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本プログラムについて

作品について

国民投票プロジェクトとは?

日本ではまだ一度も行われたことのない国民投票だが、「わたしたちの声」を抽出する方法として、国民投票は最も現実的かつ理想的なものではないかと考えている。
ただ僕が携わっているのは演劇であり、演劇なりのやり方で「わたしたちの声」を抽出することができるのではないかと考えた。これはフィクションであり、現実的な効力は全くないのだから、イエス/ノーで答える必要もなければ、敵と味方に分かれる必要もない。多数決が成り立たなくても一向に構わないわけである。また、国民投票では基本的に選挙権のある人しか投票することはできないが、僕らのプロジェクトでは選挙権を持たない未成年、子供、外国人など誰でも参加できる。さらに出来ることならば、生きている人の声だけでなく、すでに亡くなっている人やこれから生まれてくる人の声にも耳を澄まそうという考えである。国民投票ではこぼれてしまうような声までも掬いあげ、演劇ならではの方法で「わたしたちの声」を抽出すること。一ヶ月間のプロセス全体が「わたしたちの声」を抽出するための演劇アーキテクチャなのである。その声は個別で具体的でありながら「わたしたちの声」として体感されるものになるだろう。
国民投票プロジェクトとは、国民投票を演劇的に読み替えた「国民投票」である。 

高山 明

都内約10箇所および福島4都市(予定)への巡回プロジェクト!

本プロジェクトは映像インスタレーションを搭載したキャラバンカーで、1ヶ月間の開催期間中、都内約10箇所、および福島県内4都市へと巡回する予定です。戦後史の光と影を象徴するモニュメント、都市に宿る記憶と現在が交錯する風景、未来への回路が開かれた特異な場所・・・。都市の既存の場所や建造物と対峙しながら、本プロジェクトは私たちの過去・現在・未来を繋いでいきます。

トーキョー/フクシマ。中学生の「声」の集積が、未来への回路をひらく

本プロジェクトは、東京と福島にある複数の中学校や教育機関の協力のもと、総勢数百名もの中学生たちの参加を得て実施します。今、中学生たちは何を考えているのか? 彼らは今の社会をどう映し出しているのか? そしてその「声」は、いかに未来に向けて放たれるのか? 彼らの「声」に耳を傾け、そこから見えてくる私たちの未来への回路を探ります。

過去と未来を繋ぐ、多彩なゲスト陣を招いたフォーラムを連日開催!

本プロジェクトでは、議論の場を作り出すこと、またそこで語られる言葉自体も演劇プロジェクトの一部ととらえ、巡回地ごとに多彩なゲストを招いたフォーラムを連続開催します。日本の戦後史とともに大きな歩みを刻んできた著名な思想家、詩人、建築家、ジャーナリストらを論客に迎え、演劇の想像力を未来へと接続するための思想や方法を探ります。

劇評より

『個室都市 ウィーン』

『個室都市ウィ-ン』のインタビューは、人生の意味や死などをテーマに扱っているといえる――。この作品は大変興味深い発想で、通常想定しうる個人の演劇体験をはるかに越えた効果をもたらしている。  

Barbara Petsch (Die Presse紙、2011年5月23日)

『個室都市 ウィーン』は、日本社会の退廃や、失われた豊かさをテーマに扱っている――。この作品では、観客はDVDの鑑賞を通じて日本人の実存的な恐れを知ることができる。  

Werner Rosenberger (Der Kurier紙、2011年5月23日)

楽観的な人は演出家、高山明に未来の日本人の姿を重ね合わせるかもしれない――。
高山は、日本を自分らしいやり方で変えることを、野心的にも決断した――。  

Peter Kümmel(Die Zeit紙、2011年5月19日)

巨大な震災以降の日本社会の断絶は、もちろん演出家、高山明のパフォーマンス・インスタレーションに影響を与えたであろう。しかし、『個室都市 東京』のそもそもの創作のきっかけは、日本の個室ビデオ店で起こった放火事件という、「小規模な震災」だった――。  

(Der Standard紙、2011年5月24日)

高山明は、彼の全てのプロジェクトにおいて日本社会を批判的に捉えていく――。岡田利規(チェルフィッチュ)と、三浦大輔(ポツドール)がそれぞれ示す、日常のリアルな倦怠感や、弱い身体性、動物的な存在証明ともいえるセックスシーンなどに顕著な、激しいパフォーマンスと比べれば、高山の作品は表面的には軟らかく見える。ただ、そう見えるのは表層でのことだけだ――。
日本のインタビュー映像で一番彼の興味を引くものは、人が嘘をつき、自分らしくない答えをするところだという――。このインタビュー映像は10年後、震災前、福島の原発事故に根底では繋がっている日本社会の状態調査として見ることができると、彼は考える。   

Egbert Tholl(Süddeutsche Zeitung紙、2011年6月10日)

                       

創作ノート

『Referendum(国民投票)』

2011年3月11日に起きた東日本大震災から3ヵ月以上が経った今も、福島第一原発は収束の気配すら見せず危機的な状況が続いている。そんななか、原発をどうすべきか国民投票をやって決めようという声が聞かれるようになった。しかし、かつて日本で国民投票がなされたことはない。ならば"模擬モデル"となるような「国民投票」をやってみてはどうか。どうすれば実現できるかという手続きも含め、演劇プロジェクトとして実験してみてはどうだろうか。これが今回のプロジェクトの出発点である。

そこでまず参考にすべきはオーストリアの例で、ウィーン郊外のツベンテンドルフに建設された原発は、国民投票により一度も使われないまま廃炉になった。この事例を参照しながら、国民投票とは何か、日本ではどのような手続きを踏めばよいか、国民投票を実現させるためには何が必要か、といったテーマについて憲法学者や法学者や政治学者等からレクチャーを受け、その成果をマニュアルに纏めていく。

そうしたプロセスを踏まえ、「国民投票」の"模擬モデル"を提示するわけだが、これは演劇なのだから実際にどんな結果が出るかはさほど重要ではない。そこに何の効力もないからである。より重視すべきは、「みんなの声」とは一体何なのか、どうすれば抽出できるのか、国民投票という意思決定システムに問題はないのか、といった問いを深めていく作業だろう。「みんなの声」は生者の声だけでは不十分かもしれない。今こそ死者の声に、地震や津波や原爆や原発事故で亡くなった犠牲者の声に耳を澄ます必要があるのではないか。さらにこれから生まれてくる未来の声に耳傾ける作業だって不可欠に違いない。それらをすべてひっくるめた「声」こそが「みんなの声」ではないのか。そうした「みんなの声」を抽出し、知覚可能にするような演劇的アーキテクチャを作ることが目指される。そのとき各人の「声」は"重み"を増したものになるだろうし、それが集まって「みんなの声」になるのであれば、たとえそれがフィクショナルな声であったとしても、現実に届く声になるかもしれないのだ。

また、原発について、原発を通して見えてくる社会の在り方について、多面的に考察するための素材として、さまざまな人にインタビューを行いたいと考えている。これも声を集める作業だが、すでにマスコミに流布している声や、制度の内側で安定している声を集めても大して意味はないだろう。賛成・反対を叫ぶ声高なメッセージにも興味はない。私が拾い集めたいと願うのは、私たちが聞きのがしがちな小さな声、沈黙を強いられている声、そして私たち自身が耳を塞いでいるために聞こえない声たちである。

高山 明