フェスティバル/トーキョー トーキョー発、舞台芸術の祭典
未上演にして日本劇作家協会新人戯曲賞にノミネートされた『通過』の劇作家デビューから、新作発表のたびに注目を集め続ける松井
周。劇団「青年団」に所属し、俳優として主宰・平田オリザが提唱した"現代口語演劇"を体現してきた松井は、岡田利規、三浦大輔、前田司郎に代表される、
演劇・ダンス・小説などのジャンルを横断し注目を集める新世代のアーティストたちと並び、劇作家・演出家として強烈な同時代性を持つ作品を発表している。
現代人の希望や絶望をサンプリングするかのように舞台に上げ、現実と虚構の境界を行き来しながら、その価値さえも反転させる世界は、演劇におけるリアリズムを根本から問い直し続け、新たな演劇の未来を予感させている。
今回の公演では、2005年のドイツ・シャウビューネ劇場来日公演が記憶に新しいマリウス・フォン・マイエンブルグ作『火の顔』を演出。自身が主宰する劇
団「サンプル」公演の近作『家族の肖像』において、"家族なき時代の家族"をつくりだすことを試みた松井が、どこにでもあるドイツ中流家庭の崩壊と狂気が
描かれた本作と日本とを、どのように接続させるのか。その"作為"に観客はたちまちに引きずりこまれていくだろう。
1998年、マリウス・フォン・マイエンブルグがベルリン芸術大学在学中に執筆した処女戯曲『火の顔』は、ドイツ・ミュンヘンで初演され、その後ド イツ各地の劇場で上演された。シャウビューネ劇場来日公演では、トーマス・オスターマイアーによる洗練された演出で上演。自傷、引きこもり、親殺しなど、 現代日本の抱える問題と戯曲世界の強い関連性が、日本の観客を驚愕させた。
父、母、姉、弟、一見何不自由なく暮らしている家族。両親は子どもたちにやさしい笑顔で接しているが、そこに真の意味の相互理解が欠けていることが わからず、両親と子どもたちの間のコミュニケーションは完全に断絶している。弟のクルトは火の哲学に惹かれ、物事の表面しか見ない両親を侮蔑する。危うい 平衡を保っていた家族は、姉オルガの恋人パウルの訪問をきっかけに崩れ始める。そんなとき、クルトが火傷をする事件が起きて・・・。
ここに出てくる家族をことさら歪んだものとして描こうとは思わない。 彼らのディスコミュニケーションの裏には依存心が見え隠れしていて、滑稽ですらある。スカスカの軽さがある。でもそれは日本の家族だって同じだろう。日本だけでなく、どこの国の家族にも通じるかもしれない。 その一方で彼らは成熟することを望む。しかし、そのモデルが親にも子供にもわからない。親も子供も近代的自我、つまり「個人」になることができない。 「依存と成熟に引き裂かれた家族」とはやっぱり現代の家族のテーマであり、だからこれは普通の家族の物語なのだ。 モデルがない中で家族を演じ続けようとする彼らは悲劇的であろうか?いや、そんなことはない。彼らの中にちらちらとほの見える欲望の炎に希望を見出すことは決して不可能ではない。俳優の身体がそれを証明すればいいわけだ。
松井 周(サンプル)