フェスティバル/トーキョー トーキョー発、舞台芸術の祭典
「来るべき演劇」とは何か。その創造に向けて、F/Tに新たな対話の場が生まれます。
今日の演劇の可能性を問い直す4つのテーマを軸に、第一線の論客を交えた「F/Tシンポジウム」と、関連映像上映「F/Tテアトロテーク」を開催。これらを通じ、政治、経済、社会、そして他の同時代表現との回路を開きます。これからのF/Tの行方を見つめつつ、演劇を、そして時代を楽しく生き抜くための知と実践のニュー・メディアの登場です!
テーマ3:日本・現代・演劇を問い直す
⇒F/Tシンポジウムをより深く体験していただくためのガイド: テーマ3
⇒F/Tシンポジウムをより深く体験していただくためのガイド: テーマ4
歴史の蓄積のない「悪い場所」で独自の進化を遂げた日本の現代演劇。ここではダムタイプ以後の流れを検証し、他ジャンルや社会との関係を含めた歴史の中でその「現代」性を捉え直す。アクチュアルかつ新しい表現はいかにして可能か――アジアにおいても共有可能な創造と批評の軸を探り、その実現のためのプラットフォーム作りに踏み出す。
パネリスト
佐々木 敦 (批評家)
飴屋法水 (演出家 / 美術家)
市村作知雄(F/T実行委員長)
黒瀬陽平(美術家 / 美術評論家)
司会
内野 儀(演劇評論家)
テーマ4:演劇を拡張する
ポストドラマ時代、演劇の可能性はもはや劇場での戯曲上演にとどまらない。「演劇」という概念/行為はどこまで拡張しうるのか? 芸術史を更新した「パフォーマンス」から、日本独自に発達した今日の革命的メディア、2ちゃんねるやニコニコ動画などを参照しつつ、今日の演劇の臨界点を検証し「来るべき演劇」の萌芽を探る。
パネリスト
隈 研吾(建築家)
濱野智史(情報環境研究者)
高山 明(演出家)
司会
鴻 英良(演劇評論家)
終了分
テーマ1:芸術の公共性を考える
公共性とは何か? ある個人の表現はいかに、なぜ、公共性を持ち得るのか? 芸術は公共性によって正当化されるのか? 個に根ざす芸術が、共同体の中で持ちうる意味を考えるシンポジウム。公と私、地域とアート、芸術の制度化、日本の文化政策が問われている今こそ、これらの根幹的問いかけに向き合う。
パネリスト
北川フラム(アートディレクター)
加藤種男(アサヒビール芸術文化財団事務局長)
相馬千秋(F/Tプログラム・ディレクター)
司会
内野 儀(演劇批評家)
テーマ2:演劇から都市を見る
かつて都市に生まれた演劇は、いま再び、都市と新たな関係を結びはじめている。世界にも例を見ないほど特異な都市空間・東京とその郊外、そして急速な変貌を遂げる東アジアの諸都市において、演劇はいかなるドラマトゥルギーを見出すのか? 「都市における演劇」と「演劇としての都市」、その歴史を振り返り、未来を構想する。
パネリスト
吉見俊哉(社会学者)
松田正隆 (劇作家 / 演出家)
福嶋亮大(文芸評論家 / 中国文学者)
司会
鴻 英良(演劇評論家)
パネリスト・司会者プロフィール
北川フラム
1946年生まれ。アートディレクター・女子美術大学教授。「ガウディ展」「アパルトヘイト否!国際美術展」等を手掛け、都市・建築・まちづくりにおけるアート計画など活動は多彩。「大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ2000-09」「瀬戸内国際芸術祭2010」の総合ディレクター。03年フランス芸術文化勲章シュヴァリエ受勲。06年度芸術選奨文部科学大臣賞、07年度国際交流奨励賞・文化芸術交流賞受賞。
加藤種男
1948年生まれ。アサヒビール芸術文化財団事務局長、社団法人企業メセナ協議会理事。アサヒビール社会貢献部門にてアサヒアートフェスティバル、アサヒビール大山崎山荘美術館の立ち上げなどに携わる。今年、東京都歴史文化財団エグゼクティブ.アドバイザーに就任。共著に『新訂アーツ・マネジメント』ほか。2008年度芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)受賞。
相馬千秋
1975年生まれ。F/Tプログラム・ディレクター。NPO法人アートネットワーク・ジャパン所属。主な活動に東京国際芸術祭「中東シリーズ04-07」、横浜の舞台芸術創造拠点「急な坂スタジオ」設立およびディレクション(06年-10年)、フランス文化政策研究など。最近では都市空間に演劇をインストールするプロジェクトをプロデューサー・ドラマトゥルクとして積極的に展開している。
内野儀
1957年生まれ。演劇批評家・東京大学総合文化研究科教授。専門は日米現代演劇。表象文化論学会理事、神奈川芸術文化財団理事、セゾン文化財団評議員。米国の学術誌"TDR"(MIT Press)編集委員。著書に『メロドラマの逆襲―<私演劇>の80年代』『メロドラマからパフォーマンスへ―20世紀アメリカ演劇論 』"Crucible Bodies" 等。
吉見俊哉
1957年生まれ。社会学者・東京大学大学院教授。専門はカルチュラル・スタディーズ、社会研究、メディア研究。財団法人東京大学新聞社理事長を務める。近代化に於ける都市文化やメディア文化、空間論を中心とし、著書は『都市のドラマトゥルギー―東京・盛り場の社会史』『「声」の資本主義―電話・ラジオ・蓄音機の社会史』『カルチュラル・スタディーズ』他、編著に『都市の空間 都市の身体』『1930年代のメディアと身体』他多数。
松田正隆
1962 年生まれ。劇作家・演出家・京都造形芸術大学舞台芸術学科客員教授。90 年、京都を拠点に時空劇場を結成。長崎弁を用いたせりふ劇『紙屋悦子の青春』『坂の上の家』『海と日傘』の長崎三部作で一躍注目される。96年『海と日傘』で岸田國士戯曲賞を受賞。97年劇団を解散、劇作家専業を経て、2003年にマレビトの会を結成。近年の主な作品に『クリプトグラフ』(07年)、『PARK CITY』(09年)などがある。
福嶋亮大
1981年生まれ。文芸評論家、中国文学者。現在は京都大学文学部非常勤講師。現代の消費文化の諸相、及びその東アジアにおける拡散を研究テーマとする。著書に『神話が考える――ネットワーク社会の文化論』。その他『ユリイカ』『思想地図』『新潮』などに論文を寄稿。
鴻 英良
1948年生まれ。演劇評論家。専門はロシア芸術思想。ウォーカー・アート・センター・グローバル委員、国際演劇祭ラオコオン芸術監督、舞台芸術研究センター副所長を歴任。著書に『二十世紀劇場―歴史としての芸術と世界』、共著に『反響マシーン―リチャード・フォアマンの世界』他、訳書にカントールの『芸術家よ、くたばれ!』(『死の演劇』、タルコフスキー『映像のポエジア』など多数。また『シアターアーツ』第一期編集代表、『舞台芸術』(1〜10号)編集委員を務めた。
佐々木敦
1964年生まれ。批評家。HEADZ主宰。雑誌『エクス・ポ』『ヒアホン』編集発行人。早稲田大学、武蔵野美術大学非常勤講師。著書に『ニッポンの思想』『文学拡張マニュアル』『批評とは何か?』他多数。近刊に『「4分33秒」から考える』『90年代論』『未知との遭遇』等。
飴屋法水
1961年生まれ。演出家・美術家。唐十郎主宰の状況劇場を経て、東京グランギニョル、M.M.M.を結成し機械と肉体の融合を図る特異な演劇活動を展開。90年代は活動領域を美術へと移行するも、95 年のベネチア・ビエンナーレ参加後、作家活動を停止。同年「動物堂」を開店し、動物の飼育・販売を始める。2005 年、「バ ング ント」展で美術活動を、07 年に『転校生』の演出(F/T09 春で再演)で演劇活動を再開。
市村作知雄
1949年生まれ。F/T実行委員長、NPO法人アートネットワーク・ジャパン会長、東京藝術大学音楽部音楽環境創造科助教授。山海塾の制作を経て、国内外のダンス・演劇公演のプロデュースやプログラミングを多数手がける。97年からはF/Tの前身である東京国際芸術祭のディレクターを10年間にわたり務めた。また経営者として多数の文化施設や団体、文化事業の運営に携わっている。
黒瀬陽平
1983年生まれ。美術家・美術評論家。カオス*ラウンジ代表。2010年に「カオス*ラウンジ宣言」を発表後、藤城嘘と共同企画「カオス*ラウンジin高橋コレクション日比谷」、「破滅*ラウンジ」を開催し様々な議論を呼ぶ。論文に「『らき☆すた』―空転するメタ意識」「キャラクターが、見ている」「新しい「風景」の誕生―セカイ系物語と情念定型」など。
隈 研吾
1954年生まれ。建築家・東京大学教授。97年「森舞台/登米町伝統芸能伝承館」で日本建築学会賞、同年「水/ガラス」でアメリカ建築家協会ベネディクタス賞、02年「那珂川町馬頭広重美術館」などでスピリット・オブ・ネイチャー(国際木の建築賞)受賞。近作は「サントリー美術館」、「根津美術館」(毎日芸術賞)など。09年フランス文化芸術勲章オフィシエ。著書は『自然な建築』『新・都市論TOKYO』など。
濱野智史
1980年生まれ。情報環境研究者。2005-06年には国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員を務める。著書に『アーキテクチャの生態系』、論文は「ニコニコ動画の生成力」(『思想地図』)があり、インターネットにおけるコミュニティを中心に手がける。2005年に国際大学GLOCOM研究員。2006年より日本技芸リサーチャーを務める。
高山明
1969 年生まれ。演出家。2002 年ユニット Port Bを結成。さまざまなジャンルの表現者と共同作業を行いながら、既存の演劇の枠組を超えた作品を発表する。F/T09 春では『雲。家。』『サンシャイン 63』の 2 作品を再創造・同時再演、F/T09 秋では、出会いカフェの形式を引用した『個室都市 東京』を発表し話題をさらった。その手法は「来るべきもの」としての現代演劇の可能性を提示する試みとして注目されている。