【レビュー 】ドキュントメント『Changes』(夏目深雪)
あなたは世界である
山本卓卓の『Changes』はとりあえずドキュメンタリー映画であると言っていいだろう。一人の俳優に焦点を当て、生い立ちから掘り下げて作品化する山本のソロプロジェクト「ドキュントメント」の最新作である本作は、80分程度の映像作品であり、かつて山本の主宰する劇団「範宙遊泳」でも役者をやっていた田中美希恵というふくよかな女優が痩せていくことを(一応)主題としている。「ドキュントメント」というのは、山本の造語で、「ドキュメント」(記録)と、「DQN(ドキュン)」という痛い人を指すネットスラングを掛け合わせたそうだ。
「とりあえず」「程度」「一応」などと保留の言葉が多いのは、この作品がいわゆる「ドキュメンタリー」からも表向きの主題からも、逸脱している点が多いからである。上映分数については、試写や上映の度にその映像が付け足されていくそうで、80分程度というのはあくまで私が観た試写での回での上映分数に過ぎない。逸脱している点がこの作品の美点なのでそれを論じることになるだろうが、その前に山本のジャンルを超えた今までの活動を振り返ってみよう。それらは確かにどこかで繋がっているだろうから。
範宙遊泳といえば、『幼女X』や『さよなら日本 瞑想のまま眠りたい』などでスクリーンに映像や文字を字幕のように投影して劇作に組み込む手法が有名である。映画字幕は映画研究者マーク・ノーネスが指摘する(※1)ように、一般に思われているほど無機的なものではない。喋り言葉のみで映画を観るのと、画面の下に現れる文字とともに観るのとでは、明らかに鑑賞体験として違いがあり、特にその言語の特質によって独特の画の美学を作り上げているとノーネスは指摘する。映画好きだった山本は、当時演劇作品を作るにおいて会話劇に限界を感じ、「会話と文字、その両方を使って演劇のカテゴリーを飛び越えていくようなことを意識してやりました。その方が表現は広がると思った」(※2)という。映画と演劇という近接ジャンルを融合し、特にそれぞれの言語の扱いに一石を投じるような試みになっているところが面白い。
山本はミヒャエル・ハネケに影響を受けているという。ハネケは集団自殺や監禁殺人や連続テロなどカタストロフィを、特に作家の考えを付加せずにそのまま観客に投げ出すような作家だ。ハネケの『ファニー・ゲーム』には犯人が監禁した夫婦をいたぶる前に観客にウィンクするようなメタ的な演出や、妻が犯人の一人を銃で撃つと、ビデオのリモコンでそのシーンの前まで巻き戻し、妻から銃を奪うといった、映画という枠組み自体をおちょくるような仕掛けがある。山本自身は「ハネケがやっているのをそのまま真似てという気にはなれなくて。そんなに反映されていないとは思います。別物ですね」(※3)と語っているが、『幼女X』だけではなく、ドキュントメント『となり街の知らない踊り子』ではテロを扱い、連続殺人やテロを劇のドラマトゥルギーにおいて消化させないという姿勢は、共通するものがあると思う。だからこそ観客は「異物を喉に押し込まれる」ように感じるのだ。演劇や映画自体の枠組みを解体させようという欲望も同じベクトルのものがあるのではないか。
一昨年のフェスティバル/トーキョーでも上演されたドキュントメント『となり街の知らない踊り子』は、山本がダンサー北尾亘と組んで「演劇とダンスのあいのこを目指した」という近作だが、一人芝居というよりはダンス+スーパーインポーズで演劇というジャンルを拡張したような素晴らしい作品であった。『幼女X』や『さよなら日本 瞑想のまま眠りたい』の時は手法の方が目立っていたように思えたスーパーインポーズが、一人芝居のためか、続いた海外公演のため言葉が研ぎ澄まされたのか、現代性と詩情という相反するものを兼ね備え、一人の登場人物のような存在感をもってこちらに迫ってきて唸らされた。だが主役はあくまで一人何役をもこなす北尾の身体そして身体表現なのである。
そしてドキュントメント『Changes』である。この作品は基本的に山本が田中にインタビューしたり、ダイエットの過程を追ったりする中に、再現ドラマなどが挟まれるという構成になっている。初盤に田中がオーディションを受けた時の再現ドラマがあり、それは再現ドラマと分かるよう明示される。他のほっそりとした3人は歌を歌わせられたり色々と質問されたりしたのに、田中には何も要望や質問がなかったことが示され、「ふくよかな」田中が世間からどのように扱われるのかを順に提示していくのだろうと観客に予想させる。
この作品では田中と同じくらい山本が画面に出てきて、中盤に出てくる山本がスタイリストに「制服」への疑義を語るシーンなど、山本自身の考えも非常によく分かるようになっている。つまり人々がいかに人の「見た目」に振り回されているかということだ。
終盤のドキュメンタリーなのかやらせなのか判然としないシーンがこの作品の肝であろう。田中が公園でジョギングしているところ、三人の若い男性が田中に絡み始める。「撮影中だからやめてくれ」と山本が割って入ると三人は「だって(田中が)本当に可愛いと思った」などと反論し、山本が「彼女はよく酔っ払いに絡まれる」と食い下がり、最終的には小競り合いになる。ドキュメンタリーが映像作品である以上、フィクション性が皆無ではあり得ないことは、森達也らによって論証されている。例えばテレビ報道において「やらせ」は批判の対象になるだろうが、映画のドキュメンタリーで「やらせ」に近いシーンがあったとしても作家は特に糾弾されないのが今の常識であろう。
この終盤のシーンはあまりにても出来過ぎていて、観客に「やらせでは」という疑義を抱かせる。問題は「やらせ」であることではなく、そのことの明示がないことで、居心地の悪さが残る。そもそも再現ドラマを再現ドラマと分かるように提示すること自体、ワイドショーならともかくドキュメンタリー映画ではほとんど見かけない。表現として安易なものだと見なされているからである。
つまり、「事実を記録する」ドキュメンタリーとしては、山本が画面に登場し過ぎだし、仕掛けすぎだし、再現ドラマがあったりそれっぽいのに明示されなかったりと映像および映像リテラシーのレベルが一定に保たれない。しかしテーマこそ(あくまで連続幼女強姦やテロに較べたらという話だが)おとなしいものの、だからなのか、山本のこの映画内でのアグレッシブさは日本のドキュメンタリー作家、原一男や森達也を凌ぐもので、(突撃というほどでもないのだが)その胡散臭さと胆力含めむしろマイケル・ムーアの突撃スタイルを想起させる。外面的なジャンルとしては明らかに映画なのだが、内面的なスタイルとして演劇的なものを多分に含んでいるのである。ハネケ的な映画や演劇という枠組みの解体というよりは、演劇や映画、そしてダンスといった隣接するジャンルのものを掛け合わせ、オリジナルな今までにないものを提示するというのが山本の持つ欲望なのだろう。
日本のドキュメンタリストたちのように、日本を揺るがせたテロ事件を起こした新興宗教の幹部の実像を追うことも、公害による疾患に苦しむ患者たちの闘いを記録することももちろん重要だろう。だが、一人のふくよかな女性がいかに世間に冷淡に扱われているのかを、われわれの持つ無意識の悪意や差別心を、観客を安住させることなく突きつけることが、果たしてどれだけの作家にできるだろう。
この作品は複数のフィクションを内包したようなドキュメンタリーであると言えるだろう。ドキュメンタリーもフィクションもある一つの道筋にならずに枝分かれし、お互いが浸食し作用し合い、結果「映画としての」明確な解にならない。その代わりに観客が得るものは、現代を生きる自身の実感を伴った「ある手触り」――たとえ明確なものでなくても「自分なりの解」である。
「ドキュントメント」シリーズで、あくまで一人の人間に向き合ったことは山本にとって必要でとても重要なことだったのだろう。一人の人間のなかの広大さ。そこから全てが生まれる。他人は自分であり、あなたは私である。つまり、あなたこそが世界である。北尾の一人芝居はそんな哲学を内包していたはずだ。世界とあなたと私の三角関係の豊かさを見つめ直すこと。山本が自分の肥沃な土地を耕し、カタストロフィからではなく小さな違和から――「事実を記録する」のではなく、「フィクションを生成する」ような――この作品を作り上げたことを心から祝福する。そして観客(あなた)もそれに参加するのだ。さあ、出掛けよう。
※1)第15回アジア映画研究会(2015年8月27日)の発表にて
※2)国際交流基金サイトアーティストインタビューより
http://www.performingarts.jp/J/art_interview/1501/1.html
※3)名古屋演劇アーカイブインタビューよりhttp://nagoyatrouper.com/interview/045/
夏目深雪
批評家、編集者。映画や演劇について批評したり、インタビューしたりしている。2011年 F/T劇評コンペ優秀賞受賞。キネマ旬報や映画パンフなどに寄稿。アプリ版ぴあで水先案内人として映画紹介中。共編書に「アピチャッポン・ウィーラセタクン 光と記憶のアーティスト」(フィルムアート社)、「国境を超える現代ヨーロッパ映画250 移民・辺境・マイノリティ」(河出書房新社)、「インド映画完全ガイド」(世界文化社)ほか多数。