『ファーム』 演出 キム・ジョン インタビュー
韓国演劇界をけん引する新世代の演出家キム・ジョン。彼が手掛けるのは、同時代に生きる人間と社会の歪みを独自のユーモアで活写する松井周の『ファーム』(2014年)です。生命のタブーに科学で迫る時代の家族劇に、演出家はどんな「未来」を見出すのでしょうか。
── 戯曲『ファーム』を最初に読んだ時の印象と、稽古を始めてからの変化・発見など、それぞれに伺えますか?
キム 作者の松井周さんには失礼かも知れませんが、戯曲の第一印象は「奇妙で可笑しい」というもの。演出するために解かなくてはいけない宿題が多い戯曲だと思いました。けれど俳優たちの声を通して戯曲を聞き、考えるうち「これは人間そのものの物語だ」と180度印象が変わった。作家が深く人間に対して考察し、理解をしているからこそ書けた戯曲だと思います。
登場人物たちはみな奇妙で、どこか子供っぽい。なので各人に極端な「動き」をつけ、それが止まった時にせりふを言うことで人間らしさが立ち上がる、という考えのもと演出をつけています。そのことが、観客と共有できたらいいですね。
── 僕自身にとってこの戯曲の登場人物たちは感情の温度が低く、互いの距離がよそよそしく離れている印象がありました。けれど稽古を拝見し、登場人物たちが発する感情、特に愛情にまつわるものが非常に強く鮮烈に伝わってくることに驚かされました。
キム 私も最初、このアプローチは戯曲の示すところとは反対側へ向かっている気がしたのですが、稽古を重ねるうち、最終的には戯曲の基点で合流できる手法だと思えるようになりました。
私は特に、フィジカルに関する演出を重視しているので、自分が観客の場合でも、観た瞬間に作品に対して身体が反応しないと意味がないと思ってしまう。なので、私自身の身体の反応も、創作の初動においては重要な指針になっています。
── 昨年から今年にかけてキムさんが演出した三作品を拝見していますが、どれも俳優の身体が非常に強く劇中に存在していました。せりふとは別のことを、俳優の身体が語っているように思えたのです。音楽で言うところのトラックのように、せりふのトラックと身体のトラックが、不思議な距離と出力を保ちながら並行して観客の耳目に届けられる感覚、と言えばいいでしょうか。そこにある距離感が、非常にデリケートかつ複雑ゆえに醸し出される面白さがある。あの距離感はどのように見出したものなのでしょう?
キム 今、長島さんは非常に緻密に分析してくださいましたが、実際にはそこまで深く考えてのことではなく、直感的に判断している部分かもしれません。
私にとって舞台芸術は、観客と一緒に行うゲーム。ゲームの速度やルールの調整を、観客の反応や様子を予測しながら作品の進行と共に変えることは、より楽しんでもらうための工夫なのです。せりふと身体の関係や距離は確かにデリケートなものですが、それ以上に私がデリケートだと捉えているのが、舞台と客席の関係や距離。その調整には、ロジックだけでなく直感も働かせます。
また『ファーム』に関しては「愛の物語」だと捉えており、しかもそれは男女の性愛ではなく「家族愛」や「人間愛」について語るものだと思っています。登場人物たちは、その「愛」が失われることをみな恐れている。 さらにはこれらの「愛」が、私にとっては「演劇」にも重ねられるもの。もし演劇がなくなったら……私にとっては絶望的な状況で、そんなことはあって欲しくない。なので「演劇はなくならない」という想いを、俳優たちのフィジカルに託す演出も施しています。
『お客さんたち』(2018) Photo: LEEGANGMOOL
── なるほど、この作品には「医療」や「サイエンス」などのトピックも含まれますが、それよりもまず「愛」が、キムさんの演出の核となっている、と。
キム 確かに科学的なトピック、現在でもあり得る医療行為が含まれている作品ですが、そのことよりも私には、戯曲の、人間と「愛」について語られた部分が迫ってきたのです。
少し話が変わりますが、振付家が稽古に加わって、最初に出て来たキーワードは「非日常性」でした。最初は日常的な動きを細切れにして動いてみることから始まったのですが、振付家は俳優たちに「コンタクトしてみてください」と言い、その「コンタクト」という言葉が私にグッと入り込んできた。実際、俳優たちがその動作を取り入れると、触れ合う時よりも離れていく際に、より多くのことが伝わるようになりました。
例えば、すごく非日常的な動きでタッチし合っていた人たちが、突然本気でハグをすると非常に強い印象が残りますし、それまで大げさに動いていたのに葬儀のシーンなどでは素の状態に近い、日常的な動きや会話をすると、そこから大きな哀しみが立ち上がる。そういうことも演出に活かしたいと思っています。
── 劇中では「デザイナーズ・ベビー」や「人体パーツのクローニング」など最先端の医療や科学がモチーフになっていますが、技術そのものを見せようとしているわけではありません。
ではこの戯曲が何を描いているかと言えば、キムさんが取り入れたコンタクトが表す、人と人とのふれあい、関わりのようなものではないかと思えて来ました。言葉では書かれていない人と人との関係や距離が、俳優間のコンタクトによって伝わってくると、稽古から感じました。ああいった「コンタクト」を稽古場でどのように発見しているのでしょうか?
キム 振付のイ・ジェヨン氏は「日常的な動き以外なら何でもよい」と言って、いろいろと試していました。俳優たちの喋り方がそもそもバラバラのように、身体も、そこから生まれる動きも個々に異なっている。演出家としてみんなに伝えたのは、「動きも言語」だということ。「私たちは身体と言語、二つの言葉を用いて作品を表現する」と。
ただ抽象的な動きを振り付けてしまうと、観客はそこにいろいろな意味を想像してしまう。それによって今作が、複雑で曖昧な物語になるのは観客にとって良くないので、あくまでも戯曲から読み取れる範囲の動きにはしています。
またこの作品は、韓国の観客より先に日本の観客に見せる、私にとって初めての体験になります。でも私たちには「動き」というもう一つの言語がある。それを使い、日本の観客と出会うことが楽しみです。
『Red Oleanders』(2019) Photo: LEEGANGMOOL
── 発語と異なる動きを俳優に与え、負荷をかけて役柄と俳優の距離をコントロールする方法もありますが、キムさんはそれとはだいぶ違う発想で演出をしているのですね。
キム 先ほどもお話したように、演劇は俳優と観客が共犯関係で楽しむゲームだと思っています。楽しいゲームにするためには、俳優がリードする立場でなくてはいけない。そのためには俳優自身がゲームを、自由に楽しむことが必要。舞台上の俳優たちを見て、観客が「私もあの中に混ざりたい!」と思える作品にしたいのです。
── 松井さん自身の演出では主人公の逢連児が、孤独で取り残された存在に見えたのですが、キムさんの演出では逢連児が非常に愛されているように見え、だからこそ哀しさも増していると感じました。
キム 私も戯曲を読んだ段階では、逢連児が孤独な存在だと思いました。でもそれをどう表現するか考えた時、「普通」に見せることが有効ではないかと思った。そうすることで観客は逢連児に共感できるし、彼の早すぎる老化などにも、より心を寄せてくれるだろうと考えました。
逢連児の生い立ちや生活、身体は特殊なものですが、彼が生きた人生は私たち同様、一人の人間の当たり前の人生だった。終幕では、俳優たちが「動き」によってつくり出し、舞台上を満たしたエネルギーも急速に消えることになり、そのことも逢連児の人生に重ねて観ていただきたいと思っています。
──松井版では女性だった「ゾーン・トレーナー(ゾントレ)」を男性が演じているのは大きな変化です。どういう意図があるのでしょうか?
キム 後半の、逢連児とゾントレが会うシーンが発想の起点となり、自分のアイデンティティに違和感を感じているような人物にしました。それによって逢連児との出会いに必然性が増すと考えたのです。
──私の解釈ではゾントレは、スナックのママとカルト宗教の教祖的存在、二つの役割が混じり合った人物で、そこに通うスーパーマーケットの店員である「男」にとっては母性と父性、両方を示す存在でもある。それがキムさんの演出では、対応な友人的存在として描かれることも興味深いところです。
キム そこは私の意図を超え、ゾントレ役の俳優が生み出した表現で、より感動的でユニークな人物になったと思っています。
──舞台美術に関して、どのようにあの空間を発想したのでしょうか。
キム どんな場所にもなり得る、開かれた空間にしたいと思いました。韓国には「マダンノリ」という伝統芸能があり、何もない円形の舞台で上演されるのですが、演者の語りによって場が変わる構成になっています。ベースにあるのはそんな「広場」的なイメージです。また人形を用いたのは、逢連児が生まれてから死ぬまでの時間の「痕跡」としての機能と、彼が人間なのか人形的な人工物なのか、場面によって曖昧に見せる効果もあると考えてのことです。
──なるほど。舞台上で投げ飛ばされ、放置された人形からも強い哀しみを感じます
キム 人形は特別な存在感を発揮する。観客には、それを使っ て遊んだ子どもたちが今どこにいるのかというイメージも持たせられるし、今回で言えばファームたち、人形同様に消費される彼らの運命を重ねて見てもらえたら、とも思っています。
キム・ジョン/Kim Jeong
作家、演出家、俳優、スタッフが集い、あらたな舞台言語の創造を目指すコレクティブ「プロジェクト・ホワイル」のメンバー。ハン・テスクのもとで学んだ後、緻密な脚本解釈と独創的なスタイルを両立させる演出家として活躍。2017年ドンア・ドラマアワード新人演出家賞、2018年ドゥサン・アーティストアワードパフォーマンス部門受賞。
長島 確 / Kaku Nagashima
立教大学卒。字幕オペレーター、上演台本の翻訳者として演劇に関わる。その後、日本におけるドラマトゥルクの草分けとして、さまざまな演出家や振付家の作品に参加。東京藝術大学音楽環境創造科特別招聘教授。尾上そら / Sora Onoe
東京都出身。出版社勤務後、フリーランスの編集者・ライターに。雑誌や劇場発行の広報誌などの記事の企画・取材・執筆、書籍編集・執筆のほか、演劇公演や映画などのパンフレット編集を手掛ける。現代演劇に加え、ダンスや古典芸能にも触手を伸ばしつつ、ライフワークとして国内各地の演劇、表現の現場を取材している。
『ファーム』演出:キム・ジョン 作:松井 周
日程 | 10/19 (Sat) 13:00 / 18:00 10/20 (Sun) 13:00 |
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上演時間 | 120分 |
上演言語 | 韓国語上演、日本語・英語字幕つき |
会場 | あうるすぽっと (東京都豊島区東池袋4-5-2 ライズアリーナビル2F) |
人と都市から始まる舞台芸術祭 フェスティバル/トーキョー19
名称 | フェスティバル/トーキョー19 Festival/Tokyo 2019 |
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会期 | 令和元年(2019年)10月5日(土)~11月10日(日)37日間 |
会場 | 東京芸術劇場、あうるすぽっと、シアターグリーンほか |
概要
フェスティバル/トーキョー(以下F/T)は、2009年の開始以来、東京・日本を代表する国際舞台芸術祭として、新しい価値を発信し、多様な人々の交流の場を生み出してきました。12回目となるF/T19では国内外のアーティストが結集し、F/Tでしか出会えない国際共同製作プログラムをはじめ、劇場やまちなかでの上演、若手アーティストと協働する事業、市民参加型の作品など、多彩なプロジェクトを展開していきます。
オープニング・プログラムでは新たな取り組みとして豊島区内の複数の商店街を起点とするパレードを実施予定の他、ポーランドの若手演出家マグダ・シュペフトによる新作を上演いたします。
2014年から開始した「アジアシリーズ」は、「トランスフィールド from アジア」として現在進行形のアジアの舞台芸術やアートを一カ国に限定せず紹介します。2年間にわたるプロジェクトのドキュントメント『Changes(チェンジズ)』はシーズン2を上映予定です。