フェスティバル/トーキョー トーキョー発、舞台芸術の祭典
愛情こそが肌の色と年齢と宗教の壁を越える・・・この完全すぎるカップルが、猜疑と嫉妬の修羅場へと転落してゆくさまを描く『オセロー』は、シェイクスピア4大悲劇のうちで最もダイレクトな「愛の物語」である。
この美しくも残酷な戯曲を、平川祐弘は、オセローに殺された妻デズデモーナの霊が思い出を生き続けているという設定で、能の台本に書き直した。それによっ
て生まれたのは、目をそむけたくなる嫉妬に観客に突きつけてくる原作とは趣を一変させた幽玄な世界。不貞を疑われ、その誤解からオセローに首を絞められた
デズデモーナが、しかし、その殺しの瞬間にこそ最もオセローと近づいていたという、この男と女のパラドクス。その一瞬こそが人生で最も大切な時間となり、
デズデモーナの霊はその一瞬に支えられて存在し続けているのだ。
愛情というものを、その破綻の側からとらえ返したときに立ち現れる希望。愛情への希望がおしなべて冷笑される時代に、こうして希望はよみがえり、見るものを襲う。
初演は、ク・ナウカ シアターカンパニー(演出:宮城聰)により、東京国立博物館庭園の野外ステージにて上演された。今回は、韓国現代演劇界を代表するカリスマ演出家、イ・ユ ンテクの演出のもと、ク・ナウカ シアターカンパニーの初演時の中心俳優とイ・ユンテクの劇団(演戯團コリペ)の主要俳優という日韓俳優のコラボレーションにより、シェイクスピアの『オセ ロー』に新たな生命を吹き込む意欲作となる。宮城が"日本の演劇の強み"を追求してゆく中でたどりついた、夢幻能形式による『オセロー』という題材を、 イ・ユンテクが、韓国のシャーマニズム舞踏(招魂クッ)を取り入れた新演出で上演するという、アジアにおけるシェイクスピア上演の一つの指針を示す、壮大 で画期的な試みとなる。
韓国ではシャーマニズムが古代から民間信仰として深く根付いている。これは一つの共同体が豊作祈願や雨乞いなど、集団で天に祭祀を捧げる祭天儀式と密接な関連がある。
韓国のシャーマニズムはムーダン(巫堂)を仲介にして人間の問題を解決しようとするところにその特性がある。このような特性はいまでも韓国の随所に残っているさまざまな形態のクッ(巫祭)から見ることが出来る。
クッ(巫祭)はムーダンが霊魂に歌か踊りとともに供物を捧げ、人間世界の幸運を祈る儀式を意味する。また、クッの形態は各地域ごとに若干の差があり、また種類と目的によって巫楽の拍子がいろいろと組立てられる。
本作「オセロー」の中では、作品の随所に、このクッで用いられる歌と踊りが日本語の歌詞に訳され演じられる。
―今作の見どころやチャレンジポイントについてお聞かせ下さい。
ユンテク;この作品のハイライトは、夏目漱石の句です。漱石先生がオセローについて詠まれた句です。その句をまた、平川先生が引用され、今回それを私が演出させていただきます。
私はこの作品に韓国のシャーマニズムを盛り込み、「魂との対話」という形に処理しました。日本の観客にとっては、そこが新鮮だろうと思います。
宮城さんが最初に、日本の伝統芸能である能の様式とその表現を取り入れて、『夢幻能オセロー』というものを演出されました。それを私が今回再演出すること
になり、私は韓国の「クッ」という祭劇の形式を入れることにしました。日本の能は、もともと死んだ人や神、この世に存在しない幽玄の世界のもの、いわば夢
ともいえるようなものだと思います。また、韓国の伝統であるシャーマニズム、これは巫女のことですが、この巫女が死者と対話をする、魂との対話ですね。能
の形式と、このシャーマニズムの「クッ」の形式を出会わせることによって、文化層の主義的なものが出会うのです。
ただ、この手法というのは大変危険な作業になるだろうと思います。なぜならば、シェイクスピア劇というものに、日本の伝統的なものを掛け合わせている芝
居、そこにさらに韓国の伝統を加えたら、ただの見世物に転落してしまうのではないか、そういった危険性があるということです。ですが、この作業は私にとっ
てはかえって楽しい作業です。なぜならば、そもそも西洋演劇の源流にはデュオニュソス祭というのがありますけれども、これは日本の祭りとも、そして韓国の
クッ、これは祭劇ですから、そういったものに通じると思うからです。
つまり、世界は一つだということです。全て祭りというもの感じ方というのは同じだと思うからです。ですから、シェイクスピアであろうと日本の伝統であろう
とクッであろうとシャーマニズムであろうと、源流は全て同じだと、意思疎通のできる道というものはあるはずだと。その道を探す作業、これは大変難しいです
けれども楽しい作業だと思っています。
―ソウルと東京の二つの会場で公演することへの意義や抱負について、お聞かせ下さい。
ユンテク;2008年の8月に、私は韓国で『スンシン』という音楽劇を終えてきたばかりですが、これは、昔の日本と韓国の戦争を取り扱っています。
当然日本の将軍などが出てきますし、韓国の将軍なども出てきます。そこに私は、日本の鬼太鼓座の方々をお呼びして、一緒に太鼓を叩いていただいたんです。
でも実は、この話を自分が上演、演出をするにあたって心配をしていました。なぜならこれは戦争の話であり、また、国家間の葛藤について描かなければならな
い作品だからです。ですが実際公演が始まってみると、鬼太鼓座の皆さんがふんどし一丁で叩く太鼓は、大変戦闘的なのですが、韓国の観客は歓声を上げて立
ち、拍手をしました。つまり、今はそういう時代です。
日本と韓国の伝統というものが、共存する作品、そういうものを創り得るということです。
私は今回の作品でも、文化は美しい、国家、主義を超えて文化というものは共存しうるということをぜひお見せしたいと思っています。それが文化の力である、と。それこそがこの作品の意義です。
(2008年9月30日 F/T事務局取材)