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2018/10/27

『演劇書簡 -文字による長い対話-』 応答:福井裕孝

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(文・福井裕孝)

『演劇書簡 -文字による長い対話-』 福井裕孝の応答

  いただいた書簡を読みながら、自分が何を返答できるだろうかと、何も手をつけずに考えこんでしまったのですが、ひとまずは、自分の創作とそこで経験してきたことや考えてきたことを振り返るところから始めました。そのためこの書簡を進めていくなかで、いま現在自分が何を志向しているのかが前よりも見えてきたような気がしています。読み返してみると、どうも個人的な関心や問題意識の羅列になってしまっているような気もするのですが、最初に提起された問いとの間でなにか呼応/反発して、また新たな問いや批判が生まれることを切に願っています。

・物語と状況

 物語を志向する演劇の多くは、物語を演劇のカタチのなかに保存してしまっているように思います。いかに作家の視線が劇場の外の世界へ向けられていたとしても、その上演においてはカタチの〈意味〉やカタチとの〈距離〉の認識があるだけで、物語が経験されることはありません。物語が経験として受容されるためには、まず、このカタチを前提とした上演から離れなければならないように思います。
 カタチから離れようというとき、〈外部性〉はひとつ重要なキーワードになるでしょう。作品の外に広がっている世界に目を向けること。〈内〉と〈外〉との交信の場を設けることによって、演劇の対象性を無効にするとまでは言わないまでも、曖昧にしてカタチを揺らがせることはできるのかもしれません。そうして、これまで演劇が排除してきた現実世界の〈ノイズ〉な存在たちが、作家の意図しないところで作用することを期待されて迎え入れられましたが、またそのような試みの多くは、外部性をマテリアルとしてカタチのなかに保存することにとどまっているだけに過ぎないように思えます。皮肉にもそれらはカタチから離れるどころか、カタチをさらに補強することに成功しました。カタチの外に広がる世界に目を向けたのは良かったものの、多くの演劇はカタチから離れることはできず、その多くは旧来的なカタチの上演へと回帰していく、というような一連の流れがあるようにも思えます。カタチから離れるというのではなく、いっそカタチそのものの解体を目指さなければならないのかもしれません。〈外〉のものを〈内〉へと迎え入れるのではなく、〈内〉のものを〈外〉へと流出させようとすること。分断された〈内〉と〈外〉の再統合を目指そうというのは同じですが、問題は演劇をどこに帰属させるかということです。僕は演劇をカタチから解放して、その場の〈状況〉へと帰属させることから演劇を再開したいと考えています。〈状況〉の次元においては、鑑賞者はそれぞれの視点から、人、もの、空間、あらゆる要素が並存している、開かれたその場の全体的な関係や様相を身体的に経験することができると思っています。演劇とはその〈状況〉のなかで、その都度生成されては消えていく霧のようなものに過ぎないのかもしれません。

・上演と戯曲

 演劇を観ているとき、俳優の発話するテキストの内容が示すイメージよりも先に、紙の台本のイメージが想起されることがあります。そこでは、戯曲の世界の情景が浮かび上がってくるのと同じように、ホッチキスで綴られたA4のコピー紙の束がぼんやりと見えてくるのです。あえて、意地悪く戯曲の内容から目を背けているわけでも、コピー紙の束をおもしろがって見ようとしているわけでもありません。この紙のイメージのあらわれについて考えていると、半年ほど前、ちょうど松田さんが演出をされていたリーディング公演を観たときのことを思い出しました。それまでリーディング公演といえば、(偏見ですが)演劇を言葉と観念の問題にしようとしている感じがどうも気に入らなくて、観たこともないくせに一方的に退屈なものだと決めつけてしまっていました。しかし実際には、いわゆる演劇一般の上演では感じたことのない新鮮な体験ができました。何が新鮮だったのかというと、それは実物の紙の台本が舞台上にあったということです。リーディング公演であるから、俳優が読む台本が用意されていること自体は当然なのですが、その状況を見たとき、僕にはまるで〈上演〉と〈戯曲〉がそこに併置されているように思えたのです。
 ジョセフ・コスースの「一つと三つの椅子」という作品があります。実物の椅子、その椅子を撮影した写真、辞書に載っている椅子の語義(文字)、という表示形式の異なる三つの「椅子」を並列的に展示した作品ですが、リーディングの上演にもこれと似たような構造を見ることができないでしょうか。それは、まず、紙の実物の〈戯曲〉も、俳優がそれを読むことによってなされる〈上演〉も、同一の意味内容を指示していると考えてみるということです。実際、僕はこの上演の場で、物質と観念による二つの劇の流れを経験することができました。このコスースの作品は、異なる素材が自由に比較できるよう〈併置〉されているということが重要かつ、おもしろいところだと思っていて、僕はリーディングの上演においても、紙の台本を通じて劇の上演を観ては、劇の上演を観ながら紙の台本に想いを馳せていました。〈上演〉と〈戯曲〉という、複数の〈演劇〉の形態が併置されていることによって、その場で〈演劇〉そのものを相対化することができたということが、僕にとって新鮮な体験だったのです。すると、先のコピー紙のあらわれについても、〈上演〉に対置される物質としての〈演劇〉の姿がそこで要請されていた、ということで説明できるのかもしれません。リーディングの上演は先に述べたような観念の演劇を志向するものではなく、むしろ、演劇のイメージへの還元に対する抵抗としての上演形式を提案しているともいえるのではないでしょうか。


『インテリア』(2018年) 撮影:溝端友香

・俳優と演技

 大学で演劇を始めて、これまで3年ぐらい演劇作品をつくってきましたが、〈俳優〉についてあまりよくわかっていません。〈俳優〉という言葉が、単に舞台の上で演技したりする〈人〉を意味する場合においては問題ないのですが(ここまでも便宜的にその意味で使用してきました)、演劇一般における〈俳優〉には、〈人〉であるということ以上のなにかが期待されているように思います。そのなにかを備えた〈俳優〉がいることも、そういった〈俳優〉を求めている作り手、鑑賞者がいることも想像はできますし、その〈俳優〉の仕事を否定するつもりもまったくないのですが、単純にそのなにかがよくわからないままでいるのです。作り手や鑑賞者は〈俳優〉に一体なにを求めているのでしょうか。僕は、俳優もほかの事物と同様にその場の状況を形成している要因のひとつとして、出来る限りほかと等価に考えるべきだと思っているので、まず、俳優の身体をその場の状況のなかに組み込んで〈馴化〉させることから始めています。それは結局のところ、現実と地続きで始めたり、俳優然とした演技や振る舞いをやめてくださいと言ったりということになるのですが、もう少しイメージに頼って表現してみると、その場に俳優が放置されているような感じを目指しているのかもしれません。俳優を状況のなかに放置するということ。演出家が何も干渉せず、俳優が丸腰であらわれてきてなんとなく自由そうに自然体を振る舞っていても、きっと放置然とはしません。そもそも俳優を見て「放置されている!」と最初に感じたのは、マレビトの会の上演を観たときで、個人差などはありますが、そこでは多くの俳優が放置然としているように見えました。俳優が放置然としているとは、一体どういう状態なのでしょうか。

・人と空間

 唐突ですが、僕は関守石が好きです。関守石とは、縄が十字に掛けられた石で、「これより中に入ることは遠慮されたし」と、通行者に行き止まりという意味を表示するための、いわばオブジェクトです。ただの石に縄を巻いたというその造形も良いのですが、それがお寺や庭園にポツンと置かれている状況にとても惹かれます。僕は関守石がポツンとあるのを見つけると、思わず遠く離れた場所からその状況を俯瞰したくなります。そこから関守石によって分断された〈内〉と〈外〉の領域のせめぎ合いを感じようというのもあるかもわかりませんが、それよりシンプルに、その二つの領域の境界でポツンとしている関守石のポツンさを味わいたいのです。関守石のポツンさを見ようというとき、その視線と意識は関守石そのものというより、むしろその周囲に広がる空間や状況へと向かっています。つまり、そこではポツンとした関守石を媒介としてその場全体の状況を見ているのですが、もっと厳密に言えば、そのポツンさを味わっているとき、関守石そのものは見えなくなっているような気がするのです。しかし、それは関守石がポツンさという概念の表示物に転化し、実体が意識の上から消えたというわけではありません。
   放置然とした俳優も、ここでの関守石と同じように周囲を喚起して、見えなくなっているのではないかと思います。俳優を対象として捉えると、俳優はこちらの視線をかわすようにスッと空間の中に消えていき、行き場を失った視線は、俳優の身体の外に広がる空間、周囲の余白の方へと誘導されていきます。何によって誘導されているのかといえば、俳優と空間との関係、両者の境界に生じている見えない循環のようなものによって、といえばいいのでしょうか。俳優が動くとき、むしろそのあたりを漂っている空気が変形するさまが見えてくるような感じとも表現できます。そこでは、空間と俳優の〈地〉と〈図〉の対応関係のものすごく緩やかな反転が行われているように思います。
 昨年のマレビトの会の上演で、喫茶店の場面がありました。俳優の多くは喫茶店の客として舞台中央あたりの空間に分散配置されていて、それぞれコーヒーを飲んだり、食事をしたり、各々の時間を過ごしています。マレビトの会の俳優は、戯曲の世界の秩序に従って(舞台空間の物理的な規定も受けながら)空間に配置されていますが、不思議とアンサンブル感というか、俳優たちがその全体のレイアウトやルールによって統制されているような窮屈な印象を感じることはありませんでした。むしろ、それぞれが自由勝手にふらっと集まってみたらこうなりましたというような、どこか風通しの良い感じがしました。それは決してレイアウトの妙などではなく、個の俳優の佇まい、そこで生まれている局所的な状況に起因しているように思います。そこでの俳優の佇まいを見てみると、皆どこか〈営んでいる〉感じがしました。俳優の身体の内には、一定の〈営み〉のリズムのようなものが形成されているのではないでしょうか。それは、周囲環境の変化にあわせてその都度更新されながら、常に一定のレベルで持続しているように思います。俳優たちはそこで、それぞれのリズムで〈営み〉に従事することによって、放置然とした身体を獲得しているのかもしれません。眼前の世界との関わりを断ち切ってそこに在ろうとするのでも、世界の広がりにただ身を委ねてそこと同化しようとするのでもなく、世界と共に在ろうとする意志が彼らにはあるように思います。
 長くなった割には、具体的なところにはあまり触れられていないように思いますが、マレビトの会の俳優を見て感じたことは、先の書簡にあった「俳優が出来事になること」という表現に集約されるような気がしています。これに付け加えて言うと、営んでいる俳優が〈場所〉になっているように見えることがよくありました。ある俳優が営んでいる局所的な状況がそのまま〈場所〉という概念に転化し、舞台上に複数の〈場所〉が並存しているような状況が先の喫茶店の場面も含めて、マレビトの上演では散見されました。最初の個人的な疑問に戻ってみます。〈俳優〉に〈人〉以上のなにかを求めるとすると、それは出来事にしても場所にしても、俳優が「もの」ではなく「こと」として、そこに在ろうとする〈技術〉なのかもしれません。

・人とものと空間

 最近、舞台上の俳優が靴を履いていることが気になってしまっています。別に靴を履いていること自体を何か疑問に思っているわけでも、ことさらそれを問題にしたいわけでもないのですが、俳優の姿が視界に入った次の瞬間には、足元へ視線を移し、履物がどうであるかを確認するということが習慣付いているのです。それはおそらく、床に対する個人的な問題意識と関係しています。
 原広司は「境界論」という小論のなかで、次のように述べています。
 空間には、二つの性格があるといわれる。ひとつは容器性で、他のひとつは場としての性格である。これまで述べてきたエンクロージャーが、容器性を表示する概念であったのにたいし、フロアなる概念をとおして、空間の場としての性格を対応させようというのが、ここでの試みである。 (原広司『空間〈機能から様相へ〉 』P181)
 これは、フロアの概念について説明する項の冒頭の一文ですが、把握される空間の性格を〈容器〉と〈場〉の二つに峻別し、壁(エンクロージャー)は〈容器〉としての空間、床(フロア)は〈場〉としての空間をそれぞれ象徴している、と説明することから始まっています。松田さんの演劇論のなかにもあったように、劇場建築はまさに〈容器〉としての空間ですが、一方で具体的な壁面、床面、屋根によって規定された〈場〉としての空間でもあります。劇場が劇場であろうとするとき、劇場の上演装置としての〈容器性〉を追求することと、劇場の〈場〉としての空間の性格を消去すること、という二つのベクトルがあると思います。壁と床と天井を黒く塗りつぶして抽象化するということは、この両方にかなったアプローチであると言えるでしょう。しかし、ここで疑念が生じるのは、壁と床と天井は同じように黒く塗りつぶされるとしても、それらはなにも等価なものではなく、全く別個の概念であったはずではないかということです。個人的な感覚を述べれば、僕は黒く塗りつぶされた壁や天井を意識の背景に追いやって処理することはできても、床を無視しようというのは飛躍があるというか、無理があります。人もものも建築も、立ち上がろうとするものはすべて、床(大地)に依存していますし、俳優がつかつかと歩いて舞台上にあらわれてくるとき、意図せずとも床の存在は喚起されてしまっています。私たちは俳優を認識すると同時に、そこに広がっている床の存在も認めなければなりません。〈場〉を象徴する建築的要素である床は、劇場機構をもってしても消去することはかなり難しいように思います。しかし、床がそこに広がってしまっているということは、演劇をその〈場〉に帰属させようという場合においては効果的にはたらくのではないでしょうか。僕は演劇をつくる上で、鑑賞者の意識を床へと集中させること、そのために劇の重心を下げるということをよく意識しています。自分で言っておきながら、劇の重心を下げるということがあまりよくわかっていないのですが、それはまず〈人〉や〈もの〉の床との関係に意識を向けることから始まるとは思っています。するとやはり、靴は重要なのかもしれません。考えてみれば、俳優の身体は直接床とは接触しておらず、靴という〈もの〉を介してそこに立っているのでした。しかし、衣装として身体と同期している靴をわざわざ〈もの〉だと言ってみるのも、どうも不毛なことのように思えてなりません。自分が演出をした直近の二作品では、最初に舞台上で俳優が靴を脱ぐようにしてみました。俳優は靴を履いて舞台上にあらわれて、一つの動作として靴を脱いで、裸足になるか、事前に舞台上に用意されたそれにかわるスリッパなどに履き替えてもらいました。それは、靴を履いているのが気になるなら脱いでしまおうという、ある種思考を放棄することでもありますが、靴の処理に対する一つの回答を示しているつもりでもあります。
 床への問いを通じて考えたかったのは、演劇における〈もの〉についてです。昨年、マレビトの会の創作に携わらせていただいたなかで、個人的にずっと気になっていたのは、舞台上のパイプ椅子についてです。マレビトの会の上演では、俳優以外の舞台美術や装置など〈もの〉はすべて排除されていますが、唯一パイプ椅子だけ(昨年の上演では箱馬もありましたが)は舞台上に存在することを許可されています。なぜ、パイプ椅子はそこに在ることが認められたのでしょうか。昨年の上演でもパイプ椅子に関しての批評や感想を特に耳にすることはなかったので、もちろんすでに議論されたことかもしれないのですが、個人的にずっと気になっていました。
 マレビトの会のパイプ椅子は、俳優の〈座る〉という行為のための装置として位置づけられているように思います。つまり、そこで求められているのは〈座れる〉という機能性であって、物体としてのパイプ椅子はそこには必要ない、というのが基本的な考えなのかなと思っています。では、その〈座る〉が実現され、〈人が座っている〉に組み込まれてしまった後の〈椅子〉は、一体どこに在るのでしょうか。昨年見た印象だと、それは時間性も空間性も捨象された「演劇の小道具」にとどめられていて、それがいいことなのかどうなのかはわからないのですが、それ以上のなにかが見えることはありませんでした。また、その〈椅子〉がパイプ椅子であるというのも、どこか妥協的な選択であるように思えてなりません。〈椅子〉であること以上の意味を見出せない最小限度の〈椅子〉を求めたなかで、どこにでもある、標準化された、無機質で、ニュートラルなパイプ椅子が選択されたのだと思っているのですが、もしそうであれば、そもそもなぜミニマムである必要があるのでしょうか。その〈ミニマムさ〉も結局はパイプ椅子が示す記号的な意味や情報に過ぎませんし、それよりも問題となるべきは、現実に上演の場に置いてしまったそのパイプ椅子が、俳優と同じようにそこに物量的に〈在ってしまっている〉ことではないでしょうか。決して、舞台上のパイプ椅子に市民権を与えようというわけではないのですが、マレビトの劇空間を考えたときに、そこ位置するものの所在とその在り方が問われるというのはとても自然なことのように思います。
 昨年、ある作品の稽古で、舞台上に誰も座らないパイプ椅子が一瞬置かれていたことがあったのを覚えています。何かの手違いでそこに置かれていて、確かすぐに撤去されたのですが、僕にはそのとき、そのダミーのパイプ椅子が妙にいきいきとしているように見えたのです。また、そのダミーのパイプ椅子が舞台上にあることによって、ほかのオブジェクトと化していたパイプ椅子たちがそれぞれ呼応するようにまたいきいきとしはじめたようにも思えました。もちろんそれらは依然としてパイプ椅子であり、パイプ椅子以上のなにものでもないのですが、それぞれがそれぞれそこに在るという、存在の意思表明のようなものをそこで感じたのです。そして、これは推測にすぎないのですが、その存在を喚起する反応の連鎖は、その場にいる俳優や空間までにも広がっていくように思えるのです。
  いま自分が演劇に対して考えていることをもとにして、ここまで言葉にしてきました。何かしら関連性や親和性はあるだろうと思いながらも、それが実際マレビトの会の場合においてどうなのかは正直なところよくわかっていません。書簡ということなので、次のお返事のなかでまた伺うことができればと思っています。


カバー写真:『インテリア』(2018年) 撮影:溝端友香
 

(文・福井裕孝)



 福井裕孝

  演出家。1996年生まれ。立命館大学経営学部在学中。現在は特定の集団を構えず、個人名義で京都を拠点に活動する。主な上演作品に、劇団西一風『ピントフ™』(2017、第二回全国学生演劇祭審査員賞受賞)、『インテリア』(2018)など。公益財団法人クマ財団クリエイター奨学金第二期生。2019年2月、下北ウェーブ2019にて新作を上演予定。

マレビトの会『福島を上演する』 作・演出:マレビトの会

公演名 マレビトの会 『福島を上演する』
日程 10/25(Thu)19:30・ 10/26(Fri)19:30・ 10/27(Sat)18:00★・ 10/28(Sun)14:00★
会場 東京芸術劇場 シアターイースト

国際舞台芸術祭フェスティバル/トーキョー18

名称 フェスティバル/トーキョー18 Festival/Tokyo 2018
会期 平成30年(2018年)10月13日(土)~11月18日(日)37日間
会場 東京芸術劇場、あうるすぽっと、南池袋公園ほか
 
 
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