この作品は、現代の日本の空気感(というえたいの知れない関係性のルール)をよく映しだしている。男性ダンサー三人(大植真太郎、柳本雅寛、平原慎太郎)はいずれもクラシック・バレエ出身で、高度なテクニックと可動域の広い身体が繰り出すムーヴメントは洗練された滑らかな曲線の軌道を描くが、やっていることは取っ組み合いやじゃれ合いで、野性味とマヌケさが入り交じった脱力系のアクロバティックなダンスが基調になっている。
とりわけ特徴的なのは日本的なものの取り込みである。前作『イキ、シ、タイ』(dancetokyo2009参加作品、2009年5月)、『イキキル』(DANCE PLATFORM参加作品2010年10月)から続く翻訳不可能なタイトルも、 "breath, hand, body"では表せない、日本語が細胞の隅々にまで息づく日本人の身体を志向することの表明だろう。作品の流れは「息/粋/生き生き/空気」+「手」+「体」=「生きてたい」と連想ゲーム式に膨らませたイメージ通りに進行するが、そのアウトプットは例えば殺陣のように空気刀や扇子で相手を斬ったり、プロレスの技の応酬をしたり、座布団の上に正座して落語を始めたりというように、日本の伝統芸能や大衆文化をふんだんに取り込んだ所作の形として表れる。リズムやテンポの緩急も、ゆっくりと溜めを作ったあとにパッとポーズをキメるところは歌舞伎の見栄の切り方、あるいは「だるまさんがころんだ」や「じゃんけん」のような間合いに似たものを思わせる。こうした日本的なものへの意識は、海外での活動経験豊富な彼らが否応なく自覚させられてきた日本人であることへの省察の結果かと思わせるが、実際こうした所作は海外で公演すればフックとして受け止められるに違いない。
こうした三人の男達のじゃれ合いから見えてくるのは、「悪い場所」としての現代日本の空気と、それを吸って吐いてクリエーションをしていくことの困難である。落語のなかで平原は、「空気が変わってきましたよね、最近」と、時代の空気や、空気を読むこと、東京の汚染された空気と酸素バーに通う人々などの話を徒然に語り出す。三人の男達が踊れる体を徹底的に無意味でくだらない戯れのために用いるこの作品は、十全で社会的に意味ある生というフィクションから降り、ありものの資源=身体をいかに使うかという現代の消費社会的な要請ともリンクしているし、日本のコンテンポラリーダンスの文脈に則せば桜井圭介のいう「テクニックの善用」、つまり超絶テクニックを極めた挙げ句の芸の披露に終始するのではなく、それを封じたり誤用したりすることでダンスのグルーヴ感や身体の動きの面白さを志向している。その方向性は評価できるし可能性もある。だが問題は、この作品自体が客席という「場の空気」に依存しすぎていることなのだ。
笑いも感動も、舞台と観客との関係構築を土台にしたコンテンツの強度からもたらされるとすれば、この作品の場合、それは良い関係を結ぼうと歩み寄ってくる好意的な観客としか成立していないようにみえるのだ。舞台上の相手に向けられた発話や身振りも、実際には観客が見聞きするものとして発される、その観客に対する意識のあり方がツンデレというか、そのルールを理解して観賞してね、まさに「空気読んでね」という暗黙の了解を観客に強いているのではないだろうか。例えば、私には三人が「遊んでいる」というより、終始「遊んでいるように見せようとしている」ように見えて、その作為性に乗ることができなかった。この作為性は、本作に即興的な要素がないことに起因する。たとえば超一流の剣士同士の真剣勝負が調和の取れた演舞のように見えるとき、それはあくまで、二者の動きが瞬間瞬間に感応しあい作用・反作用を生みだすことの帰結である。だが本作においてその演舞は再現であり、予め決められた動きの行程をなぞるものだ。ロジェ・カイヨワは『遊びと人間』のなかで、「遊び」を(1)強制的でない自由な活動、(2)隔離された活動、(3)未確定の活動、(4)非生産的活動、(5)規則の活動、(6)虚構の活動という六点を備えたものと定義したが、本作の遊びには(3)の未確定な要素(ゲーム展開が決定されていたり先に結果がわかっていてはならないという要素)が欠落している。C/Ompanyと似た男性四人のダンスユニット、コンタクト・ゴンゾの生み出す緊迫感と作品の強度が即興性に支えられているように、いい歳した大人の「本気の戯れ」を見せようとするならその運動には即興性が不可欠なのだ。
一方で、運動の注釈的に交わされる彼らの会話には、ある程度アドリブに委ねられた即興性をみることもできる。だが、それは言葉(台詞)を軽んじすぎているあまりマイナスの効果を生んでいるように思えた。「イテテテテ」「あぶないあぶない」「ドンマイ!」「だいじょぶだいじょぶ!」といった掛け声や囃し声、合いの手やうめき声が絶え間なく舞台上を覆う。作り手からは言葉を意味よりも音として捉えたいという説明がされているが、上演中のこうした言葉が観客の笑いを誘う補助線になっている以上、観客はそこに意味性をどうしても読み込むし、笑えない笑いという意味に包まれた舞台上の運動は、それ自体が意味を失ってしまう。もう少し台詞として聞き続けるに耐えうるものでなければ、「教室の後ろで騒いでいる男子ウゼエ」というのと同じになってしまうだろう。いずれにせよ、笑えるのであれ笑えないのであれ、どちらに転んでも運動に対するフラットな見方が崩されてしまうのだとすれば、笑いを介した観客とのコミュニケーションは機能していないのではないか。
落語のなかでは草食系男子と肉食系女子の話題にも触れられるが、この男達のくんずほずれつの絡み合うこの作品は観客のジェンダーの問題を考えさせる上で興味深い。前半は主に言葉ではなく動作を伴う目と表情によるコミュニケーションが主体になるが、非言語的な身体の身振りによる意思の伝達は、ダンスの誘惑という原初的な機能を想起させる。男同士のマッチョな関係性やキラキラ感はコンドルズとも少し似ているが、観客に直裁的に表現を投じるショー的な構成からして少し異なる。脱力したマヌケさは鉄割アルバトロスケット的ともいえるが、C/Ompanyの三者三様の魅力をもったダンサーが一塊になりつつ体勢を組み替えていくとき、その四肢の動きには、ときにはっとするセクシャルなニュアンスが伴う。
客席との関係の結び方や、客席で起こる笑いもその点と深く関わっている。私が観賞した初日の公演では客席から大きな笑いが起き、自分との温度差に少し引いてしまうぐらい好意的な雰囲気があたりに満ちていた。誤解を恐れずに言えばその大半が女性の観客で、そこには男達が楽しそうに躍動している様を微笑ましく見つめる女の観客という大枠の構図が垣間見える。この作品における笑わせる―笑うという行為が成立する条件には、舞台と客席とのある種の異性愛的な関係性や、あるいはジェンダーの問題を抜きにしても共依存的な関係性が前提となっている。そしてその空気感は、作品を鑑賞するという観客の主体的参与をむしろ疎外するものだ。三人が全力で戯れる姿から人間本来のコミュニケーションのあり方を見て素朴に感動することができるのは、腕白な男の子を見つめるお母さんや、高校球児をフェンス越しに眺める女子高生のようなスタンスで観賞できる観客、あるいは自分が失ってしまった童心をノスタルジックに想起することのできる観客、要するに、表現に対するナイーブな感受性・感応性をもつ観客に限定されてしまう。だが観客とはそうした資質を持った者たちだけの共同体ではないし、そうあるべきでもない。そして作品は複数の他者としての観客に開かれていなければならないだろう。
非常にざっくりと言うと、通常のダンスがダンサーの動きや仕草を直接的に観客に投げかけるとすれば、舞台上の相手に向けられた動きや発話を観客に窃視させるというこの作品の構造はドラマ的であり演劇に近い。その演劇的な側面に対する処理の仕方がこの作品を損なっているのではないか。行き尽くす、生き尽くすことにはまだ先があるはずだ。決められた筋書きに従い定められた結末に向かって真剣に遊んでいるフリをするというのは「ごっこ」遊びであり、その方向に徹すればそれはそれで、プロレスと演劇とダンスが融合したような、まだ観たことのない刺激的なダンスが生まれるはずだ。通俗的な水準のまま、『トランスフォーマー』的ロボット合体のギミック感や、三人の体を入れ替えていく綾取り的な変幻性、身体を他者に預け、持ちつ持たれる運動を人間の関係性の考察へ繋げていく点などは面白く、インターネット上では、心から感動したとか、笑い通しだったという感想も多く存在している。だが、三人の内輪的な関係を外側から観客に覗かせる形で観客を巻き込もうとした結果、その空気と枠組みになじめない観客が身体表現の面白さから遠ざけられてしまうのは、あまりに勿体ないと思うのだ。