F/T13

FESTIVAL TOKYO 13

物語を旅する

F/Tプログラム・ディレクター
相馬千秋

物語は、人類のあらゆる時代、社会の中に存在している。古くは神話や民話、年代記から、寓話や宗教の教典、小説や戯曲に至るまで、人類は実に多様な物語とともに文明や共同体を築いてきた。実際の出来事に基づくものから奇想天外なフィクションまで、人間の想像力が紡ぎだしてきた無数の物語は、時代や空間を超えて受け継がれ、様々なバリエーションに進化しながら、テレビ、マンガ、ゲーム、コマーシャル、マーケティング、ネット掲示板、都市伝説など現代のあらゆるメディアや語りの中に入り込み、私たちの行動や精神に深く作用している。

また物語は、共同体においてのみならず、私たち個人が生きていく上でもなくてはならないものだろう。私たちは普段、「わたし」という物語を絶え間なく更新しながら生きているが、そのことを敢えて意識する必要はない。だがある瞬間、その物語が何らかの理由で断絶し、継続不可能になったとき----、突然日常に亀裂が入ったとき、大切な人を亡くしたとき、自分の心身が危機に陥ったとき----、私たちはそれまで自分が紡いできた「わたし」という物語の存在とその損失を前に、再び自分自身に問いかけるだろう。「私(たち)はどこから来たのか? 私(たち)は何者か? 私(たち)はどこへ行くのか?」と。そして再び、「私(たち)」という物語を紡ぎ始めようとするのではないだろうか。

哲学の世界では、かつてジャン=フランソワ・リオタールという思想家が「大きな物語の終焉」を提唱し、近代社会を普遍的に規定する価値観や歴史、社会システムといった大きな枠組が相対化された。しかし、それから30年後を生きる私たちは、現実の世界において「大きな物語」が終わることなどないことを知っている。どんなに世界が断片化し、「小さな物語」が無限に乱立しようとも、人々は依然「大きな物語」の不在に耐えることはできず、むしろより単純化され「大きな物語」を捏造し、しがみつこうとする。3.11以後を生きる私たちは、こうした時代の空気感を感じながら、あらためて「物語」の役割と表現について考えていかなければならないだろう。物語とは何か。それを語る主体とは誰か。そもそも、その物語を語る権利は誰にあるのか。単純な共感や同化、同調のための道具ではない物語とはどんなものか。メディア環境の劇的変化にしたがって、物語の生成・消費・再生の有り様も変容した今、演劇というメディアには、いかに物語を語り続ける可能性が残されているのだろうか。

これらの問いと向き合うために、今回のF/Tでは、「物語を旅する」というテーマのもと、時代と空間を超えて様々な物語と出会い直していきたい。遠い歴史から未来のフィクションまで、個人の小さな物語から壮大な神話まで、人間の想像力が生み出した多様な物語を縦横無尽に巡る旅を経て、私たちはいかに、私たち自身の物語を語り、未来に向けて更新することができるだろうか。

3.11は、私たちに現実が虚構を超えてしまう恐怖と虚無感をもたらしたが、そもそも人類はこれまでも幾度となく、コントロール不能な自然や語り得ない歴史を経験してきたはずだ。その度に人間は、事態を乗り越えて再び世界を構築するために、あらゆる想像力を駆使してフィクションを生み出してきたのではないだろうか。オーストラリアの劇団バック・トゥ・バック・シアターは、ヒンドゥー教の神ガネーシャが、ヒトラーに奪われた幸福の象徴、卍の紋章を取り戻しに時空を超えて旅をするという奇想天外なフィクションによって、ファシズムへの批判をユーモラスに描き出す。昨年、竹を使った大胆な野外パフォーマンスでF/Tアワードを受賞したナンダン・アラデア率いるシアタースタジオ・インドネシアは今回、1883年に発生し世界を衝撃と混乱に陥れたクラタカウの大災害の史実から着想を得、人間と自然の拮抗を神話的なフィクションへと昇華させる。一方、3.11以後の日本において、複数の表現者がリアリズムからフィクションの探求へと興味を移行させ始めたのは単なる偶然ではないだろう。20世紀ロシア映画の巨匠アンドレイ・タルコフスキーは、チェルノブイリ原発事故が起きる以前に『ストーカー』『サクリファイス』といった映画において核の脅威を予言的に描いたことで知られているが、今回劇作家・松田正隆と演出家・松本雄吉は、タルコフスキーのイメージを引き継ぎながら、フクシマ以後を映すあらたなフィクションの創造に挑戦する。チェルフィッチュの岡田利規も、震災後に書き下ろした『現在地』において、ある共同体に去来する目に見えない変化と不安を前にした心の揺らぎを、SF的な手つきで浮かび上がらせる。これらの作品を通じて、再び演劇におけるフィクションの力を考えてみたい。

また演劇は古くから、神話や宗教の教典などと並び、その時代や共同体で必要とされる物語を、戯曲というメディアを通して継承する役割を担ってきた。ギリシャ悲劇から近代戯曲、日本の古典戯曲に至るまで、古今東西に存在する戯曲は、いわば「物語のデータベース」として時代や地域を越えて共有され、実に多様な形態や文脈の中で、時代や社会に応じて活用されてきた。このような戯曲の豊かな有り様は、今日でも多くの表現者の想像力を刺激し、そこにあらたな解釈や介入を生み出している。二次創作、N次創作とも言われるこうした物語の拡張性を、今、演劇の想像力はどのように引き継ぎ、発展させることができるのだろうか。この問いを考えるために、これまでにも数々のクリエイターが挑み、江戸の世から語り継がれてきた物語『四谷怪談』を素材にした創作を二組のチームに委嘱した。古典芸能への深い知識と興味から歌舞伎の再創造を目指す木ノ下裕一率いる劇団・木ノ下歌舞伎は今回、演出に杉原邦生を迎え、四世鶴屋南北の歌舞伎狂言『東海道四谷怪談』を同時代の群衆劇として提示する。これまでも海外戯曲の大胆な翻案を手がけてきた中野成樹は、ドラマトゥルクの長島確との共同作業で、『東海道四谷怪談』の原典とされる『四谷雑談集』に注目し、実際に起きた史実としての「出来事」と、『四谷雑談集』から浮かぶ「物語」、今回あらたに中野に自身によって創作される「フィクション」の3つの層を、江戸/東京の都市空間の中にインストールする。江戸/東京の時空や複数の登場人物たちを横断しながら、私たちはどんなパラレルワールドを体感することができるだろうか。また、これまでもドラマやキャラクターにこだわり現代の寓話を創り続けてきたサンプルの松井周は今回、ギリシャ悲劇の「オイディプス」の二次創作として、動物や植物、人類を横断する生命倫理の問題に深く切り込む物語の創造に取り組むことになる。

一方、歴史や国家システム、イデオロギーなど、近代社会の中で人間が生み出してきた「大きな物語」は、私たちの生活や思考、共同体に共通の秩序や枠組みを与える反面、そこに属さない人々、そこからこぼれ落ちる匿名の「小さな物語」をかき消してしまう危険性も孕んでいる。震災後に日本を覆い尽くしたスローガンや政策、歴史認識の違いから強まる隣国との緊張関係なども、ともすれば安易な「大きな物語」へと回収されないとも限らない。そのとき演劇は、その誘惑に抗して、いかに固有の物語、複数の物語を紡ぎ直すことができるのだろうか。この問いに対するアプローチとして、「アラブの春」という大文字の歴史の渦中にある中東・アラブ地域から、ラビア・ムルエらによる3つの最新作を特集する。アラブの春に失望した架空のアーティスト/アクティビストの自死、レバノン内戦で障がいを負ったムルエの実弟の人生、泥沼化するシリア内戦での市民ジャーナリストたちの死。これら3つの物語は、それを表象するソーシャルメディアへの鋭い分析も内包しながら、私たちの前に物語/歴史に対するミクロで鋭い視点を提示するだろう。また昨年の連続上演で話題を呼んだオーストリアのノーベル賞作家、エルフリーデ・イェリネクは、『光のない。』『光のないII(福島--エピローグ?)』に続き、『光のない。(プロローグ?)』という短編戯曲を発表した。フクシマ以後の世界にさらなる一石を投じるこの戯曲の演出を、今回あらたに2人の作り手に委嘱する。宮沢章夫は今回、能の形式を参照しながらイェリネクの言葉と死者の世界を結びつける試みに挑戦する。また小沢剛は、美術家ならではのアプローチとして、イェリネクの言葉を視覚的に受容するインスタレーション/パフォーマンスを創作する。イェリネクの言葉を引き受ける2人の作り手は、フクシマ後という途方もなく大きな物語に対峙しながら、私たちの眼前にどんな仮想世界を出現させてくれるのだろうか。さらに「物語を語る」という行為そのものの考える視点として、ティム・エッチェルス率いるフォースド・エンタテインメントの作品を紹介する。そもそも「物語を語る」とはどういうことか? 誰がその物語を語る権利があるのか? 物語を語ることの可能性と不可能性が、脱臼と脱線のユーモラスなパフォーマンスから浮かび上がってくるだろう。

私たちが生きる都市にも、物語を生成する潜在力が蓄積されているはずだ。ドキュメンタリー演劇の先駆者リミニ・プロトコルは今回、東京23区の統計データから抽出された100名の一般市民を舞台に上げ、東京という都市に生きる人々の生態やメンタリティを巧妙にトレースし可視化する。また、これまでも社会と演劇を切り結ぶ独自のOSを発明し続けてきたPort Bの高山明は、アジア諸地域から様々な理由で東京に移り住んでいる移民や留学生達のコミュニティを巡り、そこで語られる物語/歴史に耳を澄ます旅を観客と共に作り上げる。これらの演劇的仕掛けを通じて、私たちが生きる都市「トーキョー」に堆積する膨大な個人の物語と集団の無意識が浮かび上がってくるに違いない。アジアからの移住者が増え続ける一方、特定のアジアコミュニティに対する明らかな差別や排斥も散見される今日の日本で、「内なる他者」としてのアジアをもう一度、歴史と未来の接点から捉え直す作業は緊急の課題でもあるだろう。

今回で4回目を迎える公募プログラムにおいても、この課題と向き合いつつ、引き続きアジアにおける創造と批評のプラットフォームとしての機能を高めていきたい。アジア各地から若い才能が東京に集い、未知の観客や批評と出会うこと。そこから対話が生まれ、相互に差異を認識し合うことで、あらたな創造のダイナミズムをアジアへと還元すること。そのようなビジョンのもとに実施される公募プログラムでは、今回アジアから集まる9組のアーティストや批評家、観客との対話はもちろん、アジアのフェスティバルや劇場といったイニシアティブとのパートナーシップを強化し、アジアにおけるクリエーションと批評の質の向上を目指していく。

また今回から、あらたに「F/Tオープン・プログラム」を立ち上げる。これは文字どおり「フェスティバルを開いていく」ために、地域にある既存のイニシアティブやネットワーク、様々な文化的・商業的な資源との連携のもと、より多様な人がフェスティバルを楽しみ、参加する企画を集中的に展開する取り組みである。F/Tの開幕を告げるF/T13オープニング・イベントや、地域コミュニティも巻き込んだF/Tモブ・スペシャル、さらに今回のメインビジュアルにも起用したイラストレーター岡村優太によるイメージが池袋の街にあふれるフラッグプロジェクトなどによって、F/Tはさらに都市に浸透し、都市を覚醒させ、都市と戯れることになるだろう。また美術家の椿昇が考案する巨大オブジェがフェスティバルのシンボルとして出現、F/Tで上演される様々な物語との化学反応を引き起こしながら、フェスティバルという場自体を盛り上げていくことになる。

これらの試みを通じて、今回のF/Tでは、これまでの5年間の蓄積の上にさらなるミッションの再定義を行いたいと考えている。現在、「新しい価値を創造・発信するフェスティバル」「多様な人々の出会いと対話の場としてのフェスティバル」「アジアにおけるプラットフォームとしてのフェスティバル」という3つのミッションのもとに設計されているF/Tは、基本的にクリエーション型のフェスティバルであり、アーティストとの持続的な信頼関係に基づく作品の創作・発表を基礎としている。このようなF/Tの根本理念について、またそこから派生する実践について、よりオープンに議論するシンポジウムを開催する。そこでは改めて、フェスティバルが立脚する公共文化政策の根本理念とそれが担保すべき表現の自由と責任について、歴史と世界を参照しながら捉え直すことになるだろう。こうした開かれた議論を経て、このフェスティバルが未来へと継続されるあらたな物語/歴史を、そこに集うすべての人々と共に紡ぎ始めることができたらと願っている。

相馬千秋 Chiaki Soma
1975 年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フランス・リヨン第二大学・大学院で文化政策およびアーツマネジメントを専攻。2002 年よりNPO 法人アートネットワーク・ジャパン所属。主な活動に東京国際芸術祭「中東シリーズ04-07」、横浜の芸術創造拠点「急な坂スタジオ」設立およびディレクション(06-10年)など。2009 年F/T 創設から現在に至るまで、F/T全企画のディレクションを行っている。2012 年度より文化庁文化審議会文化政策部会委員。
相馬千秋