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2018/10/24

『演劇書簡 -文字による長い対話-』 応答:岩城京子

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(文・岩城京子)

『演劇書簡 -文字による長い対話-』 応答:岩城京子

出来事の演劇について

 出来事という日本語は、無機質でどこかつかみどころがない。だからさしあたり、松田正隆の言う「出来事」を私なりに解釈するプロセスから、この応答をはじめたい。まず出来事という単語に「イベント」という訳語をあててみる。するとイベントの哲学系譜は、スラヴォイ・ジジェクがその名も『Event』と題した著書を近年刊行したように、西洋では連綿と続くものであることに気づく。例えばハイデガーは「出来事(Ereignis)」という概念を打ち出し、「出来事」はいまここの現実で起きていることとは全く関係がなく、それが示すのはむしろ「存在の新たな現れ」であり「新しい世界の出現」であると説いた。
 「出来事」は既存のいまにはなく、未来に向けた開口部である。この発想は私にとってはどこか神話的でもあり、『古事記』のオホゲツヒメの目・耳・口・臍・肛門・性器から、新たな生命が生まれたことが連想される。またもちろん「演劇の上演が、現実の出来事の模倣にとどまることなく、新たな意味の生成となること」と説く、松田さんによる「出来事の演劇」の定義とも照応する。だからマレビトの会による『福島を上演する』は、パフォーマンス的であると同時にどこか神話的なものも志向するのかもしれない。
 あるいは「出来事」をドゥルーズ&ガタリを参照して考えてみる。彼らは『六八年五月は起こらなかった』という小論で、「出来事」にまつわる興味深い思考を展開している。彼らによれば、パリ五月革命という歴史的出来事で重要なのは、のちに教科書に記述されるような革命の「情報」ではなく、ある種の「透視力が出現した現象」だという。「透視力」というタームが、いまひとつ要領を得ないので付言するなら、これは「今ここにある社会状況」に耐えられなくなった大勢の人たちが、「今ここにはないリアル」を透視できる力を一斉に獲得する、という集団的に「新たな主観性(身体、時間、性、環境、文化、労働など)」を生成する、特異な現象を説明する用語だといえる。つまりドゥルーズ&ガタリの説く「出来事」で重要なのは、革命という名のフォルム(形式)ではなく、その形式を下支えするフェノメノン(現象)の共有体験なのだ。
 さて、あえてこの二事例から、マレビトの会が『福島を上演する』で試みる「出来事」とは何かを思考してみる。松田さんはおそらくここで、3.11という過去に起きた出来事をリイナクト(再現)しようと思っているわけではなく、寧ろ、多くの人びとがリアリティを感じられなくなった過去から訣別し、未来志向的に次なる現実を生成しようと希求する、そんな思考的ティッピング・ポイント(転回点)の時空間を「出来事」として出現させようと試みているのだろう。さらに松田さんの『出来事の演劇宣言』から引用するなら、「既にもう起きていること」と「未だに起こってはいないこと」、そんな「既に」と「未だ」が刹那的に溶けあうストレンジな倒錯空間をいまここに呈示すること。過去から未来へと日常が流れない、量子物理学的な時間軸の破綻空間から生まれる「物語」を共想像することが、出来事の演劇のミッションなのかもしれない。
 ただそうなると、日本人の多くが良かれと思って墨守する伝統・慣習・過去志向とどう決着をつけるか、という問題が生じてくる。遺産的な昭和思考と訣別し、つねに「可塑的」に生きることが、これからの有効なライフルスタイルである。それが二一世紀における「希望という方法」(宮崎広和)であることは理論としてわかる。にもかかわらず多くの日本人は「生きいきとした不安定さよりも、死にていの確実さ」(ルストム・バルーチャ)を好む。ただだからこそ私は、緩やかな集団的窒息に身を投じている国家的な衰亡のなかで、身体的な危機感を誘発するような、そんな感度計のパフォーマンスを期待したいのだ。

非表象理論へのアプローチ

 地理学者ナイジェル・スリフトの唱える「非表象理論」は、近年、パフォーマンス学の文脈で多く引用される。スリフトは本理論で、まるで「修証一等」を唱える禅僧のように、知識を行為から分離し、言語や視覚という道具によって物事をうまいかたちにまとめようとする、西洋独自のデカルト的な表象行為を、片手落ちな知識だと糾弾する。そしてこのような「答えがでやすい表象思考」を手放して、「地域や近隣の新たな存在形態を生みだすための核」となる「ストレンジさに身を委ねるプロセス」こそ、重視すべきだと説く。
 つまりは理解打率の高い表象行為に飛びつくのではなく、あえてストレンジで座り心地の悪い非表象的な思考過程にたたずむ。これは松田がベンヤミンを引用して語る「出来事を説明から解き放ってやること」と重なる非表象倫理なように思える。マレビトの会は、情報を伝播するのではなく、「経験を受肉」するための演劇を作りたいと言う。とするならば、確実に、心象風景を表象するような浪漫主義的演劇から、遠く離れれば離れるほど、彼らの思考実験は実り多く結実していくはず。ただもちろんその思考実験が極北まで進みすぎて、後期ベケットのような不毛さに辿りつく恐れもあるけれど。
 ここからおのずと浮かびあがるのは、松田さんやマレビトの会のパフォーマーたちが、「アフェクト理論」をどう捉えているのかという素朴な疑問だ。観客に経験を受容してもらい、観客と共に出来事を受肉したいならば、個々人の記述する戯曲や、個人の発するセリフなどの表象メディアに全幅の信頼を寄せても意味がない。それは非表象に座りつづける胆力を捨てて、表象する平易さに屈服する行為だともいえる。ここで、非表象理論に紐付く有効な理論として持ちだしたいのが、もはやパフォーマンス学の常套句となった「アフェクト(情動)」だ。ホセ=エステヴァン・ムニョズが主張するように、「一個人の意識や主体を超えて、面と面が、特に身体と身体とが、接触するときに生じる情動の反響フィールドに生まれる思考」をアフェクト理論の中核に据えるなら、マレビトの会は、まさに観客を含む「間主観的なアフェクト空間」を劇場に誕生させようとしているように思える。
 ここで第一の問題となるのは、観客との身体的対話作法だ。果たして観客の身体は、第四の壁の向こうの安全地帯に放置されていて良いのか。身体と身体が接することから生まれる、不愉快さや混乱、失敗や失態というノイズによって、内輪の予定調和や無機質なロジックをもっと顛落させていったほうが豊かな情動体験が生まれるのではないか。私は極めて洗練されたマレビトの会による上演を、整備された観客席から眺めるたびに、混乱や失態のダイナミズムが少しだけ恋しくなる。ただそれと同時に、もしかすると彼らは、太田省吾が採用したような半恒久的な静けさの持続により生まれる、焦燥感や内的混乱を煽る方向に接近しているのかもしれない、という予兆も持つのだけれど。

「母を嫁がせる」へのわだかまり

 「母を嫁がせる」という願いに、引っかかりを覚える。そしてそれは、私がこの書簡演劇のただひとりの女性応答者であることを考慮に入れると、無碍にしてはいけない感情な気がする。なので、最後に少しだけ、この言葉に付随する「わだかまり」を掘り下げたい。最初に断るなら、松田さんは書簡で「母」は極私的なものであることを認めつつも、その概念を私的圏域から切断し(「私自身の思い出のサイクルから脱して、そこから離別し」)ないことには、母を嫁がせることはできない、と明言している。また「母」という概念を、家庭内手工業的な「劇団」の暗喩表現としても使用している。だから彼は言うまでもなく、寺山修司から長塚圭史まで日本演劇界に連綿と続く、「母親崇拝の引力圏」に搦めとられているわけではない。寧ろ、母を「誰か」でなく「何か」へ嫁がせると言っている時点で、ノンヒューマンな「何か」に母を変貌させようとする批評性さえ感じる。
 つまり松田さんは、日本人男性作家のなかではかなり母親崇拝に対してきちんと距離を取っている作家である。(蛇足だが、母、あるいは母なるものを物神視して崇めることで、ひとりの女性の人間性を抹殺する、日本演劇界の悪しき共同幻想はそろそろ葬り去ったほうがいい)。とはいえ、しつこいようだが「母を花嫁にして嫁がせる」というフレーズは引っかかる。「嫁いでもらいたい」という嘆願ならまだ分かる。だが「嫁がせる」という発話行為は、母親がまるで自分の所有物であり、だから母の人生の采配は、発話者によって制御可能なものであるかのような印象を与える。もちろん、松田さんは母を所有物だなどとは微塵も「考えて」はいないだろう。ではなぜ#MeTooの風が吹き荒れるさなかに、あえてこんな不用心な表現を、批評的にとはいえ、採用したのだろう。「母を嫁がせる」というフレーズを「はなす」ふるまいがなされた際、女性側にある種のネガティブな「経験」を誘発することは想像しなかったのだろうか? この発話行為の底には「女性を既存制度に回収しようと試みる思考」が残存しているとは考えなかったのだろうか? 突飛なようだが、例えばウースター・グループの「エリザベス・ルコントを嫁がせる」と発話したらどうだろう。この発話の底に横たわる諸問題が浮き彫りになるのではなかろうか。
 仮にマレビトの会が、いまここに「ある(being)」身体よりも、具体的な形に「なる(becoming)」前の「身ぶり」や「話」を大事にするのなら、女性性に関しても既にある形を無批判に受け入れず、同じくらい丁寧に、性の生成過程にアプローチしてもらいたい。そしてロジ・ブライドッティやダナ・ハラウェイといったフェミニズム思想家が語るように、性や、人種や、ルネサンス的人間性などの固定概念をいったん脱臼させ、すべての主体が「コンポスト(錯綜体)化」されていくような身ぶりを自覚的に獲得していってもらいたい。
 女性は嫁ぐことで、男性は稼ぐことで、社会システムに再編される。そしてイエという名の家父長的な安定機構が持続される。こうした「社会規範化されたリアル」に対する抵抗感をこの国で表すことは、未だ空気を乱すうえに面倒な人だと思われるため、日常場面ではなかなか困難だ。だが実は論理として形象化される以前の、こうした無自覚な会話からこそ、闇の表現を追放していかねばならない。さらに言うなら日本演劇の担い手たちは率先して、なぜかまだ一元的な因果関係が前提とされる(男女の結婚、出産、同居)、「家族」という名の旧来的装置をラディカルに再構築していかねばならない。大きな政治的身ぶりに加担して自己満足に陥るのではなく、小さな日常的な身ぶりからこそ日本社会を変革する。そのためには、家族という名の最小単位の約束事こそ、未来にむけて開かれた「出来事」のひとつとして読み替えていく必用がある。この国の旧来の物語に回帰しないためには、小さな世界をいまここから無数に共体験していかねばならない。そう私は思うのだ。

引用文献

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、「六八年五月[革命]は起こらなかった」、『狂人の二つの体制 1983 - 1995』、河出書房新社、2004年.
宮崎広和『希望という方法』、以文社、2009年.
Bharucha, Rustom, 2014, Terror and Performance, New York: Routledge.
Haraway, Donna, 2016, Staying with the Trouble: Making Kin in the Chthulucene, Durham, North Carolina: Duke University Press.
Muñoz, José Esteban, 2009, ‘From Surface to Depth, Between Psychoanalysis and Affect’, Women and Performance: A Journal of Feminist Theory, 19:2, 123-129.
Thrift, Nigel, 2017, Non-Representational Theory: Space, Politics, Affect, New York: Routledge.
Žižek, Slavoj, 2014, Event: A Philosophical Journey Through a Concept, New York: Melville House Books.

カバー写真:F/T16『福島を上演する』(撮影:西野正将)

(文・岩城京子)



 岩城京子 

 演劇パフォーマンス学研究者。二〇〇一年から日欧現代演劇を専門とするジャーナリストとして活動したのち、二〇一一年よりアカデミズムに転向。ロンドン大学ゴールドスミスで博士号(演劇学)を修め、同校にて教鞭を執る。専門は日欧近現代演劇史。及び、哲学、社会学、パフォーマンス学、ポストコロニアル理論、などに広がる演劇応用理論。単著に『日本演劇現在形』(フィルムアート社)等。共著に『Fukushima and Arts – Negotiating Nuclear Disaster』(Routledge)、『A History of Japanese Theatre』(ケンブリッジ大学出版)など。二〇一七年に博士号取得後、アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成を得て、ニューヨーク市立大学大学院シーガルセンター客員研究員に。二〇一八年四月より早稲田大学文学学術院所属 日本学術振興会特別研究員(PD)。

マレビトの会『福島を上演する』 作・演出:マレビトの会

公演名 マレビトの会 『福島を上演する』
日程 10/25(Thu)19:30・ 10/26(Fri)19:30・ 10/27(Sat)18:00★・ 10/28(Sun)14:00★
会場 東京芸術劇場 シアターイースト

国際舞台芸術祭フェスティバル/トーキョー18

名称 フェスティバル/トーキョー18 Festival/Tokyo 2018
会期 平成30年(2018年)10月13日(土)~11月18日(日)37日間
会場 東京芸術劇場、あうるすぽっと、南池袋公園ほか
 
 
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