【レビュー】福島は上演されたか (文・鴻 英良)
F/T18『福島を上演する』に関する批評
福島原発で巨大事故が発生し、莫大な放射能がまき散らされてからすでに7年がたった。汚染されて人間が住むことができなくなった地域の除染も進み、避難地区も徐々に解除されはじめた。かつてそこに住んでいた人たちに対してそろそろ帰ったらどうですかとの呼びかけも始まっている。原発はとうにアンダーコントロールだというし、福島は来る2020年の東京オリンピック・パラリンピックの会場のひとつにさえなった。原発事故はもう遠い昔の話のようである。
そのようなときにマレビトの会の『福島を上演する』は三年目を迎えた。2016年に上演されはじめたこのプロジェクトは、まだ事故の記憶が消えていない頃に始まったのだ。だが、私の見た最初のそれは福島市内の情景をなぞるような作品だった。原発事故や放射能汚染の問題と直接的にかかわる問題を扱っているようには見えなかった。福島原発の事故現場や原発作業員の話はまだあまりにも生々しいので、その危険な実態や複雑な現実をやや遠くから眺めるために、たとえば浪江町や飯舘村などで起こっていることではなく、福島市で起こっていることをまずは描いてみたのだと演出家は語っていた。
二年目。作品はまだ周辺を彷徨っていた。そして、このあたりから一つの方針がはっきりしてきているようにも思えた。それは遠くから見ることで何かが見える、そのような方法はないだろうか、それを探求するという意志である。しかし、幾つかのエピソードは、舞台が福島市ではなく、郡山市になったりして、場所は事故現場、汚染地区の中心に近づいていた。ゆっくりと場所は移動しているようにも見えた。
Photo: Masanobu Nishino
そして三年目の2018年、『福島を上演する』は衝撃的な終わり方をした。4日間に16本の戯曲を上演した最後の日の最後の戯曲は「いわき総合図書館にて」と題されていて、そのいわきの図書館風景を登場人物たちが演じるのである。本を読む人、探す人、借りる人がいる。カウンターの貸し出し係の人がいる。雑誌を見る人、トイレに行く人、パソコンに向かう人がいる。そこでスマホを見ている人もいる。図書館に行けばどこでもそうであるようなことが展開している。別にそこで銃が乱射されるわけではない。車が突っ込んでくるわけでもない。事件は何も起こらない。「いわき総合図書館に行けばわかりますよ、この通りのことが起こっていました」と誰かが言った。私もいわきに何度か行った。図書館には行かなかったけれど、街を歩きながら、文化センター、アリオスの劇場に行ったり、いわき市美術館などに行ったりしたが、地震で破壊された場所の写真が展示されていたとはいえ、確かによその美術館と見かけは変わる所がなかった。カタストロフィを予感して脱出を計ろうとする人たちが方舟を担いで旅立とうとしている瀬戸内海、男木島の桟橋に作られた山口啓介の「歩く方舟」という作品の別ヴァージョンが美術館の入り口広場に置かれていた。その方舟はいまいわきに上陸し、これから原発に向かおうとしているのだという。なぜ方舟がグラウンド・ゼロに向かっているのか、疑問の気持ちが浮かぶような仕掛けだ。原発事故の直後から多くの人がここいわきに避難してきて、街の様相は一変したのだと言われていた。図書館エピソードはそれがいまはなにも変わらないように見えるということなのだろう。
だが、このプロジェクトは、初日の「父の死と夜ノ森」というエピソードで始まり、8人が書いたすべてちがった16本の戯曲を、毎日、四つずつ、四日間にわたって綴っていくという上演形式をとっているので、それが全体としてどのように構成されているのかは、通しで全部見てみないと本当のところは分からない。私も、初日と最終日、そして二日目のゲネプロ、また三日目はテキストだけと、全公演を見たわけではないが、エピソードごとに雰囲気も長さも、主題も厚みもかなり違うと感じた。だから、断片的な観察からの結論にならざるを得ないが、一部かなり過激なイメージも展開されており、それが何を物語るのか不可解なものもあった。とりわけ、最初の「父の死と夜ノ森」(松田正隆)は異様である。
まず場面はいわきの病院で始まる。優子の夫の父政吉が倒れ、家族が見舞いにやって来ている。優子は東京から駆けつけた。富岡町に住む原発作業員宇津木も別の患者を見舞いにやって来ている。そこに偶然の出会いがある。政吉は翌朝、急死、葬式の準備が進む。その原発作業員は数日後、仕事を休み、駅前で見かけた女子高生をつけ狙い、車で轢いた後、宿舎に連れ込む(動機不明)。意識が戻って怯える高校生をバットで殴り殺し、石油を撒いて、宿舎に火をつける(行動の合理性疑問)。しばらく近所の人や同僚たちと炎が燃え上がるのを見たあと、警察の手を払いそこから逃走する(簡単に逃げられるのが不可解)。近所の民家に入っていく。それが偶然、優子の父の友人野田平良宅であった。警察が来るが友人の妻真澄は宇津木を匿う(理由不明)。平良は体の具合を理由に葬儀参列を嫌がっている。真澄は一人で参列。なぜか宇津木は歩けない平良を葬儀の場に連れていく。だが、宇津木の会社で不正が発覚、職員と宇津木が逮捕されるという。職員は逃亡しないで捕まる覚悟だという。宇津木は夜の森へ逃げる(無駄な行動のはず)。避難地区で立ち入り禁止なので警察は追ってこないというわけである(ありえない)。
Photo: Masanobu Nishino
台本によると、宇津木は逃亡前に野田夫妻を殺害している。さらに殺された女子高生はるみとその失踪直前まで一緒にいたすみれはマスコミの取材を受けて次のように語っている。「…こんなこと言っても、取り上げてくれないかもしれないけど、はるみがこの世界からいなくなってよかったなって思います。はるみはいつも、どうやったら早く〈ここといまのこと〉が終わるのかばかりを考えていたから。(中略) …私は、起こってしまったことはもうどうしようもないことなので、この結果を受け止めて、この先なにが私たちのためになるかを真剣に考えたいんです。はるみという名前の一人の人間が死んだことなんて、なるべく早く忘れたほうがいいんです」
この戯曲に描かれたようなこのような事件にあたるものがいわき市や富岡町の周辺で実際にあったということを私は寡聞にして知らない。だが、動機もはっきりせず、行動の合理性もなく、それは実行され、それが犯罪だとしても、防ぐことはできず、あらたな犯罪が繰り返される。対策はずさんであり、事態はそのように進むことを許される(これらのことはすべて原発事故後の東電と日本政府の行動のメタファーともとれる)。そのような場所に身を置きながら、肯定と全否定とを同時に発したいと思ったすみれの言葉は心地よく響くだろうか。
Photo: Masanobu Nishino
津波で死んだ人を弔う友人たちの姿を私たちは浜辺で見かけることもあるだろう(三宅一平「福島の海辺」)。浜辺で漂流物を探して遠い遥か彼方の土地に思いを馳せる人もいるだろう。だが、あの巨大な生命体はなにを意味しているのだろうか(高橋知由「漂着地にて」)。会津の飯盛山には観光客も帰ってきてはいるだろう(島祟「草魚と亀」)。
「福島イコール原発事故のイメージを強化するのはやめろ」という開沼博の主張に応えるように、東浩紀は「福島の人々が、福島を原発事故のイメージで塗りつぶすのは暴力だと感じるのは当然である。そもそも福島県は広く、事故が起きた浜通り地域は同じ福島でも会津から100キロ近く離れている。福島県の多くの地域には、同じ福島でも原発事故の影響はほとんどない。開沼はまずその事実を啓蒙すべきだと考える。ぼくはその点で開沼と同意見である」と書いている。だが、それと同時に、福島がどのようにふつうであるのか、どのような意味ではふつうでないのか、その「ふつうであること」と「ふつうでないこと」の往還運動へと参画しなければならない、その往還運動こそが、ダークツーリズムの要である、と書き、『福島第一原発観光地化計画』の意図を説明したのであった。
9月22日から三日間、昼と夜、私はポレポレ東中野の「福島映像祭」に通い詰めた。原発事故で故郷を追われた人は、いま何を思いどのように暮らしているのか。上映とトークセッションでドキュメンタリー的な事実とされるものが次々に提示されていった。放射能に汚染されたにもかかわらず避難区域に指定されなかった福島市、そこから自主避難した人と市内に残った人たち、その後帰還した人たちのいまがどうなっているのか、たとえば阿部周一の『たゆたいながら』は、福島市に残った母親の身の回りで起きていることに衝撃を受けつつカメラを回していった。住宅保証を受けた人と受けていない人の気まずい関係、多くの人たちが分断について記録し、語っていた。分断された共同体はどのように再生されうるのか、和解の試みが映し出される、ドキュメンタリー・フィルム。そして、11月24日、ザムザ阿佐ヶ谷で劇団ユニット・ラビッツ×しらかわ演技塾の公演『@オキュパイド フクシマ 占領下のフクシマで〜僕たちの震災時間〜』(佐藤茂紀作・演出)を見た。福島の人たちで上演されたこの劇のチラシには「東京人の知らない真実がここにある」と書かれていた。宇宙人に占領されたフクシマという荒唐無稽な設定の中で、植民地の統治構造の中で何が起こっているかが知らされ、除染のユートピアの破綻のなかから絶叫が鳴り響いてくるという劇の構造は、開沼博たちとはちがった主張をしようとしている人たちが福島にはいるということを知らせていた。
かつて『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(演出:松田正隆)の制作過程で、参加したパフォーマーたちはハプチョンの人たちから出る言葉に対応できなかった。出来事の重さを前にしてたじろぐしかなかった。上演は暗礁に乗り上げた。だが、そのたじろぎを表現することに思い至ったとき、作品は、不可知に思われたハプチョンの体験へとわれわれを誘いはじめた。いま、『福島を上演する』で、日常と日常に偽装された現実を描きながら、マレビトの会はわれわれをどのような場所に誘おうとしているのだろうか。
鴻 英良
(演劇批評家)1948年生まれ。専門はロシア芸術思想。ウォーカー・アート・センター・グローバル委員、国際演劇祭ラオコオン芸術監督、京都造形芸術大学舞台芸術研究センター副所長を歴任。『シアターアーツ』『舞台芸術』など数々の演劇雑誌の編集長も務めた。著書に『二十世紀劇場ー歴史としての芸術と世界』(朝日新聞社、1998)など