それ故、日本の演劇は国際交流基金(以下JF)がタイへ持ってきた作品くらいしか観たことがなかった。JFがバランスよくトラディショナルなものとコンテンポラリーな作品を紹介してくれたことは、タイの演劇好きにとっては幸運なことだった。JFの予算は限られたものだったにもかかわらず、その時我々は歌舞伎と落語、そして平田オリザと野田秀樹の作品を観劇することができたのだ。とにかく、劇場やテレビの世界でプロとして働く私の元教え子たちは、平田オリザのワークショップに参加し、そこで学んだことを未だよく記憶している。そして後に、大学にあるブラックボックスシアターで上演された『東京ノート』を観劇しているのだ。同様に、タイの演劇好きや批評家たちの多くも野田秀樹の『赤鬼 タイバージョン』をここ10年来のベスト作品として評価している。
昨年、国際演劇評論家協会、ジャパン・センターとフェスティバル/トーキョー(以下F/T)が共同開催した会議「国際共同制作と批評の役割」に参加し、『赤鬼』についての所見を述べた。『赤鬼』はタイ現代演劇のスタイルに影響を与えただけでなく、様々なグループのアーティストを参集させ、後に10年以上に渡ってタイの現代演劇界の中心を担うバンコク・シアター・ネットワークを組織するきっかけとなった。そういった講演と会議へ招待されたおかげで、未だ円高ではあったが、私はついに成田空港の関税を通過したのだった。タイの通訳やガイドからJRと地下鉄についてのオリエンテーションを受けてからというもの、PASMOの便利さや、想像していた以上に英語の標識やレストランのメニューがたくさんあることに気づかされた。日本とタイの演劇交流においては、近頃はそれぞれの国のアーティストたちが取り組んでいるものを単純に見せ合うだけにとどまらない。日本とタイのパフォーマーによるF/T09春の『コウカシタ』(振付:井手茂太)は、その後バンコクで上演された。また、タイのプロダクションで行われた野田秀樹の『農業少女』と『赤鬼』はバンコク・シアター・フェスティバルで初演された数週間後、F/T09秋の参加作品として上演された。大変興味深いことに、私が日本で初めて観た作品は、東京芸術劇場にて上演された『農業少女』だったのだが、その際、日本語は観劇の障害にはならなかった。なぜなら、すでにタイ語に翻訳されたものを観ていたし、私が勤務しているチュラーロンコーン大学とのインターネット配信によるトークセッションも開催されていたからだ。
F/T11の批評家インレジデンスに参加した10月下旬から11月上旬までの10日間は、私にとってユニークで特別な時間だった。一日に一、二作品を観劇したが、強烈な印象を残すコンテンツや演劇スタイルのおかげもあり、なんとか正気を保つことが出来た。--来日の一週間ほど前、洪水によって家から初めて避難しなければならなかったのだ。そして素晴らしい演劇は感情をも凌駕することを証明してくれた。F/Tの英語版ウェブサイトやEメールも公演中とても助けになった。それは、日本がアジアや世界にむけてより開かれてきているように、F/Tがより国際的になってきていることを再認識させてくれた。しかし英語字幕が付いている公演が限られているため、日本語を話さない観客たちの足を遠のかせてしまうかもしれないと感じた。
岡崎藝術座の『レッドと黒の膨張する半球体』とピーチャム・カンパニーの『復活』の二作品はポスト3.11の心理状態を提示し、国籍を問わず強く共感できるであろう人々が忘れえぬ過去からの不安感、そして誰も予見できない未来への恐怖に満ちていた。また両作品は、日本とアメリカ、特に第二次世界大戦後の両国の関係を反映しており、外国人観客たちは3月11日と8月15日を比較せずにはいられないだろう。そして我々が他のメディアを読んだり見たりするだけでは推し量れないほど、アメリカから多くの影響を受けているのだと気づかされる。そのうえ、私が帰国した際、タイ政府の貧しい危機管理に頭を抱えながら、日本政府ならもっとうまくやっていただろうと考えずにはいられなかった。両作品ともにポスト3.11の日本を主題にしているにせよ、海外の観客が理解し享受するのに十分普遍的なものであった。
テレビに映し出される英語字幕は、『レッドと黒の膨張する半球体』は完全なテキストで、『復活』については部分的なものであったにせよ、私のような日本語を話さない観客にとっては役に立つものだった。実際に、後者の観客にはコンテクストを理解するための資料が用意されていた。この夏に開催されたアヴィニョン演劇祭から10日経った頃、英語のシノプシスをプレス用サービスデスクで配布することが新しい習慣になってきていた。またF/Tでもあったように、時折、完全な英語のスクリプトを今後の参考にと配布することもあった。
村川拓也の『ツァイトゲーバー』も東北地方太平洋沖地震に触発された作品であった。毎回ランダムに観客の中から一人女性を選び、舞台に上げ、身体障碍者を演じさせる。そしてその女性は一時間以上、舞台上にいるたった一人のパフォーマーに肉体的にも精神的にも世話をしてもらうことになる。私が観劇した回で特筆すべき点は、舞台に上がった観客が日本人ではなかったため、日本人の友人の助けを借りて、彼女は演出家が設定した条件を理解し、パフォーマンスをスムーズに進めたことだ。それは、台本にも書かれておらず、予測することもできない、ステージ上での特殊な人間関係を目撃する、本当に興味深い経験である。パフォーマーの私心のない献身的な態度のおかげで、ありふれた日常が美しいものになりうることを改めて証明してくれた。私が日本からタイへ帰国したあとも未だ帰る家はなかった。苦境の時になって、今まで想像していた以上に他人は思いやりをもっているものなのだと感じた。現在、我々は実際に顔を合わせることなく、迅速かつ容易にフェイスブックの「同意」をクリックするだけで友達になれてしまう。たまに救いの手を差し伸べてくれるものはソーシャルネットワークに存在しない友人たちなのだ。
韓国人のジョン・グムヒョンによる『油圧ヴァイブレータ』と、フランス人でノン・ノヴァのフィア・メナードの『P.P.P』(F/T11参加作品)というソロパフォーマンスがある。前者は性の独立を、後者はアイデンティティという、コントラバーシャルなテーマを扱っている。グムヒョンは、現実と虚構の境界線を巧みに映像化し、淡々とパワーポイントでメッセージを我々に伝える。また、メナードの作品においては氷の玉が溶けたり落ちたりジャグリングされたりといった、彼女の主張を裏付ける視覚的隠喩であった。実際にグムヒョンのドキュメンタリーのスタイルは、ダム建設が及ぼす影響を調査したランドステージング・シアター・カンパニーの『River! River! River!』と似通っている。過度な経済成長のために環境を変化させ、コントロールしてしまった人々を見るにつけ、不始末によってタイの大洪水が起こってしまったことと結びつけずにはいられない。
劇作家と演出家の鋭い目と心を通して描き、生活の中にある平凡さを非凡な形で提示してみせたのは、平田オリザの五部作のうちの一作目であり、政治的、社会的そして文化的な側面からソウルと日本の関係を描いた『ソウル市民』(F/T11参加作品)だ。また、キム・アラが演出した大田省吾原作の『砂の駅』(F/T11参加作品)のように、舞台から話し言葉が取り除かれ、ダンサーではなく俳優の、踊っているようなゆっくりとした動きは、観客のイマジネーションを解放する。決して退屈はしない。観客である我々は俳優たちのエモーションを感じ、無音の会話すら聞こえてくるようだ。
対照的に、バナナ学園純情乙女組の『バナ学バトル★☆熱血スポ魂秋の大運動会!!!!!』とロロの『常夏』の二作品については、外国人観客の視点を念頭においていないであろう、日本のサブカルチャーを扱ったものだった。両作品の突出したエナジーは感動を上回るものがあったのだが、英語字幕、もしくはそれ以上に効果的と思われる、彼らが作品に取り入れているサブカルチャーの背景についての情報がなかったことが残念だった。漫画を読み、アニメを見て育ち、生徒たちがコスプレをしているのを見ていた私でさえわからない部分が多かった。
よく私の生徒や友人たちは、いつになったら食べ物についてのレビューを始めるのかと言ってくるので、最後にここで食について述べようと思う。
私はよく、閉店一時間前に大幅値引きされるお気に入りの寿司や刺身を買いに、池袋の百貨店の惣菜売場に出入りしていた。そこにはタイ料理はなかったが、中華料理やインド、韓国、ベトナム料理も並んでいたものの、日本食が中心であった。ひとつ上の階にはベーカリーのコーナーがあり、フランスの有名なパティスリーも並んでいる。パリのガルニエ宮から徒歩圏内のにぎわった通り沿いに、日本食レストランがいくつか並んでいることも説明がつくであろう。
これに対して、タイには日本食レストランが多くあり、そのなかには日本人駐在員が行き着けの本格的なものもある。私の日本人の友人や同僚はそのことに驚き、またタイの一般市民が寿司の楽しみ方を知っていることにも感激している。今では、ほとんどの市場で寿司を手にいれることができるうえ、百貨店に行けば少なくとも一店は日本食レストランを探すことができる。この驚きは、タイ人のほとんどや多くのアジア人が「ドラえもん」や「おしん」を知っていることに驚くのと同じようなものである。
未だその他のアジアの国々の方がより日本のことを知っているが、公募プログラムを通して、F/Tが着実にアジアとのつながりを見出していることがわかる。F/T11にて観劇した中国からの一作品、韓国からの二作品、そしてシンガポールからの一作品を通して、現代アジア演劇では何が起こっているのかを垣間見ることができた。そこから、F/Tはこれからアジアとどのような関係を紡いでいくのだろうかと、ふと疑問が湧いた。現在の状況で判断するに、F/Tが持つアジアへの関心は、日本が長期にわたって関係を続けている東アジアにとどまる。経済的な支援が今以上にあれるのならば、日本人観客に未だ馴染みのない、より遠くのアジアの作品を紹介できるだろう。
加えて主催演目について言及するならば、『コウカシタ』『農業少女』『赤鬼』で実践された、それぞれの国のアーティストと観客の両方に利益をもたらす異文化間でのコラボレーション作品を製作することは効果的である。これについてはF/T、そして当然ながら財政、行政支援者が再検討すべき点である。
とにかく、F/Tが既に正しい軌道に乗っていることは明らかである。この「東京発の舞台芸術の祭典」を楽しみに再訪しようと考えている非日本語圏の人間は私だけではないと確信している。