す。そのはたらきは、役者が役になるというときの出来事と重なる。
俳優が「例えば」の存在であるというのは、ハッとさせられる考え方で、その「例えば」を考案するのがある意味、劇作家のつとめだったりするのかと思ったりもした。
©Keiko Sasaoka
私はこの4月からドイツに住むこととなったが、こちらに来る前、例えばドイツに行って生活してみたらどうだろうと思案してみたことが今実現していることになる。例えば、と思っていた時と実際の生活は多少は違うということを言いたいわけではないが、思い描いていた時はやはり、何らかのイメージがあったわけで、そのイメージの中に、音響のような感じがなかったことが、実際のドイツの生活をしてみて感じることだった。音響のようなことというのは、ただ、音や声だけのことを言うのではなく、窓から顔を出して眺めてみた街路に漂う視覚的なイメージ以外のものの圧倒的な大きさのことなのかもしれない。これが現実だと有無を言わせない感じというのは、つまり、音響のような感じによって収まりがついている(根拠づけられている)ということなのだろう。
見えるものにしても、おや、どうしてこんな風景を私は見てるのだろうかという、見ている景色の根拠のなさへの戸惑いがある。それは、言わば、現前の視覚的なことがそれ以外のことによって収まりがついてしまっていることに戸惑っている、ということなのかもしれない。
そんな時、ここで死にたくはないけれど、死ぬかもしれないという得体のしれない恐怖に襲われる。それは、私の個的な来歴としては日本に馴染みのある人間だし、できることなら故郷で最後を迎えるのがより良いことだという私の個人的な叫びなのかもしれない。しかし、練馬に住んでいた時に、見えていた風景に根拠があったかというとそうでもなかったのかもしれないと思うし、生まれ故郷の風景のほうが安心というのもいったいどういう根拠からのことなのかよくわからなくなり、そもそも人間の見ているものというのは不思議なことなのだと改めて思ったりもした。つまり、個別性の中で社会的に生きているときの根拠(ドイツにいるのだものドイツの風景が見えるのは当然、練馬にいるのだから、練馬の風景……)とは違うことが出来事の次元では起こっていて、私はそれにいちいち驚いているのかもしれない。
俳優が演劇の中で何かを見ていることと、そのことは関係している。そこには音響的な何かに導かれるようにして見ていることがあるのかもしれない。それは、奇妙な言い方をすれば、見えてしまっているものとして聞こえてくる出来事である。見えるものと聞こえるものに齟齬がありながらも、それを受け入れている。しかし、それは受動的にその作用に帰属しているのではなく、「うん、そうだよね」と能動的な肯定が生じるビジョンの生成なのだ。見る側は、この人たちはいったいどうしたのだと訝りながらも、見えるもの以外の聞こえることで、それらの光景は根拠づけられてしまっていることに積極的に眩暈するのである。まさしく、観客はそんな出来事にひっつかまれる。眼前の現実を根拠づけられないこと自体が前景化し、それでも、その現実を無根拠に根拠づけるというような仮りの構成関係が創造される。そこでは偽りの力関係が働き、根拠は捏造される。そんな束の間の仮構作用によって上演という様態が創出されているのだ。寸劇性を徹底する理由もここにある。
それは、また「世界がある」という取り返しのつかないようなとりとめのなさへの感覚なのかもしれない。ちりめん山椒として現れて来た世界を手癖で受けとめうるというのもさることながら、手癖へと逢着する前にあった驚愕へとちりめん山椒と手の関係を戻してみたいという欲望もあるのかもしれない。世界との折衝の末に獲得した手癖による世界への対応の喜びを支えているのは、はかりしれない世界への持て余しなのだ。
陶酔という契機もそこにある。明らかに見えている世界が聞こえていることとともにゆるぎなく成り立ちをみているこの必然。それは一つの呼び声によって無数の物事から決定された一つのビジョンである。
Photo: Masanobu Nishino
二つの時間がある。ボールを投げる・投げられる起点になるような偶然の時間とそのボールがそれなりの仕方で落下する必然の時間である。必然は一つの運命だが、それの起点となるような偶然は多数ある。その多数あるという偶然と一つの特異性としての必然が同時にあるということ。生成(偶然)と生成の存在(必然)。いかようにも投げられようのあったものが一つの偶然として投げられた地平とそれを落下する必然として受け入れている空中。そんな偶然(地平)と必然(空中)によって出来事の時間はできあがっている。おさまりのいいカップリングで。それは絶対的である。出来事は不可逆である。
個別的で物質的な出来事、例えば、今日のニュースの中の一つの事件のように、起こったことは取り返しがつかない。しかし、個別的な出来事は、別のありようで、問題として生きのびることができる。非物体的なありかたで、まさしく関守石が境界を分けたようなありかたで。
演劇こそが、時間的に完結し歴史化されてしまった出来事を一つの問いの発生という奇妙な時制で再現できるのだ。俳優の身体はそのとき、物体から非物体的な出来事へと変身するのである。
マレビトの会
2003年設立。被爆都市を扱う「ヒロシマ―ナガサキシリーズ」(2009-10)、3.11以後のメディアと社会の関係に焦点を当てた『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)、複数の戯曲を通じ都市を多面的に描く『長崎を上演する』(2013-16)などを上演。未曽有の出来事を経験した都市をテーマに、上演形式を変化させながらも、歴史に回収されえぬものを探り、描き続けている。
マレビトの会代表 松田正隆
1962年長崎県生まれ。2003年、演劇の可能性を模索する集団「マレビトの会」を結成。主な作品に『cryptograph』(2007)、『声紋都市ー父への手紙』(2009)、写真家笹岡啓子との共同作品『PARK CITY』(2009)、『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(2010)、『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)、『長崎を上演する』(2013-16)などがある。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。
『演劇書簡 -文字による長い対話-』記録
マレビトの会『福島を上演する』 作・演出:マレビトの会
公演名 | マレビトの会 『福島を上演する』 |
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日程 | 2018.10/25(Thu)19:30・ 10/26(Fri)19:30・ 10/27(Sat)18:00★・ 10/28(Sun)14:00★ ※公演は終了しました |
会場 | 東京芸術劇場 シアターイースト |
フェスティバル/トーキョー
フェスティバル/トーキョー(以下F/T)は、同時代の舞台作品の魅力を多角的に紹介し、舞台芸術の新たな可能性を追求する国際舞台芸術祭です。10周年、11回目の開催となるF/T18は、2018年10月13日(土)~11月18日(日)まで、国内外のアーティストが結集しました。
F/Tでしか出会えない国際共同製作プログラムをはじめ、野外で舞台芸術を鑑賞できる作品、若手アーティストと協働する事業、市民参加型イベントなど、多彩なプロジェクトを展開していきます。