フェスティバル/トーキョー17で、新作『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』を、東京芸術劇場シアターイースト・シアターウェストという隣り合った劇場で同時に上演する柴幸男。彼は人・コンピュータ・自然をコントロールしながら唯一無二の演劇をつくり続けている。そんな柴と、技術と芸術の両方を自在に行き来し、まさに「現代の魔法使い」の異名にふさわしい活躍を続けている研究者・メディアアーティスト落合陽一氏との邂逅は、ジャンルを跳び越えて人類の革命的進化に結びつきうる、濃密なものだった。

(聞き手・文:落 雅季子 撮影:岩橋 仁子)

 

劇場演劇とブロードキャスト

 落合さんは、演劇をご覧になったことはありますか?

落合 実は大学生の頃から、寺山修司が好きなんです。自分が携わるメディアアートというものを考える上で、寺山修司の天井桟敷、Dumb Typeには興味を持っていました。

柴  彼らに続く系譜、いわゆる小劇場演劇を僕はずっとやってきています。定義で言うと、客席数400くらいを上限とした劇場での演劇ですね。全国各地でワークショップをやらせていただいたり、瀬戸内国際芸術祭などで劇場外での演劇創作もおこなっています。今回、久しぶりに東京で演劇をつくるのですが、今作では劇場をふたつ使って同時にひとつの作品を上演します。

 

落合 なるほど、面白い!

柴  野外で演劇をつくっていた時の感覚を、劇場演劇に取り入れようと思ってまして。演劇は目の前で演じられるものに集中させるライブ性が強みだと言われていますし、観客は、観ている間はすべてを忘却してしまいます。物語上、他者や遠いことを想像させることはできますが、隣り合っている劇場で何がおこなわれているのかを想像しながら、目の前の演劇を観ることができないかなと思っています。「あちらの劇場で起きていることを同時に観ることはできない」という体験を、作品内に取り入れています。

落合 昔、天井桟敷の『観客席』という演目を観たことがあって、それは劇中で突然隣の人が炊飯器からごはんをよそって食べ始めたりする作品だったんです。誰が観客で誰が演じているのか、どこまでが舞台なのかごちゃごちゃになる感覚は今も印象に残っています。そこから演劇がなぜ、スクリーン的な二次元のエンターテイメントに発展していったのか? ということは考えるに値しますよね。現在、ミュージシャンのライブ演出でのプロジェクションマッピングなどでも、アーティストの身体性がほぼ消滅してスクリーン上の平面になることがあります。大規模に人を動員するほど、観客は声援を送るただのLEDの粒になる。現代芸術が抱えるブロードキャスト性の問題で、全員とコミュニケーションを取ろうとするがゆえに「個人の特徴」が失われる。そのあたりが、柴さんのおっしゃった小劇場という距離感ではどうなるのか、気になりました。ふたつの劇場で同時上演されることについて、作品は明示的なんですか?

  はい。冒頭からかなり、隣の劇場を観客に意識させるように仕掛けてあります。ただし、観客はどうしても目の前の俳優と空間に対してしか一体感を得られないんだとわかってきたので、常に「隣の空間で今何がおこなわれているでしょう?」ということを語りかけるようにつくっていますね。

落合 自分で演出していてこんがらがったりしませんか?

  全然大丈夫です。一言で言うと、演劇の創作って基本的に人間関係の調整なんですね。いろんなことを考えたりアイディアが湧いたり道筋をつけても、演劇的なアウトプットは他人である俳優やスタッフにやってもらわないといけない。劇作家がいて演出家がいてしかも俳優がいるのでどれだけ自分の中に面白いプランがあっても、他人と共有可能か、他人がそのとおり動くかは別問題です。そうなってくるとふたつの劇場で上演することも、たとえば2か国語使って演劇つくるみたいな、ある種の特殊環境でしかない。空間がふたつあるという問題設定をいかに全員と共有するかということの方が大事です。

落合 演劇は、映画のようなフレーミングの芸術じゃないから切り取ったりできないですもんね。メソドロジーの整備というよりも、現場監督的な指示の出し方になるんですね。

  ある一瞬だけ切り取ってうまく行ったように見えても、再生が不能だと演劇では意味がなくなってしまう。だから、いかに現場の人間にうまく動いてもらえるかにかかります。演出家が率先して指示をしなければいけない場合もあるんですが、多数決だけで演劇を作るのも無理。作家の独断と、現場レベルでの調整の目線。この感覚は、だいぶ経験を積んでわかるようになりましたね。でもこれはただの経験値とか根性論の問題にすり替わってしまいがちので、もっと明確にロジックやプロセスを言語化できないかと、今すごく考えています。

落合 根性論って、人間同士で簡単に共有できてしまうんですよね。根性論はリプレイ可能だけど、言葉によるメソドロジーは誰しもリプレイ可能なレベルでまだ共有されていないのかもしれません。

演劇は死者を再生させる「リプレイ」

柴  映画的にドラマを描いていくと、演劇という手法にはいろいろと限界があるので、演劇が描くべきドラマとは何かを考えていくとひとつの答えは「過去」のものを再生させること、わかりやすく言うと死者を登場させることにつながるんです。
僕は東日本大震災を経験して改めて、過去のものを甦らせたり、死者を誘い込んで再生させるのが演劇の重要なポイントだと考えるようになりました。能などに顕著ですけれど、死者が出てきて対話する作品が多くありますね。「演劇」はライブだと言われるけれど、実は「再生行為」なんですよね。常に過去のリプレイでしかない。本番は稽古のリプレイであり、毎ステージがリプレイである。だからライブというよりは、「現在」に過去のものを再生する行為が演劇なんじゃないでしょうか。

落合 ジャズライブのインプロヴィゼーションとは確かに違いますね。人の所作や形という、三次元構成のミーム(模倣子:人間の文化が社会的に伝達される際の情報)を、人間の身体性でどう描き出せるのか……。身体を失った死者を知るためには今のところ、レコードされた音を聞くか映像を観るかしかないですが、いずれも三次元での存在には肉薄しえないと考えると、人間が練習してリプレイすることに生と死は内包されますね。面白そうです。ちなみに僕は、震災での被害そのものよりも、堤防をつくる人間のメンタリティの方に興味があります。

  わかります。

落合 津波という自然現象が起こった後に、人間が偶像のようにつくり出す堤防。災害をコントロール可能だと思っていることが僕には不思議です。何でだろう? 原発の凍土壁もそうですよ。どうして凍らせてコントロールできると思ったのか……災害時の人間の対応ロジックって興味深いなと思います。

対話の中で、作品の向こう側に誰がいるのか想像するという、ふたりの共通点が見えてきた。SNSの発達により、アプリケーションを持つ人間がすべて同じフォーマット上で議論しあうようになってしまい、メディアの向こう側への想像力を失っているのではないか。今、想像力を鍛え直すことが人類の課題のひとつなのではないだろうか?

 

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Photo: Hideaki Hamada / Photo: Ivy Chen

『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』作・演出:柴 幸男

東京芸術劇場シアターイースト/シアターウエスト

劇への没入と全体批評性の喪失

落合 僕、人間はすでに映像的想像力を鍛えすぎてると思うんです。僕らが月に行ったわけじゃないのに、アポロの映像を観て月面着陸の瞬間を容易に理解できてしまうでしょう。1920年代から想像力を鍛えすぎて、昨今はCGも発達したために、実際には起きていないことを起こったと思える程度には、人間たちは架空の世界に没入可能になっている。「没入可能である」ということは批評性を失うことと同義です。自分がどこまで没入するかをユーザは選べないんですよ。だって、適度な距離感を持ってハリウッド作品を観るということはできないでしょう。「上から紐が出るわけないだろ!」って思いながら『スパイダーマン』観てもつまらない(笑)。没入しながらも客観性を保つには、高度な体力と受容能力が必要ですよね。

  僕の今つくっている『わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』で言うと、演じてる俳優自身が隣の劇場のことを忘れますよね。世界はここにしかないって思い込んじゃう。稽古場で、ふたつ同時に練習するのはうるさいんですけど、そうやらない限り、人間は目の前のことだけを全てだと思ってしまうんだと実際に創作してみて思いますね。
 ところで落合さんは、メディアとしての演劇は今後どうなっていくと思われますか。20世紀は映像の世紀で、これからは魔法の世紀とおっしゃっていますが。

落合 メディアとしての演劇というのは、僕も非常に興味を持って考えているところです。「アドルフ・ヒトラーは劇を演じていたのか」という問い立てが僕の中では、映像の歴史としての20世紀を決定づけたと思ってます。政治って半分劇みたいなものだと思うんです。演じられる劇としての現実があって、でもそれは記録映像でブロードキャストされた瞬間に、ヒトラーがやってるのは現実であると見なされてしまうから、劇として鑑賞不能になる。つまり、あれが劇であると批評を持って捉えられない枠組みにされる。その距離感が社会構造に取りいれられ、全体批評性をいったん失ったのが1920年代頭です。
 そこからもう一度、ブロードキャストされる全体メディアに対する批評性を取り戻すために生まれたのが、1960年代の実験芸術の潮流ではないでしょうか。あれらは、政治や社会が演劇として鑑賞不能にされてしまったことに対して、どうやって批評をすればいいか、フィルム性を持たない身体性の質感や多様な複雑性にどう回帰するかを考える手段だったのだと思います。

  僕は、小豆島とか横浜の海沿いのテラスで小さな作品をつくることを繰り返してきました。僕が体得してきた演劇づくりのレシピを解体して、自分がいなくても誰でも僕のメソッドで演劇つくれる世界をいわば目指してるんです。クラスにひとりは運動神経のいいやつがいるように、演劇神経のいいやつっていうのもいるはずなんです。僕のメソッドをもとに、世界中のみんなが演劇をつくる側の人間になったら面白い。

落合 メソドロジーとカルチャーがくっつくと新しいものが生み出されますね。でも、つくるのは大量複製品ではない。そうじゃないノウハウが集まった場所をつくりたいということでしょうか。それがいずれ伝統と呼ばれたりするようになるかもしれません。柴さんのそうした批評的観点は面白いですよね。メソッド的に演劇をつくるっていい話だな。演出家は、作家性に没入することと、そこから戻ってくる作業を繰り返す職業だと思うんですが、没入と浮揚している状態のどちらに自分が帰属しているのか自分で定義できなくなってきた頃が真骨頂なんでしょうね。

落合氏はアーティストでありデザイナーでありビジネスマンであり、研究者として生きている。柴氏もまた、劇場でのアーティストとしての顔と、地方での芸術祭、屋外での作品づくりで見せるデザイナー的な視点の両方を併せ持つ。アートとデザインは明確に切り離すべきか、という問いとともに、アートはデザインで解決できるか、逆にデザインをするためにはどんなアートが必要なのかを訊ねてみた。

 

「リサーチ」と「アート」と「デザイン」という三本柱

落合 僕は「リサーチ」と「アート」と「デザイン」という3つの軸を学生に教えます。リサーチは何かを発見すること、アートは何かを問いかけること、デザインはその問いを解決すること。しかし20世紀の後半から21世紀にかけて、リサーチで発見するつもりが何かを解決してしまったり、デザインで解決するつもりが何かを問いかけてしまったり、アートで問いかけるつもりが何かを発見してしまうことが起きるようになり、それぞれが分断不能になってきた。今の時代は、作品が問いかけと解決の両方の軸を備えていることに自覚的なのかどうかが問われると思っています。僕の思いついたアイディアが後世に残れば、いつか未来の誰かのためになりそうだと思う瞬間があって、そのアイディアを保存可能にしたいアート的な動機と、人類が普遍的に持っている何らかの問題をどう解決するかというデザイン的な思考の二種類が、僕の作品づくりにはあります。

  僕は、特に屋外で作品をつくる時は、アートと言うよりはツールとして演劇を使いますね。

落合 町の人々といかにコミュニケーションを取るかを考えていらっしゃるということですよね。

  本当は、小豆島の人が何と言おうと、これがアートだぜ! ドーン! ザワザワ……みたいなのがやりたかったんですけど、人々の顔色を伺ってしまいました(苦笑)。演劇の難しいところは、観客込みで作品性を持つところで、ある特定の人を対象にするだけでデザイン的になっちゃうし、アートを名乗るのであれば幅広い年代にリーチする世界観を持たなければと思うんですけど、特にある地域に深く関わってしまうと、僕はどうしてもデザイン的に考えてしまう。
 僕は劇場でアートだけをつくることが苦になって屋外に活動の幅をひろげたのですが、外でアートをつくりつづけるのも難しいことがわかったので、往復が必要なんだな……と体感しています。劇場は、アートから世俗を遮断する機能を持ってたんだってことが、跳ね返ってきて今わかります。
 たとえば砂浜で「海」を借景して演劇を上演した場合、ノイズとして鳥が飛んできたり人が通りかかったりするので、フィクションと実際の風景を同時に鑑賞することが可能になる。当たり前ですが、劇場はそうしたノイズを排除する仕組みです。でも、そのホワイトキューブの仕組みだけで表現するのではないことが新しくできないかなと。

ままごと『わが星』小豆島公演 (撮影:濱田英明)

落合 砂浜での複雑性が明らかにホワイトキューブのそれを上回るとなれば、野外で演劇するという選択は正しいわけですよね。家で食べる肉より、バーベキューの方が美味しく感じるから良いということと結構似ていると思います。自然条件の複雑性を取り入れるってことを昔の人類はやっていたけど今の人類はコピーされた安定ラインを引かないと安心できなくなってる。それをどこまで崩せば人間は複雑さを感じるのかという問題ですね。

  複雑性の排除された劇場という場所だけど、やっぱり僕はノイズが欲しくなってしまう。だから隣の劇場という空間を使って作品をつくろうとしているわけです。
 通常の演劇づくりの考え方だと、劇場演劇のノイズは、俳優の演技が微妙に違うとか今日の観客が温かかったとか冷たかったとかで違うって話になるでしょう。だから再現性がなく、細かい調整ができる余地が延々に続いてしまう。だから僕は俳優の演技を高めていくのではなく、偶発性をどこで発生させるかというアプローチに切り替えたんです。「何をつくるか」ではなく「どうつくるか」を考えるということですね。2劇場で同時に演劇をするということは、僕自身も絶対に片方しか観られないですから。自分がコントロール不能な状況で、起きる問題が勝手に解決され続けていくループをつくる時に、ひとつの舞台上だけの問題に限定させたくないと思いました。

 

芸術のフィードバックループ

落合 一般的に言って、演劇の美学は「一回性」にあると思います。人は1回観た演目を複数回はあまり観ないでしょう。多くて2回かな? でも、作家本人や演者たちはn回(=公演回数)体験するわけで、そのギャップから生まれるフラストレーションをどう解決するかという問題は大きい。作り手にはn回だけれども、鑑賞者には1回の体験と受け止められる。

  でも、演劇の面白いところは、歴史に淘汰されて残った演劇は何百年何千年かけて、人類全体がn回見るんですよ。それが演劇をアップデートし続けるということだと思います。

落合 それは面白い考え方ですね。

柴  今日の出来が最高ではなかったとしても、クオリティコントロールをきちんとして、今日観た人にとっては十分なものにさせるのがプロの演出家ですけど、俳優の方が「今日は良くできなかった」って、前後の比較で気にしますね。だから意外と一回性のことを受け止めるのは観客だけで、演じている本人たちは常にn回の再生なんですよ。

落合 SNSが発達してきたことで、たとえば映画一本観るにしても、映画館に入る前に人々が映画の予備情報をかなり知ってしまっている。つまり乱雑に放っておけばソーシャルネットワークの中で乱雑なフィードバックループをあっちからこっちから受けて、あの人が観る映画を僕が観る、僕が観た映画をあの人も観る、という相互関係性は無限につくれてしまいますね。前情報が入ってしまうということは、没入性を求める芸術に対して没入不能になるということです。
 かつて『涼宮ハルヒの憂鬱』(2009年版)というアニメに「エンドレスエイト」という回が存在しました。アニメの登場人物たちが夏休みから抜け出せない無限ループに嵌ってしまうという内容で、ほぼ同じストーリーが8週間にわたって放送され続けた。あの時の人々の反応が、僕にとってはすごく発見的でした。「こんなにも同じことを俺たちに強いるのか」って、SNSを通じて怒りを爆発させる人が相次いだ。それ自体がある種の脱アニメ性を持っていて、面白かったんですよね。たとえば、ニコニコ動画もコメントがつく前とついた後で印象が変わって、非同期に時間が共有されるメディアです。社会全体がそうしたメタ構造を秘めている中で、逆にそれを削ぎ落としてピュアな多方性を保持しつつ、コントローラブルなものをつくることがどういう知見を生み出すのかに非常に興味がある。
 柴さんがおっしゃっている、ふたつに分けた劇場はある程度コントローラブルでスピーカーとマイクがあればハウリングもできるでしょう。ある程度カオティックなんだけど作家のコントロールに置けますよね。だから没入可能かつ没入不能な調整感は面白いテーマですね。

 ふたつの劇場で、答え合わせにならないようにつくりました。つまり、Aの裏側でBが起こってる演劇にはしなかった。結局AとA’なんですよね。「Aの横でBがおこなわれているであろう」っていう演劇を両方で見せていて、Bはどこにも存在しないっていう劇にして、無限ループが起こったらいいなと思うんです。Aを見てる時は向こう側が絶対気になって、反対側に来てもその疑問は解決せず、また向こうを気にさせられるだけで永遠に補完されないような劇構造にできないかなって。

 

「人間フィルター」がアートを再定義する

  落合さんは、ご著書『魔法の世紀』の中で、エーテルからモノを生成したり消滅させたりする可能性について言及されていましたが、僕がつくってる舞台では「見立て」という手法を多用するんです。(オレンジジュースを手に取り)これを飲むんだけど、急に「あっ、電話だ」って言ってコップを耳に当てて携帯電話にする。次に対面に置いたら、オレンジジュースが母親として喋ってくるというような「見立て」を、観客の錯覚を誘導できるように計算するのが演出家の役割で、その持ち方だと電話に見えないとか、何秒置いて話しかければ母親に見えるかみたいなことを試行錯誤しているんですが、現実世界でもし本当に、オレンジジュースが携帯電話にも母親の姿にもメタモルフォーゼするようになったら、僕のつくる「見立て」の演劇がお金を払って鑑賞するに値しなくなるのでは? 未来の演劇表現はどうなっちゃうんだろう? という素朴な不安を覚えました。

落合 落語家の方にも同じことを訊かれたことがあります。落語は基本的に蕎麦を扇子ですすりますよね。でも、リアリティと現実は違うということが「見立て」によってより高まる見せ方は面白いんじゃないかな。本物を実際に出してくるのと、本物っぽいけど本物じゃないものは別物ですよね。落語家が蕎麦をすする音は、僕らが聞きたいと思っている蕎麦の音の解像度的にはかなり稠密で、目を閉じて耳だけで聞けば本物に聞こえるでしょう。でも目を開けてみると蕎麦がない。かつ、今聞いていた音も本物の蕎麦を食べているのに比べれば全然違う音でしょう。それなのに僕らが信じたい蕎麦の音が、そこには存在している。「見立て」は、言い換えるとモノの擬人化、つまり人間フィルターを通して生まれるある種の「現象」です。人間フィルターを通した「現象」の話と、人間が認識できるのは現象だけで本体そのものを認識することはできないという「現象論」の話はまるで違う。しかし現代では、「現象論to現象論」でコミュニケーションできるように、ほぼなっています。なぜかというとググれば実物が何なのかすぐわかるし、YouTubeでビデオを送れば情報はほぼ完備な状態で送受信可能でしょう。何かを文章で説明するより、3D空間で構成して送った方がわかりやすくて、脳はその刺激に慣れている。逆に言うと、われわれ人間がどういう「フィルター」であるのかを再確認するのがアートの役割になりつつあると思います。

柴  なるほど。僕はさらに、現実的に不可能な時間空間を舞台上に生み出したいと思ってるんですよね。何千年を1時間に凝縮したりとか、1秒を1時間に膨らましたりとか、過去と未来が同時に存在して同時にそれを眺める状況をつくったり、死者を甦らせたり、大量の人間を一人に集約させるとか。そういう僕らが今舞台上で試みていること—-人間が今まで体験したことないような空間とか時間の感覚の共有みたいなことも、これからは?

落合 普通にはなると思います。実は僕、最近イルカが大好きで、イルカの研究がしたくてしょうがないんです。イルカってスマホ持ってから1000万年くらい経ってます! みたいな生き物で、お互いに名前を認識しあっていて超音波を送受信しながら相手の姿が見えないのに、海の中で同期して動いてるんです。イルカAが水面に腹を出したらイルカBもいきなり腹を出すとか、ビジュアル的には確認不能なのに、よくできるなあっていう動きをするんですよ。そう思うと、人類がイルカ化していく可能性もあるなって。イルカ化した人間は構造物持たなくなりそうですよね。パースペクティブが完全に共有できるならフィジカルなものでそのギャップを埋めようとする意味がなくなる。自分が今見ているイメージそのものを他人に渡せば、言葉で説明する意味もなくて、完備な情報がお互いに共有される。何か形あるものをつくって他者に伝えるよりも先に、イメージを伝えられてしまうので外部的な構造を持つ意味がなくなる。イルカみたいに、互いの距離が離れているのにまったく同じ動きをする生き物は人間とは全然違うロジックで動いてるから、見てて面白いです。イルカ、いいですよ!

  なるほど。僕は、俳優がイルカみたいになったらちょっと困るかもしれません(笑)。

ここで話は、物事のリアリティについて及び始めた。リアルであることとナチュラルであることは、柴、落合両氏にとってどう違うのか。時に相反するリアリティとナチュラリティ。その仕組みについて二人が語り合った。

 

リアリティとナチュラリティについて

落合 人間の認識の世界において、リアリティとナチュラリティはまったく違いますよね。ナチュラルはまったく緊張していない状態。こう思いたいとか、信じたい気持ちがある時に感じるのがリアルですね。相手にナチュラリティを要求する時、自分はそれをリアルに感じたいとか、リアリティを要求する時、自分はナチュラルに感じたいとか、180度逆転する可能性はあるかなと思いますけどね。

柴  人間にとっては、リアルかナチュラルかのジャッジって無意識でわかるじゃないですか。これはリアルじゃない、気持ち悪い、とか。でも、演劇の下手な人がつくると、非常に変なリアリティとかナチュラリティを持った演劇をつくってしまうことがあるんです。実生活のリアリティとまったく違う尺度でつくったりする。そこを数値化して整えられれば……と思うんですが、本来は数値化する必要もなく自分のセンサーを生かしてやれば判断できるはずなのにできなくなる人がいるのが今の僕には不思議。昔の自分もそうだったんだろうなと思いますが……。

落合 ナチュラルは他者性まで含めてナチュラルと言えるんですよ。ナチュラルは、そのものの本質であり自然状態でそうなるものじゃないですか。ネイチャーとは無為自然の極みのことです。無為自然のナチュラルと、主観性高く「俺がこう思いたい」リアルは、そりゃあ違いますよね。AI(人工知能:Artificial Intelligence)が発達すれば、いずれリアルかリアルじゃないかの判別はAIで代替できるようになるでしょうけど、その情報が真実(Truth)なのか嘘(Fake)なのかは判別不能のままだと思います。

柴  落合さんが想像する、映像を超えた魔法的な伝達技術が発展して、空間まるごとが伝達可能になった時に、報道やニュースってものは単なる鑑賞対象になってしまうんでしょうかね。

落合 そうですね、少なくとも今後、真実と嘘の区別がほぼ付かなくなってくると思います。そのことにいちばん敏感な大統領はドナルド・トランプでしょう。彼は「この世界に真実は存在せず、すべては個人のオピニオンである」という姿勢を示したというのが僕の見方です。

 

演劇における「メディア」とは何か

  絵画のメディアは紙だったりキャンバスだったりしますが、演劇のメディアって人間なのかな?

落合 演劇の記録メディアは、人間なのか空間なのかという問題ですよね。

  そうです。いつも僕のワークショップでは、演劇の最低条件は「時間」「空間」「人間」の要素が少なくともふたつ以上は必要だと教えるんです。何かのコンテンツを人間にインストールして、人間がアウトプットするのを見て楽しむのが演劇なのかなって今の段階では思ってますけど、人間そっくりに見える何かが生み出された時にそれを使ってつくったもの、あるいは人間がまったく介在しないでつくられたものが演劇と呼ばれるのかは興味あるところです。人間が人間を使ってつくるものの価値ってどうなるんだろうなって。映画がコンピュータだけでつくれるようになって、スクリーンから飛び出して立体的につくれるようになった時代になぜ自分は人間に何かをやらせて、さらに人間は人間が何かやってるところを見て喜ぶんだろう。

落合 確かにそうですね。僕は、作品に映像を使ってはいませんが、そこに存在する物体に対峙した時の感覚にどうやってストーリー付けするか、コンテクストをつけられるかすごく考えます。僕の作品で『モナドロジー』(2012年・Tokyo Designers Week 2012 / MMM2012 / 2016年・KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭)というのがあって、暗室でひとつのLEDで、大量のシャボン玉を照らすものなんですが、光の加減によって見え方が変わるんです。「時間」と「空間」がうごめいている作品とでも言いますか、明滅する光に対して人間の感覚がどんどん闇に慣れていって、動きに対しても敏感になっていく感覚をコントロールする作品でした。
 いわゆる「インスタレーション」には人間は登場しないけれど、3次元的なパースペクティブは観客と共有できるから、劇的なオチや意外性を見せたい。そうするとシャボンや光の明滅のタイミングをどう演出するかという考えに近づいてくる。ストーリー性のあるメディアは言葉でも音でも視覚でも人の動きでの表現できるから、稠密にいろんなことができるなと思って、僕はモノと運動と光の明滅だけにフォーカスして、他のあらゆる要素を削ぎ落とすような作品をつくっていました。

 

  そこに人間を足したいと思うことはないんですか?

落合 実はないんですよ……。でも、いつか足したいと思うかもしれません。機械的に完全な空間を設計するという僕の作家性に、AIによる偶発性を組み込んだらどういう動きになるんだろうということには興味がありますね。

  現代演劇のいくつかの作品は俳優不在で、鑑賞者しかいなくてあとは時間と空間と仕掛けがあるだけ、というようなものは既にあるので、AIがつくった台本の演出を人間がした時に「これは演劇だ」と観客が受け入れるかは興味が湧きますね。

対談の終盤、二人の語り合いは未来の演劇へと向かった。そこは人間だけが芸術にたずさわるのではない、新しい魔法の世界。その可能性についてまっすぐな探究心で、柴氏は思いを落合氏にぶつけていく。

 

テクノロジーが芸術を拡張する可能性

  演劇をつくる手法がある種のブラックボックス化されている中で、あまりにも体系化、言語化されてない部分が多すぎると思っています。それでも絶対に残り続けるブラックボックスはあると思いますけど、たとえばDTM(DeskTopMusic)ができたおかげで音楽をつくる人が増えたように、テクノロジーの力で演劇がつくりやすくなったらいいなと僕は考えてます。それができたら面白い。僕は人間と技術……たとえばAIがつくった演劇とか、人間が書いてロボットが演じる演劇は面白いと思ってるので、できるだけ早くそういうものたちが融合した、人間味だけで魅せるのではない世界でいろいろ演劇をつくれないかなと思いますね。

落合 AR(拡張現実:Augumented Reality)で物を体験するのが普通になると、そこにあるCGの人間っていうのは実態の人間に対して同じだけ情報量を持ってるから指示が楽なんですよね。その指示出しが楽な状態で演劇を鑑賞するのが普通になったら、DTMみたいな要領で、演者を配布して動かすことはできると思います。その鑑賞状態が普通になってきた状態で、小劇場演劇の半大規模空間を満たせるのは面白いでしょう。演劇は情報量が多すぎて、正直まだAIでは扱いきれないです。ただ、ARがもっと発達すれば扱えるようになると思うので、10年後はきっと面白いことになっているんじゃないでしょうか。

 


フェスティバル/トーキョー17主催プログラム

わたしが悲しくないのはあなたが遠いから』 作・演出:柴 幸男

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Photo: Hideaki Hamada / Photo: Ivy Chen

同じ時間、二つの場所で紡がれる物語。隣にいても遠い「距離」から見わたす未来
 星の一生と少女の一生を重ねた音楽劇『わが星』など、個的かつ普遍的な人生の時間を劇場空間に立ち上げる劇作・演出家、柴幸男(ままごと)。東日本大震災の発生当時、東北から離れた場所にいたという彼が、「距離」をテーマにした新作で、フェスティバル/トーキョーに初登場する。
 さまざまな境界線の設定、心理的分断の要因ともなる「距離」に向き合う場として構想されたのは、隣り合う二つの劇場で、同時刻に、同じ俳優たちによって紡がれる二つの芝居からなる作品。それぞれの劇場の観客は、目の前の物語を追いつつ、ごく近くで展開しているはずのもうひとつの出来事、そして作品の全体像へと想いを馳せる。

会場:東京芸術劇場 シアターイースト/シアターウエスト
日程:10/7 (土) 〜10/15 (日) 全10公演
※休演日10/10 (火)
詳細は公式HPへ

 柴 幸男(劇作家・演出家・ままごと主宰)
1982年生まれ、愛知県出身。青年団演出部、急な坂スタジオレジデント・アーティスト。多摩美術大学講師、四国学院大学非常勤講師。2010-2011年度、2012-2013年度、2015-2016年度 セゾン文化財団 ジュニア・フェロー。2010年『わが星』で第54回岸田國士戯曲賞を受賞。あいちトリエンナーレや瀬戸内国際芸術祭への参加など、全国各地で活動を展開する。2017年8月には、現役高校生が出演する『わたしの星』の再演を控える。また、ままごと公式HPにて、過去の戯曲を無料公開する『戯曲公開プロジェクト』を展開中。

 

落合陽一(メディアアーティスト 博士[学際情報学])
1987生,30歳.メディアアーティスト。2015年東京大学学際情報学府博士課程修了(学際情報学府初の短縮終了),博士(学際情報学)。日本学術振興会特別研究員DC1,米国Microsoft ResearchでのResearch Internなどを経て,2015年より筑波大学図書館情報メディア系助教 デジタルネイチャー研究室主宰.2015年,Pixie Dust Technologies.incを起業しCEOとして勤務。2017年より筑波大学学長補佐,大阪芸術大学客員教授,デジタルハリウッド大学客員教授を兼務。専門はCG,HCI,VR,視・聴・触覚提示法,デジタルファブリケーション,自動運転や身体制御.研究論文は分野の最難関国際会議であるACM SIGGRAPHやACM UIST,CHIなどに採択されている。http://yoichiochiai.com/

 


フェスティバル/トーキョー17 演劇×ダンス×美術×音楽…に出会う、国際舞台芸術祭

名称: フェスティバル/トーキョー17 Festival/Tokyo 2017
会期: 平成29年(2017年)9月30日(土)~11月12日(日)44日間
会場: 東京芸術劇場、あうるすぽっと、PARADISE AIRほか

舞台芸術の魅力を多角的に提示する国内最大級の国際舞台芸術祭。第10回となるF/T17は、「新しい人 広い場所へ」をテーマとし、国内外から集結する同時代の優れた舞台作品の上演を軸に、各作品に関連したトーク、映画上映などのプログラムを展開します。 日本の舞台芸術シーンを牽引する演出家たちによる新作公演や、国境を越えたパートナーシップに基づく共同製作作品の上演、さらに引き続き東日本大震災の経験を経て生みだされた表現にも目を向けていきます。

最新情報は公式HPへ


こちらもお読み下さい

 

埋まらない距離を見つめて 柴幸男が、写真家・佐藤健寿に聞く「世界の距離」

 

ディレクター・メッセージ: フェスティバル/トーキョー17開催に向けて 「新しい人 広い場所へ」