伊藤拓が主宰しているFrance_panは、2004年に大阪で旗揚げされた劇団である。第12回公演『ジャン=アンリ・ファーブルの一生』(2008年)は東京(こまばアゴラ劇場)でも上演されているが、原則として大阪・京都を中心に活動している。第15回公演『点在する私』の京都芸術センター舞台芸術2009ノミネートを経て、F/T10「公募プログラム」の枠組みのなかで、第16回公演『ありきたりな生活』を上演する運びとなった。
タイトルに示されている通り、伊藤が関心をよせているのは、俳優たちの「ありきたりな生活」である。すでに前作の『点在する私』のなかで、俳優が口にする「台詞」は、演出家による俳優へのインタビューから構成されている。俳優は自分に関するテキストを必ずしも自分で発話するわけではない(別の俳優が代わりにマイクをもって「報告」する場合もある)。インタビューはどれも、「子供の頃の夢」や「いちばんの思い出」など、他愛のない内容だ。
『ありきたりな生活』は、このような作品づくりの延長にある。つまり、劇作家がフィクションを役者たちに演じさせるのではなく、「役者たちの日常」を素材にしてそこからフィクションを立ち上げることを目指すというものである。舞台空間は各俳優が(映画『ドックヴィル』のように)「自分の家」のようなスペースをもっていて、前作のような流動性は見られない(『点在する私』では、全員がひとつの家にいるような舞台であった)が、創作方法から見れば、前作の延長上にあるといってよいだろう。
だが観客は、「役者たちの日常」のコラージュから何を受け取ればよいのだろうか? もちろん、パフォーマー自身の人生(生活)を素材にして舞台をつくることはめずらしいことではない。ドキュメンタリー演劇の手法としてあるだけではなく、ダンスの領域でもピナ・バウシュが精神分析を交えてそのような方法論をとっていたし、最近ではジェローム・ベルという「踊らないダンス」の振付家が『ヴェロニク・ドワノー』など、有名ダンサーの「自分語り」を舞台化している。
ところで、『ありきたりな生活』は、政治的・社会的テーマに関するドキュメンタリー演劇ではない。パフォーマーの語りが不具合を起こすに至るプロセスを見せるわけでもない。有名俳優の「人生」を見せるわけでもない。そこに集められた俳優たちは、唯一無二の「私」を示すというよりは、むしろ匿名的な(どこにでもいそうな)「誰か」に近い。仮にそれが俳優自身の実生活から発せられていたとしても、観客はそれが本当かどうかを確かめる術はない。
そのため、舞台から客席に伝わるものは、「誰か」が「何か」をしゃべっている以上のものではない。では、そのような匿名的な日常を通して、観客は何を見たことになり、あるいは何を感じたことになるのだろうか?
この作品にはひとりだけ、舞台を自由に動き回る俳優がいる。わざとらしい英語を話す男である(『点在する私』にも同じような人物が出てくる)。この男は、スピーカーから流れる演出家のことばを俳優たちに伝えたり、俳優たちにひとりずつ歌を歌わせたりするのだが、舞台上では「なんだかよくわからない人」である(妖精のような存在である)。「演出家のことば」を俳優に吹き込む以上、俳優の肉体を借りた「演出家」の姿なのかもしれない。
したがって観客が、匿名的な「『誰か』が『何か』をしゃべっている以上」のことを見ているとすれば、それは伊藤拓の「演出観」なのかもしれない。演出家は俳優に対して何をすべきで、舞台のテクストはどこから生まれるべきなのか?ーーこのような問いに対する演出家の回答が「そのまま」舞台化されているというわけだ。伊藤は自らの筆でフィクションを立ち上げることを放棄することで、劇作家・演出家としての役割をできるだけ「縮減する」こととなったのである。
そうである以上、演出家はこのように問うてもよかったはずだ。演出家など、本当は不要なのではないか? だが、伊藤はノーという答えを選び、上演台本を構成し、舞台に演出家の声を流し、そして役者の肉体を借りて俳優たちにことばを吹き込むという選択肢を選んだ。そのため、俳優と演出家の関係はそれほど、というか何も変わっていない。むしろ、演出家が「特別な存在」であるということが、改めて確認されたかたちになっている。
演出家は、その出自からして、「劇団を統率するリーダー的な役割」である(と思われている)。フランス・ドイツではもっと限定的で、上演作品の選択から、舞台美術や照明に至るまでの藝術的責任を引き受ける(日本なら鈴木忠志や蜷川幸雄のような)存在である。だが、演出家が劇作家を(場合によっては俳優も)兼ねるケースが多い日本では、「戯曲=テクストを読み直す」タイプの演出家は、むしろ少数派であるからして、そのような定義は必ずしも妥当しない。その状況についてのコメントも、ここでは差し控えておく。
原理的なことを言うなら、役者が観客に向けて何らかのテクスト(必ずしも戯曲である必要ではなく、呻きや叫びであってもよい)を発しさえすれば、演劇はほとんどはじまっている。ただし、それには条件がひとつあって、観客は感情でもメッセージでもいいから、「何か」を受け取らねばならない。演出は、その伝達が「うまくいく」ようにするためのものである。当初のコンセプトやイメージや形式や展開は、俳優の声や体に乗せられてはじめて、具体化する。演出とはしたがって、俳優や空間との(そして当日客席に座ってくれるであろう観客との)共同作業である。
ところが、『ありきたりな生活』では、自分の存在理由についてうんうんと悩む演出家の姿ばかりが見えてしまい、「何か」がうまく伝わってこない。べつの言い方をするなら、演出家が当初考えていたことが、稽古のプロセスのなかで、どのように「失敗」して、「変更を余儀なくされ」ていったのかが見えない。また逆に、俳優たちがどのように演出家に「歯向かい」、問題解決への道のりを辿っていったのかが、見えないのである。パラドキシカルな言い方になるが、「うまくいった」ことが見えるためには、何が「うまくいってない」かが舞台と客席のあいだで共有されていなければならない。
つまり、方法論を追究しているのはわかるが、どのような目標を達成するための方法論なのかがよくわからないのである。このことは、友人の絶賛していた参考書を次から次に購入するタイプの受験生が、思っている以上に、成績に伸び悩むのに少し似ている(わたしがそうだったから、わかる)。ファッション誌ばかり読んでいる人間が、けっしてオシャレな人間とは見なされないのと同じロジックでもある。目標がなければ、方法論は机上の空論となり、政治家の選挙マニフェストとなり、学者の理論的戯言となる。ありそうな話だ。
最後にもういちどだけ、確認しておこう。France_panが採用しているのは、俳優の私生活についての情報やナイーブな質問に答える肉声を素材にして、上演テクストを構成するという方法である。だが、それはいったい「どこ」に行き着くための方法なのだろうか? 目的地なき放浪は、体力の消耗である。とくに冬場は、体を冷やすだけだ。「表現したいこと」を表現するのにうまくいかないから方策を練るのであって、決してその逆ではないのである。