松井周作品の普遍性――キム・ジョン演出『ファーム』をめぐって
松井周が描く世界はいつも何かがズレている。そして観劇後は必ずモヤモヤが残る。それも数日間。それゆえ松井周の作品を観るのには相応の覚悟がいる。
サンプル公演『グッド・デス・バイブレーション考』(2018)は近未来の孤立した場所に住む家族を舞台に、死のありかたが展開される作品だ。戦後文学の傑作である深沢七郎『楢山節考』(1956)の姥捨伝説を元に作り上げた松井周の世界観は、近未来のSF的な設定でありながら、高齢化問題や介護問題など現代社会が抱える課題を見事に撃ち抜いている。
村田沙耶香との共作『inseparable 変半身(かわりみ)』(2019)は近未来の離島が舞台となり、神話世界と祭り、ゲノムに関わる性行為を含めた出生のありかたなどがテーマとして取り上げられた。あまりにも奇想天外な世界観ながら、決して飽きることなく、いやその奇想天外さゆえに私は舞台に釘付けになってしまった。
Photo: Alloposidae
これらの作品はいずれも近未来の孤立した場所を舞台としながら、しかしその外の共同体(の価値観)と深く関わりつつ、登場人物たちは生活している。そして登場人物たちの生活圏に深く根付いている神話的な世界や伝説が物語世界の基調を象っていることが展開とともに次第にわかってくる。
松井周作品の居心地の悪さは、本来ならば両立しないこのような近未来のSF的世界観と古代から伝わる神話的世界観が物語として矛盾なく成立してしまい、それが現代社会が抱え持つ問題と接続し、強度を持った問題提起としてわれわれに訴えかけてくるからに他ならない。松井周の作品を観てカタルシスではなく、モヤモヤが残されるのはこのためだ。
しかし今回のF/T公演の松井周『ファーム』(初演2014)はこのような覚悟を持って鑑賞に臨んだ私の期待を快く裏切ってくれた。私は初演時の『ファーム』を観ていないため、今回が初めての鑑賞で、事前に知っていたことは生命をめぐる物語であるということだけだった。
Photo: Alloposidae
物語の中心となる逢連児(オレンジ)一家の物語だ。冒頭、逢連児(パク・ジョンテ)の父(クォン・ジョンフン)と母(チェ・ヒジン)が離婚話を進めている。父は生物学の研究者で研究に明け暮れ家庭を顧みない。それに不満を募らせた母がパート先のスーパーの店長(キム・スンイル)と不倫をし、彼女は夫に離婚を突きつける。彼女の不倫相手の店長は出世がなかなかできず、怪しげなゾーントレーナー(ゾントレ)(イム・ヨンジュン)の指導のもと、向上心を磨いている。一方、この夫婦の間の息子逢連児は普通の人間の3倍の速度で成長し、さらに「ファーム」と呼ばれる特殊な能力を持っている。それは他人の身体の一部や臓器を自分のものとして育てることができる能力だ。この能力を利用して父は老婦人(ナム・ミジョン)の死んだ愛犬の一部分を引き受けて、自身の研究の一環として逢連児のなかで育てている。そして老婦人はこの愛犬に出会うためにたびたび逢連児のもとに訪ねてくる……。
この作品の物語を要約することはまず不可能で、そのこと自体にさしたる意味はない。注目するべきはこのような奇想天外な世界観を舞台上でどのように表現するのかと言う点だろう。キム・ジョンの演出はこの難題にいくつもの方向からアプローチを仕掛け、この独特な世界観を表現しようと試みている。以下、キム・ジョンの演出の特長を考えてみよう。
まず注目したいのはポップな舞台装置である。上手と下手の両側やや奥にうずたかく積み上げられたカラフルなぬいぐるみ、そして舞台奥と手前を区切る簡単なパーテーション。舞台の脇には何個かの風船も宙に浮んでいる。舞台上はカラフルな色使いで目を楽しませてくれるが、どこか捉えようがなく、具象性は全くない。それゆえに見方によってはどのような場所にも変換可能な空間となっている。この変換可能性は、逢連児が何者であるのか、それを観客が考える契機ともなっているだろう。またこの空間を映し出す色とりどりの照明は場面転換のリズムを作り、より一層ポップな感覚を与えている。
Photo: Alloposidae
2点目は逢連児というキャラクターの作り方である。言うまでもなく逢連児はこの作品の主人公で、彼が他の人物と会話する場面は数多い。しかし、キムの演出ではまるで彼がロボットのように表現され、何を考えているのか皆目見当が付かない設定だ。逢連児は他人の臓器を培養する「ファーム」の役割を粛々とこなしていく存在として位置づけられ、彼の思考は剥奪されているように見える。事実、逢連児がこの世に生まれてきた来歴を父と母の来歴から語る場面では、舞台中央で生まれ来る逢連児への期待を語る両親の上手で、半裸の逢連児の身体にたくさんの付箋が他人によって貼り付けられる。それはまるで、彼にまつわるラベリングが他者によって行われていることを明らかにしているようであり、彼は自身の「生」ではなく、他者の「生」を生きることが、最初から運命づけられいるようにも考えられる。キムの演出はこのような逢連児の他者性を観客に強烈なまでに印象づける。それだからこそ終幕近くでガンとなり死に直面した逢連児が、弟のかけらから作ったペニスバンドでゾントレとともに「生まれ直しの儀式」をする場面は、逢連児がほぼ初めて自身の欲望を語り、「引き算した「自分」」と出会おうとする感動的な場面となりえるのである。ここには単に逢連児が自我に目覚めたといった単純な成長物語ではなく、生命を再生する能力を持った一人の人間が、ガンを前にして自身の生命と出逢ってしまうといった途方もなく壮大なドラマが潜んでいるのだ。
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3点目は役者の身体性である。冒頭「マイ・ウェイ」のBGMが流れるなか、逢連児役のパク・ジョンテが登場する。ロボットのような鋭角的な動きの中に、どこかしなやかさを感じさせるなんとも不思議な身体だ。この身体の特長を遺憾なく引き出しているのがイ・ジェヨンの振付だ。特に中盤で父親と母親が逢連児がこれまで行ったことを思い出している場面は、次第に照明が暗くなり、3人が絡まり合いながら過去の記憶が字幕で展開されていく。日常的な所作とダンスの動きが中和されるような形で場面が構築されていく点は実にスリリングだ。その他、初演では女性が務めたゾントレ役を今回は男性のイム・ヨンジュンが担当。そのトリッキーな身体は性差を超越した存在として強烈なインパクトを与えた。そしてパク・ジョンテとイム・ヨンジュンによって展開される「生まれ直しの儀式」は、静かな振付から始まり、いつしか2人が向き合って腕を振り回す激しいダンスとなる。この作品が単に見た目の楽しさだけで終わらないのは、このような役者の身体の強度を観客もひしひしと感じるからであり、そして何より演出のキム・ジョンが役者の身体に全幅の信頼を置いているからである。
Photo: Alloposidae
演出について以上3点の特長を挙げてみたが、私が今回の公演で驚いてしまったのは、全てを見終わったあとにこれらの3点が絶妙のバランスで配され、さらに有機的につながっていたことである。逢連児役パク・ジョンテの身体が醸し出すイメージは、そのまま逢連児の何を考えているのか見当が付かないキャラクターに直結し、そしてポップな舞台装置は逢連児同様にいかようにも解釈可能な物語を示している。さらにこの3つの要素がそれぞれを支え合いながら松井周が描く独特の背反した世界観を示し出す。そして終演後は生命をめぐる深遠なドラマと同時に、優れた身体表現を鑑賞した充足感が残される。これはこれまでの松井周作品のモヤモヤ感とは明らかに異なる感覚だ。そして松井周の作品が示す世界観がいかようにも読み直される普遍性を持ち得ていたということを明らかにした点において、キム・ジョンの演出は実に画期的であったといえるだろう。
このように今回のF/T公演『ファーム』は松井周とキム・ジョンの出会いが日韓の演劇界において大きな収穫であったことを実感させる舞台であった。今後の2人の共同制作を大いに期待したい。
嶋田直哉(しまだ・なおや)
1971年生まれ。日本近代文学・現代演劇批評。明治大学政治経済学部・教養デザイン研究科准教授。博士(文学)。シアターアーツ編集長。2008年「語られぬ言葉たちのために――野田秀樹『ロープ』を中心に」(「シアターアーツ」第34号、2008年3月)にて第12回シアターアーツ賞佳作受賞。その他「記憶の遠近法――井上ひさし『父と暮せば』を観ること」(「日本近代文学」第94集、2016年5月)、著書に『荷風と玉の井「ぬけられます」の修辞学』(論創社、2018年5月)など。
『ファーム』
演出 | キム・ジョン |
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作 | 松井周 |
日程 | 10/19 (Sat),10/20 (Sun) |
会場 | あうるすぽっと |
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