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本プログラムについて

F/T09春『blueLion』以来、約2年半ぶりの東京公演!

白井剛は、1996年よりダンスカンパニー伊藤キム+輝く未来の作品に出演、ダンサーとして研鑽を積むかたわら、Study of Live works 発条ト(ばねと)の設立に参加。2000年、24歳の若さでバニョレ国際振付賞を受賞し、04年にはソロ作品『質量, slide , & .』発表。06年にこの作品で、若手振付家の登竜門であるトヨタ・コレオグラフィーアワードの次代を担う振付家賞(グランプリ)を受賞した。近年では、ジョン・ケージの音楽を用いた現代音楽カルテット、アルディッティ弦楽四重奏団とのコラボレーション公演等のほか、08年より京都芸術センター「演劇計画」に参加し、2 年にわたる滞在制作を行っている。

歴史的建造物の中で紡がれる、音と身体、空間の奇跡的な対話

09年に同センターにて製作、10年に初演された最新作『静物画 - still life』。静寂の中に配置された身体と音が、空間を組み替えていく本作が、F/T11では歴史的建造物 自由学園明日館 講堂という空間のもとに再び描かれる。

転機ともいえる前作『blueLion』では、ダンサーに寺田みさこ、鈴木ユキオを起用し、人と人との関係性を対象化・抽象化する振付を試みた白井。本作では"ダンスが起こる瞬間に見える、おぼろげだけど確かな何か"を写生したい、と語る。画家がモデルに向けるような眼差しで、ダンスする身体やそれが起こる空間の質感や強度を捉えた時、ダンサー達の動きの残像が描くもの。それはダンスと他者、ダンスと音楽、ダンスと言葉、といった"ダンスツルギー"(=ダンスの振付方法)の発明に挑んでいる白井が見せる、新たなダンスの地平かもしれない。

共演に鈴木美奈子、高木貴久恵、竹内英明、そして元Noismの青木尚哉といったフレッシュな顔ぶれを迎え、白井自身も久々に出演する本作で、その進化を確かめたい。

創作ノート

テーブルの上にある、例えば"器"を写生するように。空間と時間と身体に配置された、"ダンス"という名の静物が、知覚のヒダに囁きかける。 白井剛

彫刻家アルベルト・ジャコメッティは、抽象表現に見限りをつけ、家族をモデルに写生を始める。「見えるものを、まさに見える通りに...」という意志のもと、描かれては塗りつぶされ壊され続けるうちに、なぜかその彫像は次第にボリュームを失い、遂にはマッチ箱に収まる程のサイズになってしまう。ならば骨組みの高さだけは変えない、という制約を設けて再び取り組むが、その造形は今度はどんどん細く薄くなってゆき、あの特徴的な、ひょろりとしたフォルムの立像や、薄く鋭い頭部をもつ胸像ができあがっていったという。

「見えるものを、見える通りに...」。そう願い向きあったとき、世界は無限の細部と奥行きを語りはじめる。例えその対象が静止していたとしても、観察者の意識は止まることはない。
「モデルと画家」という関係と「ダンスとダンサーと振付家」の関係。描かれようとする対象と、描こうとする意識。そこに表れる果て無き未完の造形。
私と出演者の一人とでスタジオに入る。一つの形/居方をスタートに、そこから次の動きや形を探す。それが決まったらまた次の動き、という作業をゆっくりと積み重ねる。その間、私は動きや形を相手に伝える為に、自分でやって見せ、ダンサーは私を見て自分の体に収めてゆく。次の展開を見つけるために、今度は私が彼の体を観察し真似てみる。彼の体を通過することで、体感が微妙に変化していたり新鮮な発見があったり。
絵筆を体に持ちかえて、画家とモデルのように互いを写生する。あるいは相手の体を鏡にして、自分の姿を確認する。"真似る"といっても、感覚の鋭いダンサーと向き合うと、その動作がどこを起点に、どこに重心を置いて、どういう感触をもってなされているのか、一つ前の状態からどう繋がっているか、詳しく観察しはじめるとても難しい。お互いに言葉を尽くす必要もでてくる。各々の体は違うから、完全に模写することは実際不可能ではあるのだが、無心に探りつづけるうちに、次第に自分と相手の身体の境界が薄れ、気づくとなにかを共有している瞬間がある。そして、そこに見出されつつあるその"なにか"を、より忠実に鮮明に描きだすことに集中し始める。そこに潜む必然に、次への連動に意識を凝らす。そうなったとき、"ダンス"は、踊ることにおいても創ることにおいても"自己表現"を超える。

モノの観察。そのモノに与えられている目的や方法をいったん忘れて、初対面してみる。銀のスプーンの傍らに立ち/座り/横たわり「これは何だろう」と、興味をもってみる。もぞもぞと体を動かすことを勉強中の赤ん坊に、はじめての「スプーン」なるものを配置してみるように。目に映る、 距離がある、触れようとする、口に含んでみたい、鼻で触れてみたい、耳に近づけてみたい。むこうからは近づいてこない。それともこちらを誘っているのか。足がピクッと反応する。試行錯誤の末、偶然にも遂に体のどこかが触れる。ひんやり、つるつる、カタカタ、ゆらゆら、キラキラ、スルリ、コトッ、...。ひとつずつ/一遍に、打ち明けてくる。私の皮膚/骨/重さ/柔らかさ/凹凸。まだよく知らない「スプーン」と、まだよく知らない私の「体」の内緒話を、邪魔しないようにこっそり聴く。

その本質において、そして最良の場合に、静物画というジャンルは、幼い子供時代の原初的で普遍的な経験を呼び起こす。静物画は「在ること」を「行うこと」よりも優位におき、知覚を解釈に優先させる。言葉なきものに仕えて、これを雄弁に語らせるのである。
―『静物画 STILL LIFE』エリカ・ラングミュア 著(高橋裕子 訳) より