「70年物」の身体が語る、個と歴史、わたしたちの現在
2009年7月、伊丹市立演劇ホール(アイホール)で初演された本作は、昭和15年頃までに生まれた「エルダー世代」(70歳以上)を条件に集まった伊丹の地域住民の参加者と、映画・舞台の両ジャンルを横断的に活動する新鋭アーティスト・相模友士郎の共同作業によるもの。27歳の演出家と、72歳から上は96歳の7名の参加者(出演者)、ひとりの20代の俳優が対話を中心とした半年以上の時間を共有し、それぞれの体験から「DRAMA/劇」を集め、「ANTHOLOGY/選集」に構成、さまざまな人生の記憶、想いが行き交う『DRAMATHOLOGY/ドラマソロジー』をつくりあげた。
作品は、70歳以上の出演者たちが自らの「死」のイメージを語るところから始まる。と同時に、ひとりの若い女性が海に沈んでいく映像がスクリーンに映し出され、やがてその抜け殻のような身体が舞台に現れる。
そのかたわらで年長の出演者たちは、ひとりずつ「わたし」について語り始める。
「わたしは 42年間サラリーマン生活をしました」
「わたしは 小学校のとき好きな男の子がいました」
「わたしは 高麗人参のおかげで一年で7kg痩せた」
・・・・・・
相模は、このように語られる個人個人の回想の内容そのものではなく、その語ろうとする現在(いま)の身体の中に、個人史が紡ぎだされた「わたし」の集積を発見していく。やがてそれは、一人ひとりの個人史を超え、現実と虚構の境を曖昧にしながら、「わたしたち」の記憶=歴史へと駆けあがっていく。
70歳以上の人口が2,000万人を超える超高齢化社会に突入している現代。20代と70歳以上の世代の魂が交錯する中に「わたしたち」の生と死が鮮やかに照らし出される、その奇跡的な瞬間に観客は立ち会うことになるだろう。
★【F/Tマガジン】対談 飴屋法水 × 相模友士郎
創作ノート
聞くためでなく聞き、視るためでなく視る。すべては「語り出す」ために。まるでマイクやカメラのように録る/撮る記録装置としての身体。ふとそのような言葉が浮かぶ。
今回の出演者たちは主に舞台経験のない70年以上の年齢を重ねた「エルダー世代」と呼ばれる人たちだ。70年以上もの生活のなかで様々な経験をしてきたであろうその人たちとの共同作業は自分自身について話してもらうことだった。しかしながら、様々なものを聞き、見てきたその固有の体験は言葉によって語られた途端、どこかで聞いた誰かの話として普遍的な物語に回収され、否応なくその固有性を奪い去られていく。「語る」ことによって個人史は表象不可能性へと導かれざるを得ないとしたら、個人史的事実とはどこに依拠するものなのだろうか。それは、記録装置としての身体がいままさに誰かに「語り出そうとする」その現在形の身体にあるのではないか。 その「語り出そうとする」ことしか出来ない身体の隙間から、不気味な何者かが語り出す瞬間に出演者、観客とともに立ち会うことが出来ればと考えている。
相模友士郎
メッセージ・寄稿
高嶺 格
この作品において驚くべきことは、高齢の参加者が、ちゃんと高齢者として扱われていることだ。
輪郭のピンと立った出演者の背後に、常に繊細にぼかされた広大な景色が見える。高性能の単焦点レンズを通して見た世界のように。
高嶺 格(たかみね ただす)
1968年鹿児島生まれ。1990年代初頭より、パフォーマンスやインスタレーション、ビデオから工芸的手法まで、多彩なアプローチの作品を発表してきた。美術のフィールドでの活動だけでなく、舞台作品の演出、コラボレーションも数多く手掛ける。「性」の問題などにも触れながら、異なる背景や価値観をもつ他者への接触と困惑、更に相互理解を志向するプロセスを真摯に表現する。
細馬宏通
70代から90代までの「エルダー世代」、それも一般公募の参加者が芝居をする。それも自身の経験談に基づきながら。そう聞いて通常思いつくのは、それぞれの方々が思い出を語るというやり方であり、語り手自身のオーラや雰囲気からドラマを産む、というやり方だ。
が、この劇は、そうではない。
相模友士郎は出演者に何度もインタヴューを行い、入念に経験談を引き出す作業を行っている。しかし、これは、舞台の上でただ経験談を「語る」という作品ではない。それぞれの出演者の語ったことばはテキスト化され、出演者はそれを改めて「読む」。テキストにはかなり編集が加えられており、必ずしも時間の順序で並んではいない。本人の語ったであろうことばにはすべて「わたしは」という主語がつけられる。どの出演者も自分のことを「わたし」と呼ぶ。「わたしは ○○歳です。」「わたしは昭和○○年に、長男を授かりました。」「わたしは戦後すぐ、駅前で・・・」。七人の出演者が語っているはずなのに、読み上げられることばは「わたし」という一人のもとに途切れ途切れの人生として連鎖していく。
「語る」のではなく、「読む」ことによって、ことばとことばを語る人とのあいだに距離が生じる。「わたしは」と主語を付けることによって、叙述特有の、第三者性が生じる。不思議なことに、「わたしは」と言えば言うほど、わたくしごとではなく、人ごとに響く。人ごとに響かせることで、わたくしごとの軛(くびき)を離れる。思い出が、別の誰かの思い出と自由に結びついていく。
この、誰のものでもなくなっていく思い出に、人生経験を積んだ出演者はいかなる声、いかなる身振りによって応じてゆくだろうか。この作品のみどころである。人の生は、思い出だけでなく、思い出との距離の取り方に顕れるからだ。
細馬 宏通(ほそま ひろみち)
1960年生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了(動物学)。滋賀県立大学人間文化学部教授。専門はコミュニケーション論。著書に『浅草十二階』『絵はがきの時代』『絵はがきのなかの彦根』など。バンド「かえる目」を率いての音楽活動も精力的に行っており、CD『主観』『惑星』などをリリースしている。