シンガポールの映像演劇が描く癒しとしてのアニミズム――テアター・エカマトラ『Berak』
2つ上の姉が高校で演劇部に入ったので、うちには彼女がテレビ放映を録画した「第三舞台」や「夢の遊眠社」のVHSのビデオテープがたくさんあった。それらを映像で観るのだが、どういうわけか観劇するときの熱をおびた興奮がそこにはなく、生でステージ上の俳優の声や身ぶりに触れるときの集中力が持続しない。その時代でも複数のカメラが芝居をさまざまな画角やアングルで撮影し、編集において組み合わせることはしていた。しかし、たいていは観客席の最後部に設置したカメラからステージの全景をおさえ、会話をしている俳優たちをフルショットないしはニーショットくらいのサイズでとらえて、それらを切り替えるという具合であった。カメラの位置が限定されるのは、実際に観客を前にしておこなわれた公演を記録したものだったからだ。
F/T20『Berak』より
どうして観劇をするときの悦びが、公演の記録映像では抜け落ちてしまうのか。劇場の観客席で演劇を観るとき、ステージ上の俳優や舞台セットや背景音楽が進行させるできごとを、ただ受動的に座って観ているだけではなく、わたしたちの意識は能動的に知覚している。視覚や聴覚などを動員し、セリフを話す俳優に注意力をズームインし、首と目線を使ってそれを右や左にパンし、離れたところで起きる2つ以上のできごとをカットバックでつなぐ。そして、事前に起きたことをフラッシュバックで想起しながら、現在進行中のできごとにインサートしている。わたしたちは意識の上で、演劇を完成された映像作品のようなイメージに編集しながら観劇している。そのような意味では観客は作品づくりに参加しているので、何時間観ていても飽きることがない。
そうだとすれば、映像の歴史は、よくいわれるようにD・W・グリフィスがクロースアップやクロス・カッティングを発明し、エイゼンシュテインがモンタージュ理論を打ち立てたものではなくなる。わたしたちが観劇するときに、心のなかでイメージを切り貼りしておこなっていたことを、映画はスクリーン上に再現してみせただけなのかもしれない。それに関しては、また別のところで詳しく論じよう。ところで、マルセル・プルーストは20世紀を代表する小説家というだけでなく、すぐれた音楽評論家であり演劇評論家でもあった。『失われた時を求めて』の「花咲く乙女たちのかげにⅠ」の冒頭で、語り手の「わたし」は少年時代に初めてオペラを観にいき、ホールに舞台がたくさんあると思いこんでいたが、それがひとつしかないと知ってがっかりする。しかし、ラシーヌの『フェードル』を観ているうちに、「人間のあらゆる知覚を象徴的に配置したかのような客席の構造のおかげで、観客のひとりひとりが劇場の中心に座っている気分になれる」ことに気がつく。(註1)どこに座っても劇場の中心にいるように感じられるのは、ステージ上で起きるできごとに対して、知覚が能動的に関わりながら観劇をしているからだ。だが、公演の映像記録はその動きを疎外してしまうので、長いあいだ集中して観るのがつらくなるのではないか。
F/T20『Berak』より
どのように映像が演劇に関わってきた歴史があるのか、わたしはよく知らない。だが想像するに、コロナ禍の影響もあって映像を使って演劇を見せる試みが飛躍的に発展しようとしているのだろう。そう考えたのは、チェルフィッチュと金氏徹平がコラボレートした『消しゴム山』の東京公演(2021年2月、あうるすぽっと)をライブ配信の映像で観劇したからだ。天井やステージに置かれた大道具や小道具のなかに小型カメラをうまく仕込み、多視点をリアルタイムでスウィッチングしながら巧みに中継する模様に、来たるべき「映像演劇」の可能性を感じた。そんなふうに感心していたら、シンガポールのテアター・エカマトラによるさらに進んだ演劇と映像の融合体『Berak』を観ることになった。これはコロナ時代の副産物というだけでなく、映像作品としておもしろい試みになっているので考察をしてみたい。
テアター・エカマトラは30年以上活動しているシンガポールの劇団で、東南アジアの伝統的な演劇と現代的な技法を融合させ、マイナー言語であるマレー語で上演するところが特徴である。2020年3月『Berak』シンガポール初公演が、 コロナの影響でキャンセルになったことを機に、 映像バージョンの制作を開始。 映像演劇版の『Berak』が 、日本初のテアター・エカマトラの作品紹介となった。作品冒頭で、妻子のある主人公の男性が、集合住宅の窓から飛びおりて自殺したことが知らされる。マレー系の家庭の多くはムスリムであり、自死について語ることはタブーである。なのであるが、この作品ではマジック・リアリズム的に、自死した主人公の幽霊が死後の数年間、その母親、妻、娘と滑稽な対話をくり返す。幼い娘が成長していくなかで、難病に直面する姿を描いている。
映像の歴史をかえりみれば、映画の多くの要素が演劇から移行したものであり、ジョアン・ペドロ・ジ・アンドラージの『マクナイーマ』、マノエル・ド・オリヴェイラの『繻子の靴』、あるいはストローブ=ユイレやハンス・ユルゲン・ジーバーベルクの一連の作品のように、芝居やオペラの演劇性を映画のなかに持ちこもうとした例は数多い。ひと言でいうなら、映像が否応なくもってしまう記録性を否定し、意図的にそのリアリティを剥奪する試みであった。本作『Berak』では、俳優たちが舞台作品にするために練習を重ねていたものをヴィデオカメラで撮影して映像演劇に仕立てあげている。俳優たちはオーバーアクティングを抑制していはいるものの、テレビや映画などとは異なる質の演技をしているのは当然だ。それが映像のなかに良い意味でズレを持ちこんでおり、他にあまり見ることのない実験的で映像作品として成立している。
F/T20『Berak』より
具体的なシーンを例にして考えてみよう。主人公の母親(祖母)が、まだ幼い娘のシティに父親が死んだことを理解させるべく、「パパはトイレに流されてウンチになり、最後には浄化されてきれいな水になる」というシンガポールにおける再生水の比喩で、人の死後に起きるできごとを教える。その対話をふたりの俳優が演技するのだが、『Berak』の映像チームは、祖母と孫娘の声を音声トラックだけに残し、映像トラックでは、After Effectsを駆使したとみられるオーバーラップやコラージュのアニメーションを使い、主人公がトイレに流されてペットボトルになるまでの姿をサイケデリックでマンダラ的なグラフィックスにして表現する。映像チームがもとの舞台作品の忠実な再現にこだわることなく、撮影した映像をデジタルでいかようにでも加工できる「軽い素材」と見なし、自由自在に組み合わせて、まったく異なる映像作品に再構築したことが、この作品が成功した理由だろう。
物語のなかで娘のシティは5歳から7歳、8歳と成長していくのだが、わりと大柄な大人の俳優が演じている。舞台上であれば「この人は幼い少女です」と示せばそれで事足りるが、観客の眼は映像が否応なくもつリアリズムに拘泥するので、慣れるまでなかなか彼女を少女だと思いこめない。さらに『Berak』では、俳優たちが口を動かさずに演技をし、そこにセリフの音声をかぶせる場面がほとんどだ。通常の映像文法であれば、登場人物が心のなかで何を思っているのか、それをモノローグで表現する手法である。しかし、全編にわたって俳優たちが口を閉ざしたまま会話するので、現実感を希薄にする異化効果をもたらしている。これらのことからわかるのは、演劇の俳優がさまざまな実景のなかで演じる姿を撮影したとしても、それが直ちに映画やテレビドラマのようにならないことだ。逆にいえば、そのように映像演劇が生みだすズレのなかに、いまだ開拓されていない映像作品の可能性があるのかもしれないと思えた。
F/T20『Berak』より
ところで『Berak』では、自死や難病といった家族が直面する重い現実がテーマに描かれているが、物語にはそれを中和するようにアニミズム的な死生観が導入されている。祖母は孫娘のシティに、父親は死後にペットボトルの水、レジ袋、冷蔵庫になったとさとす。そのことを巡って、嫁姑の間柄である主人公の妻といさかいにもなる。だがそれは人工的な都市国家であるシンガポールにおいて人びとが持ちうる、現代的なアニミズムを軽やかに表現しているのではないか。主人公の幽霊と妻の会話では「あなたは階段下のゴミ箱。明日は傘になって、暑くても寒くてもあなたは現れる。信号機になり、タクシーになる。今日は銀色、明日は黄色のタクシー。どこへ行っても、あなたを思い出す。あなたが見えるし、聞こえるの。頭が爆発しそう」と妻が語る言葉は、それを端的に表している。トイレの水になった父親と会話するため、娘のシティが便器に話しかける姿は滑稽に映るが、それがシンガポールを含めて現代社会に生きるわたしたが持ちうる、癒しとしてのアニミズムの実際の姿にちがいない。
映画の後半に、自死した父親の幽霊と娘のシティが、鳥や人間、漁師や船などの型紙をつかって、楽しそうに影絵遊びをするシーンがある。ここに、つくり手たちは何らかのヒントを散りばめている。プロジェクション・メディアという観点から見れば、伝統的な影絵からはじまり、幻燈やスライド写真や映画へと発展して、それがいま長い歴史をもつ舞台芸術と融合して「映像演劇」へと合流している。その場面に長年にわたって変遷を続けてきたメディアの歴史を見て感慨をおぼえるのは、はたしてわたしだけだろうか。
註1『失われた時を求めて3』マルセル・プルースト著、吉川一義訳、岩波文庫、2011年、56頁
テアター・エカマトラ
東南アジアの伝統的な演劇様式と現代的なテクニックを融合させた「現代的で実験的なマレー演劇」の開発を目指し、1988年に創設された。
モハマド・ファレド・ジャイナル(芸術監督、パフォーマー、演出家)のもと、シンガポールの多様な民族、文化、言語にスポットライトを当てるとともに、政治的な課題にも大胆に切り込む作品を上演する。次世代育成のためのトレーニングプログラムや演劇祭の主催のほか、マレー語戯曲のアーカイブプロジェクトも展開している。
金子 遊
批評家、映像作家。多摩美術大学准教授。
著書『映像の境域』でサントリー学芸賞<芸術・文学部門>受賞。その他の著書に『辺境のフォークロア』『混血列島論』『悦楽のクリティシズム』など。
共訳にティム・インゴルド著『メイキング』、アルフォンソ・リンギス著『暴力と輝き』がある。
死んだらどうなる? 自死、病とコミュニティとの関係を解きほぐす
ファンタジックでポップな映像演劇
Berak
製作 | テアター・エカマトラ |
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配信期間 | 10/16 (Fri) 12:00 - 10/29 (Thu) 23:55 |
会場 | F/T remote(オンライン配信) |
詳細はこちら |
人と都市から始まる舞台芸術祭 フェスティバル/トーキョー20
名称 | フェスティバル/トーキョー20 Festival/Tokyo 2020 |
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会期 | 令和2年(2020年)10月16日(Fri)~11月15日(Sun)31日間 |
会場 | 東京芸術劇場、あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)、トランパル大塚、豊島区内商店街、オンライン会場 ほか ※内容は変更になる可能性がございます。 |
概要
フェスティバル/トーキョー(F/T)は、同時代の舞台芸術の魅力を多角的に紹介し、新たな可能性を追究する芸術祭です。
2009年の開始以来、国内外の先鋭的なアーティストによる演劇、ダンス、音楽、美術、映像等のプログラムを東京・池袋エリアを拠点に実施し、337作品、2349公演を上演、72万人を超える観客・参加者が集いました。
「人と都市から始まる舞台芸術祭」として、都市型フェスティバルの可能性とモデルを更新するべく、新たな挑戦を続けています。
本年は新型コロナウイルス感染拡大を受け、オンライン含め物理的距離の確保に配慮した形で開催いたします。