今回の若手公募プログラムの演目に横断的にみられた特徴のひとつに、「退屈の活用」という動きがあったように思う。観客の体験が笑いや感動やカタルシスといった既存の快楽に回収されないよう、退屈な状態を故意に舞台上に作り出そうとしていた作品もあれば、作り手の意図とは無縁に、観客の感想に退屈という言葉が頻出した作品もあるが、いずれの場合においても複数の作品から、「退屈に酷似した新しい何か」を舞台上に生起させようとする狙いが感じられた。もちろんその試み自体、じつにきわどいゲームである。
今回の若手公募プログラムの演目に横断的にみられた特徴のひとつに、「退屈の活用」という動きがあったように思う。観客の体験が笑いや感動やカタルシスといった既存の快楽に回収されないよう、退屈な状態を故意に舞台上に作り出そうとしていた作品もあれば、作り手の意図とは無縁に、観客の感想に退屈という言葉が頻出した作品もあるが、いずれの場合においても複数の作品から、「退屈に酷似した新しい何か」を舞台上に生起させようとする狙いが感じられた。もちろんその試み自体、じつにきわどいゲームである。
今回のF/Tの若手公募プログラムの最良の成果のひとつは、テン年代の新しい演劇の到来を強く印象づけたこの作品が入っていたことにあると私は思う。本作を評価する理由は大きく分けて二つある。映画や漫画や音楽といった隣接するジャンルの手法を織り交ぜつつ演劇でなければできない表現であったことと、作品そのものの完成度の高さである。この作品は、ちょうど奇跡的な高さに積み上がったジェンガのように、どこを削ぎどこに置くかを慎重かつ大胆に考え抜いた結果の儚いバランスで成り立っている。それは、演劇の作り手がひとつの作品に対してどれだけ考えどれだけ質を高めていけるかに対するひとつの答えであるだろう。
エコブームである。エコナビ、エコカー、エコバッグ......。名詞に「エコ」の二文字をつけるだけで、地球にやさしくなった気がする。ちょっと昔までは、「平和」や「人権」ということばが、そういう機能を果たしていたのだろう。エコの時代にあっては、とりあえずエコという言葉さえ出しておけば、周囲の人々の思考を停止させ、無難に事を進めることができる。と、そういうことになっている。
ドラマ演劇における上演の起源、それは戯曲の言葉である。起源としてのテクストは通常、役者の演技の規範となり劇構造を支配する法として上演の前に立ちふさがる。新劇以降の演劇実践は、テクストと上演のこうした主従関係をいかに結び直すかの模索であったともいえるが、dracomの『事件母』は、この「上演の起源としての言葉」を「人間の起源としての母」に結びつけることで、単なる現代日本の写し絵でもメタ演劇でもなく、言語によって形づくられ、文法という法に拘束された人間の姿も射程に入れた大きな物語を立ち上げることに成功している。
2009年度の統計によれば、12年連続で自殺者の数が年間3万人をこえた。10万人当たりの自殺者数は、24.4人。中国や北朝鮮は統計を出していないが(出していても正確ではないだろうが)、世界第6位で、先進国ではトップである。自殺者数ばかりに目をとられていると忘れがちだが、自殺率の高さはバブル崩壊以後に固有の話ではない。戦後の最大値25.7人は、経済発展がすでにはじまっていた「1958年」なのである。
公募プログラム全作品を通して、この企画に最も合致しているように思えたのが、悪魔のしるし「悪魔のしるしのグレートハンティング」であった。もちろん、神村恵や岡崎藝術座とはちがって、今回のラインナップでこの集団を初めて知ったという方も少なくないだろう(わたしもそのひとりである)。つまり、観客の多くは、いったいどんな作品を見せてくれるのか、それなりの期待をもってチケットを予約したはずなのである。
この作品は、現代の日本の空気感(というえたいの知れない関係性のルール)をよく映しだしている。男性ダンサー三人(大植真太郎、柳本雅寛、平原慎太郎)はいずれもクラシック・バレエ出身で、高度なテクニックと可動域の広い身体が繰り出すムーヴメントは洗練された滑らかな曲線の軌道を描くが、やっていることは取っ組み合いやじゃれ合いで、野性味とマヌケさが入り交じった脱力系のアクロバティックなダンスが基調になっている。
伊藤拓が主宰しているFrance_panは、2004年に大阪で旗揚げされた劇団である。第12回公演『ジャン=アンリ・ファーブルの一生』(2008年)は東京(こまばアゴラ劇場)でも上演されているが、原則として大阪・京都を中心に活動している。第15回公演『点在する私』の京都芸術センター舞台芸術2009ノミネートを経て、F/T10「公募プログラム」の枠組みのなかで、第16回公演『ありきたりな生活』を上演する運びとなった。