トーク 「舞台芸術はアーカイブ イントロ 「なぜ残す? なぜ蘇る?」
アーカイビングF/T オンライン連続トーク
「舞台芸術はアーカイブ:消えるものの残し方と活かし方」
イントロ 「なぜ残す? なぜ蘇る?」
長島 確・中島那奈子
長島 このトークイベントは「フェスティバル / トーキョー(F/T)」が主催しています。F/Tの名前でのフェスティバルは2020年で終了しており、昨年の2021年度から「アーカイビングF/T」というプロジェクトでやっています。今日のトークもその一環で、5時間越えという無茶な企画です。
まず2人の進行役を紹介します。私、長島確はF/Tの2018~20年のディレクターを務めていました。今は、F/Tが統合された「東京芸術祭」で全体の副総合ディレクターをしています。もう一人の進行役の中島那奈子さんは、ダンスのドラマトゥルク、ダンス研究者としてドイツ、日本、他あちこちでご活躍です。中島さん、よろしくお願いします。
中島 よろしくお願いします。
長島 今日は1時間きざみで4つテーマをもうけ、それぞれゲストをお迎えし、僕と中島さんでお話を伺っていきます。長い時間ですし、面白くて頭をものすごく使うと思うので、リラックスしてトークできればいいなと思っています。
また、LiveQというアプリで質問を随時受け付けていきます。他の方がどんな質問をされているかも見えたり、さらに「いいね」を押すと質問の優先度が上がる仕組みもあります。
始める前に一言だけ……今この瞬間、ウクライナでロシアの進行が進んでいて、心を痛めています。皆さんもぜひ関心を持ってニュースを追いかけていただけると嬉しいです。
それではイントロダクション「なぜ残す、なぜ蘇る」をお送りします。最初にまとめてこの企画の説明と、広くアーカイブや舞台芸術についてトピックを並べ、その後に那奈子さんとフリーにお話していきます。簡単に整理できたり結論が出るような話ではないですが、まさに今、この話題についていろんな形や立場で考えていくことがこの先に繋がっていくという状況の真っ只中の話題だと思います。
それでは企画の経緯から話します。この企画は「アーカイビングF/T」というプロジェクトの一環です。F/Tは舞台芸術のフェスティバルとして、2009~20年までに13回、基本的に毎年秋に開催してきました。さらに遡るとF/Tという名前になる前、古くは80年代終盤から豊島区池袋を拠点に何度か名前を変えながら続いてきています。2009年にオリンピック招致の運動を始めるにあたり、東京都の文化事業を拡充させていこうという流れのなかで、「フェスティバルトーキョー(F/T)」(※以下、F/T)という名前になりました。そして2021年にひとつの節目として、2016年からスタートした「東京芸術祭」に全面的に統合し、その中の『FTレーベル』という枠として存続しています。
この「アーカイビングF/T」というプロジェクトは、F/Tの名前で実施した13回が、さまざまな出会いの結節点となっていたので、その記録をできる範囲で残してみようと企画されました。F/Tには多くのアーティストが関わり、たくさんの観客をお迎えし、いろんなジャンルの専門家やその他いろんな出会いがあり、プログラムや作品やその他イベント、いろんなものをたくさんおこない、その都度いろんな出会いがありました。フェスティバルも上演作品も残らないといえば残らないものなので、放っておくとすべて消えてしまう。するとなにか困ることになったり、あるいは残しておけば役に立つ情報があるのではないかと考えて、F/Tが終わった後の一年をかけてできる範囲で残せるものを残してみようと、このプロジェクトを進めてきています。
長島 2021年夏頃からすでに進めてきた企画がありますので、Webページをご覧になってください。たとえば、過去の作品から映像で公開できる10作品を、秋にかけて配信しました。また、歴代のディレクターや関わりの深かった方からF/Tをめぐる言葉をもらう枠が今も進行中です。データベースも作るなど、2022年3月までかけて取り組んできています。
そのなかで今日は、いろんな方をお招きして、主に舞台芸術とアーカイブに関してトークをします。F/Tを振り返って懐かしむよりは、広くこれからに繋がっていくような、映像や記録や舞台芸術に関する話をいろいろな方から聞かせていただき、さらに広げていく、または散らかしていく機会になればと企画しました。
舞台芸術と他ジャンルにおける「アーカイブ」の違い
長島 先に僕からいくつか舞台芸術とアーカイブに関してお話します。そもそも舞台芸術は消えることが前提のジャンルだと思います。その場で作らないと出現しないし、やる端から消えていく。ほぼ"出来事"でできています。乱暴な言い方をしてしまいますが、アートを大雑把に二分すると、出来事を起こす「出来事系(コト)」と、ものづくりをする「物体系(モノ)」に分けられます。パフォーミングアーツは完全に「出来事系」ですね。起こった後に、跡形も残らない、とまで言うと言い過ぎかもしれないけど、片端から消えていく。そこについては作り手の自覚も含めて大事かつ面白いポイントだなと思います。作り手は消えること前提で作っているし、残そうとなんて思わずに作っているかもしれない。人によっては「むしろ残らないのが良い」という考えがあるジャンルです。その良さがある一方で、ワンチャンスを見逃すともう見られないというような不便さがある。ではどう残すか?と考えると、近年はいろんなチャレンジがある。
近いジャンルを見てみると、音楽も「出来事系」のはずですが、録音技術と再生技術が普及して手軽になっているし、そもそも録音前提で作ることがずいぶん発達しています。舞台芸術と比べるとアクセシビリティに差がついている。とはいえ舞台芸術にそれができないのは、良くも悪くも特性であり個性なのでしょう。
また、美術の場合にも「物体系」だけでなく「出来事系」もありますよね。展覧会では、展示されている絵や彫刻は物体だけれど、展示や展覧会そのものは出来事だとも言えます。でも、消えるに任せず、立派な図録を残したりする。舞台芸術とは消え去ることについての考えが違うんだろうなと思います。また、美術に属する「パフォーマンスアート」と、劇場を軸とした舞台芸術を指す「パフォーミングアーツ」ではかなり考え方が違う。その上でいま、美術では「出来事系」をどうやって美術館に収蔵や展示しようかというチャレンジがものすごく起こっている状況だと思います。
一方で、劇場は美術館と対になるような考え方ができるのでしょうか。面白いしややこしいですね。パフォーミングアーツは絵画のように保管ができず、消えていくので保存もできず、したがって所有もできず、人に譲ることもできない。それをどうやって後に残したり、時差を越えて伝えたりするかについては、大変な試行錯誤が必要です。ギャラリストの後々田寿徳さんが10年ほど前に書いた『美術(展示)と音楽(公演)のあいだ』という短いテキストがすごく印象的で……音楽ライブやパフォーマンスの人達は来てくれる目の前のお客さんに向けて上演・演奏をしていて、それを残すことはまた別の作業になる。それに比べると、絵を描くことは最初からアーカイブを作っているようなことだ……と書いてらして。それを読んですごく不思議な気持ちになりました。確かにそうなんですよね。絵画はそれ自体がアーカイブで、保存や保管がきいて、譲渡したり所有したりできる。それに比べるとパフォーミングアーツは、その場に立ち会って作る端から受け取ってもらうと同時に消えていく。それを記録・保存するっていったいどういうことなんだろうと考え始めると、かなりややこしい。
一方で、古典作品は消えているかというとそんなことはない。古代ギリシャの劇や、シェイクスピアや、歌舞伎が今でも上演されている。それはアーカイブとは違うんだろうか……。舞台芸術に過去が全然ないわけでも、今しかないわけでもない。
さらにパンデミックの状況が始まってからのこの2年、とくに「出来事系」は人が集まることに制限が強くかかり、その場でナマで見てもらう以外の形で届けられないかということの試行錯誤がすごく活発になりました。ヨーロッパなど海外では、各劇場が持っていた未公開の映像アーカイブを公開したりもしました。「出来事系」は消えてしまうものではあるけれども、なんらかの形で残っていたり、ナマじゃない形で伝わりうるんですね。
東京芸術祭関連でも『ファンタスティック・サイト』という、本来であればオリンピック前の2020年春にやるはずだったプログラムが結局2021年になり、 そのなかでF/Tの共同ディレクターだった僕と河合千佳がディレクションしてフィルム & パフォーマンス 《Undercurrents》というタイトルで映像配信のプログラムをやりました。この3月までオンラインで一般公開されています(※終了)。これはコロナ禍の境目で、舞踏とサイト・スペシフィックなパフォーマンスをどういうふうに届けられるかを考えて企画したプログラムでもあります。ほかに東京芸術祭でもずいぶん配信をおこなったりと、本当にいろんなことを考えさせられた2年間でした。しかし未だ正解のようなものがよくわからない状況ですから、今日は中島那奈子さんやゲストの方といろんな角度から話ができればと思っています。さて、いろいろと散らかしてしまいましたが、那奈子さん、よろしくお願いします。
中島 タイトルの「舞台芸術はアーカイブ」にポイントがあるといいなと思って聞いていました。"舞台芸術をアーカイブする"ということと、"舞台芸術そのものがアーカイブであってしまうぞ"という思いを込めています。先ほどお話しされていた舞台芸術と美術の違いについての例をご紹介すると、ダンス作品を美術館で見せるという動きがここ10年で非常に顕著に出てきています。経緯としては、コロナ禍に入る前、パフォーマンスアートの誕生に影響を受けたダンスの人たちがいたのだと思います。
私自身は5~6年前から美術館でダンスをどう見せるかに関わっていて、その一つが京都の芸術劇場の春秋座で劇場を使ってダンスを展示する試みをしました。また、美術の分野ではカタログがあるということも羨ましいです。ダンスにはなぜカタログがないんだろう。演劇には戯曲があって販売できるけれどダンスには当日パンフレットしかない。舞踊の記譜を売ることはできるかもしれないと思いますし、最近はカタログを作る振付家の方もいます。
もう一つ、舞台芸術には歴史や過去があるという話について。"アーカイブ"という言葉はいろんな意味で使われるから、いろんな方向に話が振れる可能性がありますよね。だから面白いのですが、今日のトークのなかで整理ができたらいいなと思っています。もともと"アーカイブ"という言葉は公的な文書を保存する倉庫を指していたのが、今は意味が広がってきたという経緯があります。 あと、新しく映像や写真などのメディアができたことでアーカイブの考え方がガラッと変わりました。やはりメディアの誕生によって私達の知覚はどんどん変えられていってしまう。形が留まるとか保てるという感覚は、たぶん記録映像が出てきてからで、それ以前はそういう感覚ではなかったと思います。記録映像については、変化や、そのままの形でアーカイブされることや、記録などと繋がってくるんじゃないかと思うので、今日は記録映像を作られている須藤さんに話を伺うのを楽しみにしています。
長島 那奈子さんの話を聞いて思い出しましたが、アーカイブという言葉自体が今ちょっと気軽に使われるようになっている一方で、10年くらい前に、当時東京アートポイント計画のディレクターで、その前は水戸芸術館の立ち上げから関わった森司さんに「なんで演劇のカタログを作らないの? なんで演劇は残さないの?」と言われたんです。美術でも展覧会は消えてしまうからちゃんと図録やカタログを作るのに、演劇は何やってんの?とさらっと聞かれて、「え」と。僕は考えたこともなかったので「じゃあ残さなきゃ」とか「残せたら面白いのかな」と考えるようになりました。たぶん美術の側からすると"アーカイブ"という言葉の定義や考え方が違うんでしょうね。少なくとも僕は演劇の側からはわかってなかった。美術の方は、ぜんぶ残すんですよ。クリエーション中のいろんなメモや資料など、とにかく片端から残す。芸術祭に参加していただいた美術系のアーティストでも、全員ではないかもしれないけれど残す意識が強かった。途中で作ったものやスケッチなど、徹底的に残す気で。すこし話が飛びますが、藤浩志さんという美術家でダムタイプの前身に関わっていらした方が、京都での学生時代に鴨川で鯉のぼりを水の中に流して警察だか消防に始末書を書かされたっていう伝説的なエピソードがあるんだけど、その時の始末書の現物がちゃんととってあったりする。
中島 (笑)
長島 美術家すごいな!ってそれを見た時に思ったんですよね。さらにアーカイブというのは、そういったことの全部を残してリスト化・インデックス化して参照できるようにするようなことなので、ただ取っておくだけはアーカイブじゃないというような感覚まで、もしかしたら美術の側にはある。だから本当は、アーカイブが何を意味しているのかから話すと広がる話なんだろうなとも思います。
中島 ダンス出身の美術家のティノ・セーガルさんは美術館ベースでダンサーが携わる作品を見せるんですけれども、彼は逆に記録を残さないことに命をかけていて、契約書もすべて口頭で美術館と交わすそうなんです。もちろんカタログもないし、あっても写真は載せない。そちらの方向にコンセプトを持っていく方はいますね。そこは美術のコンテキストと舞台芸術の違いもあるかなと思います。
古典における継承と、コンテンポラリーにおけるアーカイブ
長島 那奈子さんはダンスの研究者としてアーカイブを見る時と、ドラマトゥルクとしてクリエイションについて残すとか残さないとか残したくないとか内側から考える時と、二つの立場によって違いはあるんですか?
中島 自分で意識してはいないつもりです。ドラマトゥルクの時には他のことを考えないようにして、現場で目にするものに集中するようにしているという違いはありますが……。ただひとつ言えるのは、研究者の時は、テーマにしている「老いと踊り」の視点でいろんなものを観てしまっています。最近の傾向としては、そこに"アーカイブ"というテーマが繋がってきています。まず「"老い"はひとつのアーカイブの形だ」と言うこともできます。 また日本の舞台芸術の中で、お能であれば200曲、日本舞踊であれば100曲以上のレパートリーを踊る、もしくはアンコール上演しています。記録映像を残すということとは別に、継承されていく歴史がある。そこに、老いていくことと、継承することの繋がりがあると考えています。それがコンテンポラリーという分野になるとアーカイブすることに繋がっていき、「アーカイブすることが残すことだ」「アーカイブすることが作品を継承し、もしくは次の世代に伝えていくことなんだ」と考えることに気づきました。つまり、アーカイブとは時代の形をそのまま残すものだと考えました。
長島 ありがとうございます。 聞いていてすごく面白いと同時に、脳みそに負荷がかかっています……。継承やレパートリーがあることはとてもよくわかる一方で、それがコンテンポラリーの分野だとアーカイブの問題になっていくという、この二つのことが類縁関係になることについては、わかるけれどもちょっと混乱していて不思議な感じがします……。
中島 私もそれは解明できていないんです。まだ予想をつけている段階ですね。 ただ、隣り合わせのようなものなんじゃないかと肌感として持っている感じです。
「即身仏」はアーカイブ
長島 それで言うと、2005年にベルリナー・アンサンブルの『アルトゥロ・ウイの興隆』が東京で上演された時、ハイナー・ミュラーの演出がベースになっていたと記憶しています。その時はもうハイナー・ミュラーは亡くなっていたので「ずっとこの演出が続いているって伝統芸能みたいだな」と思ったんですよね。何十年か前の舞台を映像で見ることはあると思うけれど、一方でもう演出家はいないけれども舞台が上演されることもあるのは、変な平衡関係だなと思います。
中島 それは、過去のある一地点にある作品の在り方を設定して、上演再生するということですよね。時間の感覚や歴史の考え方と繋がっているんじゃないかなとも思います。あらためて新しい解釈をすることも可能だけど、当時の演出そのままにやるという選択をしている。それは今の時点でその一点の過去をもう一度現実化するということで、現在と過去を結びつけることなんだと思うんです。
私は今回のトークの裏テーマは「即身仏」だと考えています。舞台のアーカイブって、過去が現在にどう立ち上がっていくのかという話になっていく。とくに「立ち上げられない過去」の典型は人間の体だと思いますが、その意味でダンスは身体を必ず扱うのですごく大変です。かつての身体を立ち上げるのは難しい。それなのに、過去の身体が目の前にあってしまうということがつまり「即身仏」なんです。ゾンビもそうかもしれない……というのが裏テーマです(笑)
長島 そうそう。打ち合わせの時に那奈子さんが「即身仏ってアーカイブだ」と言い始めて、やっぱり脳に負荷がかかりました(笑)。確かに身体の保存ですよね。「出来事系」の作品がなぜ残せないかというと、それを実践する身体が消えていっちゃうあるいは老いていっちゃうことが理由のひとつかもしれない。身体そのものが作品というわけではないけれど、でももしそうなんだとしたら、身体はナマモノすぎて保存がきかないので、未来に残るとしたらどういうことだろうか……ということを考えて、このイントロダクションのテーマに「蘇る」という言葉が入ってるんですよね。
中島 そうなんです(笑)
長島 うまく言えないけれど、即身仏とアーカイブに繋がりがあることはわかる気がします。アーカイブというテーマで話すと、理論的なアプローチだけでなく、そもそもの定義についても考えなければいけない。なおかつ掘り下げていくと自ずと「舞台芸術って? パフォーミングアーツって? 演劇って? ダンスって?」という疑問に行き着くでしょう。さきほど那奈子さんが言っていて面白かった「演劇は戯曲があるけど、ダンスはない」ということについても、確かにそうだけど、戯曲が演劇のアーカイブなのかというと難しい。クラシック音楽のスコアも同じ。そうやって作品本体のあり方についても考えなければいけない。
一方で、実際的な問題としても考えることがすごくある。というのも、コロナ禍の2年でこれだけ配信や映像で残すことが必要に迫られ、おかげで可能性が見えてきた。さっき那奈子さんがおっしゃっていた「映像が出てきてから、アーカイブや記録や保存という考え方がでてきた」というのは、言われてみれば確かにそうで、けっこう新しいことなのかもしれない。そうなると実際面で「どう残すのか」「どう記録するのか」「どう保存・保管するのか」ということについて、作り手側や、劇場のような組織や建物にとっても必要なことがいっぱいある気がしました。
中島 補足すると、アーカイブをどう活用するか、どう使うか、どう蘇らせるかという方向性については、今日のトーク後半のプログラムでより多く出てくると考えています。最近は、アーカイブが後世の人にどう影響を与えうるかを反映させてアーカイブを作る、という方向に動いているようなんです。ただ結局は「どう残すか」と「どう使うか」とは、本当は同じことだと私は感じています。今日はそんなこともクリエイティブに考えていけるといいなと思っています。
長島 そうですね。トーク5時間はかなり長いし、ちょっとした飛行機旅行くらいの時間だなと思っていたのですが、きっとあっという間ですね。今日はいろんな問題の入口をいくつも垣間見るだけで精一杯かもしれませんが、引き続きよろしくお願いします。
長島確
専門はパフォーミングアーツにおけるドラマツルギー。大学院在学中、サミュエル・ベケットの後期散文作品を研究・翻訳するかたわら、字幕オペレーター、上演台本の翻訳者として演劇の現場に関わり始める。その後、日本におけるドラマトゥルクの草分けとして、演劇、ダンス、オペラからアートプロジェクトまでさまざまな集団創作の場に参加。フェスティバル/トーキョーでは2018〜2020年、共同ディレクターの河合千佳と2人体制でディレクターを務める。現在東京芸術祭副総合ディレクター。
中島那奈子
老いと踊りの研究と創作を支えるドラマトゥルクとして国内外で活躍。プロジェクトに「イヴォンヌ・レイナーを巡るパフォーマティヴ・エクシビジョン」(京都芸術劇場春秋座2017)、レクチャーパフォーマンス「能からTrio Aへ」(名古屋能楽堂2021)。2019/20年ベルリン自由大学ヴァレスカ・ゲルト記念招聘教授。編著に『老いと踊り』、近年ダンスドラマトゥルギーのサイト(http://www.dancedramaturgy.org)を開設。2017年アメリカドラマトゥルク協会エリオットヘイズ賞特別賞。
アーカイビングF/T オンライン連続トーク
「舞台芸術はアーカイブ:消えるものの残し方と活かし方」
日程 |
ライブ配信:2022年3月5日(土)14:00-19:15 <配信は終了しました> |
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アーカイビングF/T
フェスティバル/トーキョー(F/T)は、2009年から2020年まで、13回にわたって開催されました。舞台芸術を中心に、上演・上映プログラム数204、関連イベントもあわせ、のべ77万人の観客と出会ってきました。これらの出来事を通じて、国内外にまたがる多くの人々や作品が交差し、さまざまな活動・交流の膨大な結節点が生み出されました。 上演作品やイベントは、「もの」として保存ができません。参加者や観客との間で起こった「こと」は、その場かぎりで消えていきます。しかしそのつど、ほんのわずかに世界を変えます。その変化はつながって、あるいは枝分かれして、あちこちに種子を運び、芽ばえていきます。 F/Tは何を育んできたのでしょうか。過去の記録が未来の変化の種子や養分になることを願い、13回の開催に含まれる情報を保存し、Webサイトを中心にF/Tのアーカイブ化を行います。情報や記事を検索できるデータベースを作成し、その過程で過去の上演映像セレクションの期間限定公開や、シンポジウムを開催します。