都市の祭りが果たす役割 F/Tディレクターインタビュー<前編>
──2018年に長島確と河合千佳による共同ディレクター体制となってから3年目。フェスティバル/トーキョー(以下、F/T)は、世界中の多くの演劇祭と同様、かつてない苦境に立たされている。新型コロナウィルスが引き起こしたパンデミックにより、濃厚接触の危険性を持つ演劇は、その多くが公演中止に追いやられ、その再開がいつ、どのようにできるのかも、誰にも確証が持てないでいる。
非常事態宣言が発令される中で行われた今回のインタビューでは、過去2年間のF/Tを振り返ってもらうとともに、パンデミックの中で彼らが何を考え、どのように次のフェスティバルへ活かそうとしているのかを伺った。はたしてこの状況は、F/Tを、あるいは演劇をどのように変えていくのだろうか? 前後編にわたって、彼らの声を掲載する。
インストールされてしまった新自由主義
──現在のところ、どのような形で開催できるのかも未知数な状態でフェスティバルに向けた準備を強いられています。そんな中、パンデミックが起こってから、共同ディレクターのお二人はどのように過ごしていたのでしょうか?
長島 実務としては、できる限り自宅でテレワークを行っていました。オンラインで打ち合わせを行いながら、この状況に対してどのように対処ができるのか、プランBはどのようなものがあり得るのか、そういった話を詰めているところです。
その一方、個人的には、コロナ前はどのような社会だったのかについて考えていました。そこで行き当たったのが「新自由主義」と呼ばれる流れ。以前から興味を持っていたのですが、改めて学んでみると、この流れが社会全体だけではなく無意識のうちに自分自身にもインストールされてしまっていたことに気付かされます。
──新自由主義は、80年代にレーガンやサッチャーが導入した、政府による規制を緩和し、民間の活力に任せて経済成長を促そうとする政策です。イタリアやスペインにおける医療崩壊は、新自由主義的な発想のもとで、政府が医療費を削減したことによって引き起こされたとも言われています。
長島 ウェンディ・ブラウンというアメリカの政治学者が2015年に書いた『いかにして民主主義は失われていくのか?――新自由主義の見えざる攻撃』(中井亜佐子訳、みすず書房)を読んで、いろいろなことがよくわかりました。僕がいままで理解できていなかったのですが、経済と思っていたものに2つの種類がありました。ひとつは、昔ながらの労働を提供して対価を得るような交換経済としてのありかた。そして、もう一つが、市場原理による自由競争で価値を上げていくという経済のありかた。両者は関連し合っていますが、とくに後者を徹底的に押し進める新自由主義においては、それぞれの個人が「自分という資本」を持っている資本家と見なされ、自分の「資本価値」を上げる努力をつねに強いられる。これが、個人を市場価値の優劣で比較し、劣っていることも「自己責任」という発想を生み出してしまう。教育や医療(健康)までもが競争材料として自己責任にされ、その結果、平等な権利という考え方が弱まり、公共サービスはどんどんと手薄になっていきます。
問題は、こうした新自由主義の考え方が、本来は経済ではない、経済とは分けて考えなければならない分野にまで浸透し、内面化されていることです。いつの間にか、生活のすべてがそういう考え方に染まってしまっていたという実感が、自分にもあります。そしてこのことはアートとも無縁ではない。アートにおいても「人がやっていない新しいことをする」という他者との競争を基盤にした価値観が非常に強く働いていますよね。そうやって「市場価値」を上げ続けるゲームが行われている。競争を全面的に否定するわけではありませんが、この2年、F/Tのディレクターになってやろうとしたのは、そのような方向とは異なる考え方でした。新自由主義的な風潮の中で、アートがどのようにあるべきかを考えなければいけないと改めて実感しています。
「体験」の意味が変わっていく
── 一方、河合さんはどのように過ごし、どのようなことを考えていたのでしょうか?
河合 私も、3月から順次テレワークに移行し、新しいシステムとの付き合い方を模索していました。そうして、オンラインミーティングを重ねていくうちに、そもそも「体験」の意味が変わっていくのではないか、と考えました。演劇にとって「生の体験」であることはとても大切ですが、同時に、劇場に足を運んでみんなと同じ場で同じものを観るのとは異なった体験があるのではないか。これまで前提としていた演劇の体験が大きく変わっていくのではないかと考えています。
現在は「代わり」としてのオンラインという意味が強いですよね。しかし、この先、オンライン自体が「体験」を生み出し、もっと身体感覚に落ちていくものとなるはずです。そして、オンラインでコミュニケーションをとることが当たり前になれば、劇場に行くことが難しい人にも演劇を届けられるし、大学の教室に行かなくても授業を受けることができる。それは、新しい可能性を与えてくれるものでしょう。
もちろん、「オンラインはだめ」という人の気持ちもわかります。しかし、劇場での体験が難しい時に、何ができるのかをポジティブに考えていきたい。例えば、国立科学博物館では『おうちで体験!かはくVR』として、3D技術を駆使してこれまで公開が難しかった資料の公開も行っています。単純に配信するだけではなく、オンラインだからこそできることがあるんです。
──昨年のF/Tでは、仮想空間の中で動くアバターを駆使した谷口暁彦さんの『やわらかなあそび』が上演されました。これも、演劇の体験を拡張する可能性を秘めたものだったと思います。
河合 谷口さんに依頼するにあたっては、どのような人と組んだら演劇体験のありかたを変えられるか、アバターを使ってどのような演劇体験をつくることができるのかを考えていました。そのようなテクノロジーを使った実験も、今後、さらに活発になっていくのではないかと思います。
フェスティバルは移動の場
──これまで、お二人は2年にわたってF/Tの共同ディレクターを勤めてきました。この2年を振り返って、どのような実感をお持ちでしょうか?
長島 僕らが共同ディレクターになってからも、前ディレクターの市村作知雄が昔から言っていた「アートによって政治や経済とは別のドアを開けていく」というF/Tのミッションは変わっていません。ただ、その一方で、世界的な最先端のアートをラインナップするという従来の形からは距離を取っています。最先端の紹介よりも「いろいろな種類の人が移動すること」「人と人との出会いが起こること」に焦点を当ててきたんです。
──「移動する場」「出会いの場」としてフェスティバル?
長島 はい。ここで言う「移動」にはさまざまな意味が含まれています。海外のアーティストが日本に来ることはもちろん、違うジャンルとの間で作り手の移動が起こることもそう。演劇をいつもは観ない人が演劇に触れる、演劇をいつも観ている人が別のジャンルの作家の作品に触れるという移動もあります。世代、職業、地域など、いろいろなレイヤーにおいて移動が起こることを狙ってきたんです。
そうやって人々が移動をすることによって出会いが起こり、出会いによって変化が生まれる。フェスティバルは、1か月〜1か月半程度の期間限定ですが、この短期間だからこそ普段は起こらないような移動によって、偶発的な出会いが起こることを期待しているんです。
── 過去に、長島さんはフェスティバルのキーワードとして「自治」という言葉を使っていました。この「自治」と「出会い」とはどのような関係にあるのでしょうか?
長島 「自治」と「出会い」は、2つの意味で繋がります。一つは、F/Tは「都市のフェスティバル」であり、この2年にわたって、都市のフェスティバルが果たす役割を考えていた。そして見えてきたのが、「祭り」ではあるけれども、「村祭り」とは違う、ということでした。
村祭りは、血縁や地縁のある住民による共同体が結束を確認するために行われます。一方、都市の祭りには血縁や地縁はなく、出自も職業もバラバラ。そんな無関係な人たちがある一時だけ集まって、どんな人々が傍らにいるのかを体験し、確認する。それが都市の祭りの役割なのではないか。それは、結束したり仲良くなることもない。「誰がいてもいい空間」として、都市の祭りが必要なんです。
──バラバラのまま集まることによって、誰がいるのかを確認する。それによって、出会いが生まれることこそが、「自治」であり「都市の祭り」である、と。
長島 もうひとつが、舞台芸術における集団創作の形も「自治」だと考えています。いろいろな人々と交渉したり、作業を分担することによって作品をつくる過程は、あたかも社会の縮図のようなもの。この「自治」によって、一人じゃ生まれないものが生まれたり、一人じゃ届かないところまで届く作品を生み出すことができる。
しかし、この1〜2年、舞台の世界では複数のパワハラが問題になりました。演劇という制度が古い集団性を再生産し、劇場というフィルターが防御壁となることによって、そんな古いコミュニティを温存してしまった。そこには外部との「出会い」がなかったんです。
もちろん、それは演劇の中でも一部の問題。しかし、演劇という制度が構造的にそういう問題をはらんでいることについて、今、深刻に問い直さなければいけないと考えています。
劇場から出ることで得られる刺激
──では、河合さんの視点から、この2年間を振り返るといかがでしょうか?
河合 私の場合は、これまで、舞台芸術だけにとらわれたくないという気持ちで、F/Tのディレクションに取り組んできました。
そもそも、演劇、美術、音楽など、それぞれのジャンルに専門家がいて、それぞれに壁や敷居がある。アーティストだけではなく観客にも交流が起こりにくいという問題を抱えています。それによって、美術の文脈で散々議論されてきたことが演劇では議論されていなかったり、その逆に、美術が演劇に学んでいないといった弊害が生まれてしまう。交流がないから知恵や歴史、テクニックの交換が起こらず、生まれるはずの刺激が生まれないんです。私自身、大学では美術大学でデザインを専攻していたこともあり、そこで移動が起きないことにもったいなさを感じていたんです。
そこで昨年は、劇場の外に作品を積極的に持ち出すことで、交流や刺激を生み出そうとしました。劇場から出て、外的要因を取り込むことによって作品は変わっていく。アーティストのコントロールから外れたさまざまな状況に見舞われ、臨機応変に対応していかなければならなくなります。
──ただ、外に出ることによって、劇場内では起こり得なかったさまざまなトラブルも生まれてしまいますよね?
河合 トラブルはたくさんあります(苦笑)。劇場だったら「ここを使っていいよ」と言われたら劇場のルールの中で自由に使えますよね。しかし、街に出ると「使っていいよ」と言われていたのに、実際やってみると相手の考えていたよりも音が大きかったり、通行の邪魔をしてしまったりと、お互いに想定外な事態ばかりが生まれる。その結果、考え直さなければいけないことの繰り返しです。
本来であれば、演劇祭では公演日時と会場が全て情報が決まっていることが大前提ですが、昨年は、アニコチェの『Sand (a)isles(サンド・アイル)』の受付場所が会期に入ってから変更になったり、北澤潤さんによるインドネシアの屋台をモチーフにした『NOWHERE OASIS』でも、突然会場が使えなくなってしまったり……。多くのプログラムで、会期に入ってから情報が変わり、アーティスト、広報、そして観客のみなさんにも迷惑をかけてしまった。しかし、街に出て作品をつくっていく以上、そんな臨機応変な対応を引き受けていかなければなりません。
──では、街に出ることによって得られたメリットは?
河合 セノ派の『移動祝祭商店街』では、商店街の人たちにF/Tの存在や、アーティストの存在を知ってもらうことができました。準備をするために大塚駅前でテントを張っていると、地元の人が「なんかよくわからないけど、応援してあげるよ」と、お菓子を持って遊びに来てくれて、本番も見てくれました。
これまでのF/Tでは出会えなかった「なんかわからないけど、楽しそうにやっているよね」「なんとなく見ていたらおもしろかったから来てみた」といった人々に出会い、作品を届けることができた。わざわざ劇場に足を運ばないけど、公園や商店街で見れるなら観るよという人々はたくさんいるんです。
それに、外に出て行ったことで、そこに住む人たちの顔がよく見えるようになりました。Hand Saw Pressによる『ひらけ!ガリ版印刷発信基地』には、地元に住む商店の人や学校に通う人などが、毎日のように通ってくれる姿も見られました。
劇場の外に積極的に出ていくことによって、観客やアーティストにとってだけでなく、フェスティバルとしても、作品を通じてそこに住む人々との接点がつくられ、新たな出会いが生まれたんです。
長島 確(ながしま・かく)
立教大学文学部フランス文学科卒。同大学院在学中、ベケットの後期散文作品を研究・翻訳するかたわら、字幕オペレーター、上演台本の翻訳者として演劇に関わるようになる。その後、日本におけるドラマトゥルクの草分けとして、さまざまな演出家や振付家の作品に参加。近年は演劇の発想やノウハウを劇場外に持ち出すことに興味をもち、アートプロジェクトにも積極的に関わる。参加した主な劇場作品に『アトミック・サバイバー』(阿部初美演出、TIF2007)、『4.48 サイコシス』(飴屋法水演出、F/T09秋)、『フィガロの結婚』(菅尾友演出、日生オペラ2012)、『効率学のススメ』(ジョン・マグラー演出、新国立劇場)、『DOUBLE TOMORROW』(ファビアン・プリオヴィル演出、演劇集団円)、『マザー・マザー・マザー』(中野成樹+フランケンズ、CIRCULATION KYOTO)ほか。主な劇場外での作品・プロジェクトに「アトレウス家」シリーズ、『長島確のつくりかた研究所』(ともに東京アートポイント計画)、「ザ・ワールド」(大橋可也&ダンサーズ)、『←(やじるし)』(さいたまトリエンナーレ2016)、『まちと劇場の技技(わざわざ)交換所』(穂の国とよはし芸術劇場PLAT)など。18年度より、F/Tディレクター。東京芸術祭2018より「プランニングチーム」メンバー。東京藝術大学音楽環境創造科非常勤講師。
河合 千佳(かわい・ちか)
武蔵野美術大学卒造形学部基礎デザイン学科。劇団制作として、新作公演、国内ツアー、海外共同製作を担当。企画製作会社勤務、フリーランスを経て、2007年にNPO法人アートネットワーク・ジャパン(ANJ)入社、川崎市アートセンター準備室に配属。「芸術を創造し、発信する劇場」のコンセプトのもと、新作クリエーション、海外招聘、若手アーティスト支援プログラムの設計を担当。また同時に、開館から5年にわたり、劇場の制度設計や管理運営業務にも携わる。2012年、フェスティバル/トーキョー実行委員会事務局に配属。日本を含むアジアの若手アーティストを対象とした公募プログラムや、海外共同製作作品を担当。また公演制作に加え、事務局運営担当として、行政および協力企業とのパートナーシップ構築、ファンドレイズ業務にも従事。15年度より副ディレクター。18年度より、F/T共同ディレクター。東京芸術祭2018より「プランニングチーム」メンバー。日本大学芸術学部演劇学科非常勤講師。
萩原雄太(はぎわら・ゆうた)
1983年生まれ。演出家、かもめマシーン主宰。早稲田大学在学中より演劇活動を開始。愛知県文化振興事業団「第13回AAF戯曲賞」、「利賀演劇人コンクール2016」、浅草キッド『本業』読書感想文コンクール受賞。手塚夏子『私的解剖実験6 虚像からの旅立ち』にはパフォーマーとして出演。2018年、ベルリンで開催された「Theatertreffen International Forum」に参加。2019年度・2020年度セゾン文化財団ジュニアフェロー。