今回のF/Tの若手公募プログラムの最良の成果のひとつは、テン年代の新しい演劇の到来を強く印象づけたこの作品が入っていたことにあると私は思う。本作を評価する理由は大きく分けて二つある。映画や漫画や音楽といった隣接するジャンルの手法を織り交ぜつつ演劇でなければできない表現であったことと、作品そのものの完成度の高さである。この作品は、ちょうど奇跡的な高さに積み上がったジェンガのように、どこを削ぎどこに置くかを慎重かつ大胆に考え抜いた結果の儚いバランスで成り立っている。それは、演劇の作り手がひとつの作品に対してどれだけ考えどれだけ質を高めていけるかに対するひとつの答えであるだろう。
物語は、春の終わりにかもめ中学校に転校してきたるなが、再び転校することになり学校を去っていくまでの一年間を描く。七名の女子バレーボール部員と二人の男子生徒の、青春時代という特別な時間。その限定性を立ち上げるための時間操作が、物語と構造の双方向から周到に計算されている。プロットには試合までの日数や、るなの止まった時計、よしみの写真を撮る行為、死んだグッピーなど時間を意識させるモチーフを挿入し、他方、構造面では、まず舞台の冒頭と最後を同一の試合中の情景でサンドイッチにすることで時間の輪郭を規定し囲い込む(二度の場面は声の有無によって差異化されているのだがそれについては後述する)。また舞台上の登場人物たちは、いまを生きながら同時にそれを過去のものとして回想する。現在進行形の出来事の合間に回想としての語りの視点を挟むことで、観客は過去と現在という二層のレイヤーを往き来することになる。これらの操作によって観客は、舞台上の上演という時間自体は真性同期的に共有しつつ、物語内時間を擬似同期的なものとして経験するのである。(1) 両者はどちらも欠けてはならない。舞台に観客が共感し(自分にもあった一時期として観賞し)、感情が揺さぶられる(涙する)ためには、没入とノスタルジー的感傷の双方を要する。そのためには真性同期と擬似同期そのどちらか一方ではならないのだ。
作・演出の藤田貴大は、箱庭的な世界を微視的精細さで緻密に組み立てつつ、観客に上演を体験させるための仕組みも用意している。それが視点人物を変えた同じ場面の反復という時間操作である(それは藤田によってリピートではなくリフレインであることが強調される。それは同一なものの繰り返しではなく一回性が蓄積されたレイヤー的な重複である)だ。反復によって塗り重ねられた物語と時間は、観客にとって反芻に近い内的体験になる。繰り返し反芻することを通して、観客の感情にはうねるような高ぶりが生まれるのである。
観客は自分自身の「あの頃」の記憶とつき合わせながら舞台上の出来事を観る。だが、そこで想起される記憶には、現在の自分のなかに蓄積された真性の記憶に加えて、これまで見聞きしてきた様々な漫画や小説や映画や他の演劇作品における物語・シチュエーション・キャラクターetc.やそれらに覚えた感情の動きという、いわば擬似的な記憶が重ね合わされている。それが舞台に対する観客の感動を補強するのだ。既視感があるが自分のものではない記憶。それに心を揺さぶられるのは、リアルな体験とフィクションの体験とが記憶と感情においては均質的で等価のものになっているからだ。ただし、その成否は観客のクラスタに左右される。世代的なデータベースを共有しない観客に対して、この手法は有効ではないという問題があるだろう。
藤田の作る劇構造も、学校という容れものも、劇場という空っぽの空間も、冷たいただの装置である。だが、そのなかに生身の役者たちが放たれたとき、彼らの肉体が放射する熱は狭い小劇場空間のなかで最大の効果を発揮する。それは通路までみっしりと埋まった観客が放つ熱と相まって、その声や動作の逐一が、観客の身体をダイレクトに揺さぶるのである。そこで重要な役割を担うが女子生徒たちの声の振幅である。平田オリザの同時多発的台詞をさらに加速したような、超早口でオーバーラップする台詞。あの年頃の女子たち特有の、前後の繋がりが欠落した飛び石のような話し方と同様に、台詞の意味がすべて伝達される必要はない。そのにぎやかなポリフォニーにバフチン的な祝祭性をみる、と言ったら言い過ぎかもしれないが、その多声性はまずもって音楽的であり、私自身の体験に則せば、そのモザイクのように鏤められたまぶしい声の乱反射は、中学時代に廊下やプールで反響していた同級生たちの声の記憶と完全に重なりつつ、同時にどこか維新派を観ているときのような、音楽的な響きの心地よさがあった。彼女たちの音としての声も観客の身体反応として感受され、それが感情に作用する。この声のもたらす劇的効果は、前回のF/T参加作品である飴屋法水の『転校生』(本作と同じ転校生もの)が用いたものと近接している。『転校生』のラストで、女子高生たちが一列になり声を合わせて「せーの」と言いながらジャンプし続けるとき、私たちはなぜわけもなく、涙が出るほど感動してしまうのか。「せーの」は、本作のエアバレーの掛け声「いーけ」に似ているが、本作のラストでは『転校生』とは対照的にあらゆる声が消える。そしてこの無音のなかでバレーの試合が続行するところに感動の誘因がある。彼女らの動きを見ながら、観客はその直前まで聞きつづけた現実の声を内的に反芻する。そこに観客ひとりひとりの上演の体験から生まれ、ひとりひとりに最適化された声が生まれる。舞台を観ているとき、私たちは確かに否応なく上演に参与してしまっているのだ。このラストシーンはそれをはっきりと思い起こさせる。
最後に、本作のもうひとつのレイヤー構造について触れておきたい。つまり、かもめ中学校バレー部の物語の背後にチェーホフの『かもめ』が隠されている点についてである(これは同公募プログラム参加作品『悪魔のしるしのグレートハンティング』が、演劇制作の擬似ドキュメント風のメインの物語に竜退治の物語を重ねていくのと同じ構造である)。はまだが手に入れるピストルという直接的な小道具をはじめ、エアバレーはトレープレフの劇中劇を、外の世界に旅立ってゆくるなはニーナを思わせる。『かもめ』を下部レイヤーにすることで、藤田はみずからの演劇にかける想いを伝えているように思える。序盤近くから、「すべてはプレイのために」というやや分かりやす過ぎる台詞を通して、試合と演劇、部活動と劇団の活動とが対になっていることが明示的に説明される。中野成樹は、自分が演劇をやっている理由の三割ぐらいはチェーホフがおもしろいからだと言い、「演劇やってる人はみんな「俺たちにはチェーホフがいる!」って誇りに思ってるはず」と言っている。(2)チェーホフにとって新しい形式の演劇を確立する宣言であった『かもめ』。それを重ねた本作は、日本の現代演劇に対する藤田の秘やかな宣言として受け取れる。
上演のレイヤーと記憶のレイヤーを、個性の揃った役者たちの熱演に乗せてガチンコで観客に問うた本公演では、布地に女の子の顔の刺繍が施された小さなブックレットが配られた。その刺繍のひと縫いひと縫いが作品と重なってみえる。手間暇を惜しまない手仕事感と手づくり感。演劇という時代遅れの表現を用い、気の遠くなるような時間を投入して一つの作品を作りあげる、その愚直なほど反時代的な反抗心が、マームとジプシーの強みだろう。それを今後、演劇を作り続けていくという長い時間のなかでどのようにリフレインさせていくのか。彼らにはそれを問いたいと思う。
(1)真性同期とは現実の時間経過を共有するアーキテクチャで、擬似同期はニコニコ動画などのように、実際には同期していないがコメントによってあたかも同期しているような感覚をもたらすもの。詳しくは濱野智史『アーキテクチャの生態系』ないし拙論「同期と非同期のあいだ――小劇場演劇の未来」『舞台芸術』15号を参照下さい。
(2)中野成樹「チェーホフ好きのねたみとか」『ユリイカ』第42巻15号、2010年。