ドラマ演劇における上演の起源、それは戯曲の言葉である。起源としてのテクストは通常、役者の演技の規範となり劇構造を支配する法として上演の前に立ちふさがる。新劇以降の演劇実践は、テクストと上演のこうした主従関係をいかに結び直すかの模索であったともいえるが、dracomの『事件母』は、この「上演の起源としての言葉」を「人間の起源としての母」に結びつけることで、単なる現代日本の写し絵でもメタ演劇でもなく、言語によって形づくられ、文法という法に拘束された人間の姿も射程に入れた大きな物語を立ち上げることに成功している。
下敷きになっているのはアイロスキュロスの『オレステイア』三部作と二〇〇七年に会津若松で起きた母親殺害事件だという。演劇の起源に限りなく近いギリシャ悲劇と、ゼロ年代の日本社会で起きた悲劇との接続。本作におけるコロスは、言葉を発しない役者たちによって作り出される「世間」であり、両者を隔てる大きな壁、すなわち言語ないし翻訳の問題を介在させることで、筒井はそれを悲喜劇に仕立てあげている。
作品のルールは一見いたってシンプルだ。舞台上で発話するのは母親だけ。日本語によるナレーションがスピーカーから流れた後、彼女がそれを淡々と英語にしていく、その繰り返し。だがこの日本語と英語の応酬を通して、言語によって構築されている人間の役割や関係性がラディカルに問い直されていく。事件後「誰でもよかった」と語ったとされる17歳の少年は、それが母親だったために「母親殺し」と言われたことが強調されるように、産む―産まれるの関係を問い直すことで筒井は、まさに卵が先か鶏が先か、つまり起源と結果、因果関係、時間の経過、物事の順序というものを徹底的に狂わせていく。
スピーカーから聞こえる日本語にはブレやズレがある。「母はもうすぐ殺された」、「彼女は、子どもたちに殺されてきた」、「そして、これからも殺されるだろう」......日本語の発話はいずれも時制が破綻し文法が崩れている。舞台上の時間進行もそれに呼応するようにシャッフルされている。観客の目前で揺り椅子に腰掛けくつろいでいるのは子どもを産む前の女であると同時に殺害された母親であり、彼女を中心として一家の過去や事件後の情景がランダムに立ち上がっていく。その顔に広げられたシートパックが、首を切断された顔無し女の暗示であり、デスマスクであり、母親であると同時に美しくありたいと願う女であることの現れでもあるというように、見立てによる複層性は空間構成と同様にどこまでも緻密に配置されている。
死体を見つけた次女が警察に通報するとき、首がなく母親だと断定できない状態の死体を「母親」と告げたときに母親を殺してしまうように、時制の崩れた日本語と英語は、舞台上の出来事が事件の事後的な語りであるというよりも、台詞が命令のように事件に先立ち、舞台上の行為を生み出す起源になっているような感覚を呼び起こす。その因果関係の逆転現象は、テクストの順序に起因するところも大きい。スピーカーから流れる日本語の音声が先で母親の英語の発話が後に来ると、観客は母親の発話を日本語の英訳であると錯覚する。関西弁や標準語で言い間違い、言いよどみ、言い直す複数の男女によるナレーションの多声性が、母親による単声の、抑揚を欠いた英語に翻訳されているようにみえる。だが実際の出来事の順序は逆なのだ。母親がイヤホンで聴いた英語を反復する。そのとき母親は間違いを犯す。スピーカーから流れるおかしな日本語は、後につづく母親のおかしな英語を起源にしているのである。
ここで英会話の練習をしている母親は、言語の境界を踏み越えたタブーの代償として殺されるのだ、おそらくはその崩れた言語を母親の胎内で聞いていた少年によって。起源の模倣が反復を通してズレてゆくとき、そこにパフォーマティヴな力が生成される。そして本作はその力を、母親自身を殺す息子という呪いとしてみせる。まさしくそれは、予言が未来から来た言葉ではなく、予言が行為遂行的力を行使して予言どおりの未来を実現させていくギリシャ悲劇から続く、戯曲の言葉の呪いなのである。
こうした上演のパフォーマティヴ性と言語自体のパヴォーマティヴ性を一つの問題として接続し、演劇の上演が言語の子どもなのか母なのかを問う手つきは見事というほかない。だが問題は、こうした過激なたくらみが、舞台上ではおそるべき単調さとして現れるところにある。それを単調さの仮面の下に幾重にも張り巡らされたたくらみとみるべきなのか、幾重ものたくらみは単調さとして現れるとみるべきなのか。二つの問題系を剛胆かつ知的にまとめあげた本作を捕らえるのは、こうしたダブルバインドなのである。「彼女は死んだ、昨日か明日ぐらいに」、「彼女は行方不明になってる、明日、でも、ずいぶん前に」。舞台上は過去と未来で埋め尽くされる。そこには現在だけが、ぽっかりとあいた空洞に取り残されて消失する。同様に、閉塞感の漂う母親殺しの起きた室内が、いつしか通り魔事件の起きた雑踏の街中の情景に変わっていくとき、そこにはマジックリアリズムめいた浮遊感すら漂う特異な空間が現前する。だが同時に、上演を通して欠けているのは、いま舞台を見ているこの場所であるように思えてならないのである。バイリンガルの上演形態は、事前情報に英語圏の観客にも鑑賞可能であると記載されているように一見すると一石二鳥にみえる。だが実際には日本語と英語の双方を(その発話のニュアンスのおかしさや違和を)理解できなければその主題の核心は伝達されない。それを欠いた観客はただ、英語と日本語の狭間に滑り落ちてしまう。
テクストの枠組みのなかでテクストの頸木を逃れるのはいかにして可能なのか。上演における身体と言語に対するdracomの問題意識はチェルフィッチュに通じるものがあるが、『事件母』という作品は、それを録音された音声と身体の動きのズレという手法で表現してきたこのカンパニーのひとつの到達点といっていい。だが現時点では、この手法がどこまで有効なのかという一抹の懸念も残る。ズレのレイヤーを重ねていくとき、役者と観客の身体は<いまここ>を逃れてどこまでも横滑りしていくのではないだろうか。