なお日本とルーマニアの演劇文化について明確に気づいた差異は、主に二つ。演劇を志す同じ20代の小劇場作家たちの「アイデンティティ」の持ちようの違い、そしてそこから演繹的に生じる「歴史」に対する行動の極端な異なりである。本論ではこの2点について、日本からは三浦直之が作・演出を務めるロロの『常夏』、そしてルーマニアからは作・演出ジャニーナ・カーブナリウの『X Centimetres out of Y Kilometres』と演出デヴィッド・シュワルツの『Heated Mind』を事例として用いて説明したい。
さて、それぞれの比較論に入るまえに、まずひとつ前提条件として抑えておくべきポイントがある。それは、東京とクルージュという二都市の人口的な異なりだ。言うまでもなく東京は人口1300万人の世界屈指のメガロポリス、そしてクルージュはルーマニア北西部トランシルヴァニア地方にある端から端まで1時間もあれば踏破できてしまう人口63万人の小都市だ。必然、個々人が各々の都市で発揮できる存在感の標準が変わってくる。端的に述べて東京に生まれ育てば自分が市民として都政に携わっている、噛み砕いていえば「東京を自分が創っている」という意識を持つのは困難である。だがクルージュの若者たちは、自分たちの決断ひとつひとつが街の相貌を変容させているということを自覚的にせよ無自覚にせよ感じとることになる。そのような人間ひとりひとりの行動の重みが相対的に異なる都市で、フェスティバル/トーキョーとフェスティバル・トンディマージュ(2002年にフランスのARTEとフェルメ・デュ・ビュイッソンという文化組織によって創設された毎年異なる主催都市で行われるフェスティバル)という二つの現代舞台芸術際は開催されたのだ。
つまり第一の比較事項であるアイデンティティの様相は、「人口」という単純な一点からとってみても異なることはあきらかだ。クルージュの若者たちが周りの人々や社会との自然な関わりにおいて主我(アイデンティティ)の座標軸を相対的に定めていけるのに対し、東京の若者たちの主我はあきらかに自分を立脚させる社会という参照軸を喪失している。自分がどう行動しようが社会が向上も劣化もするように思えない「のれんに腕押し」状態で生き続けなければならないため、主我がおのずと自分という個人の半径だけで完結していってしまう。つまり社会学者スコット・ラッシュの主張を借りるなら、前者が、「我思う故に我在り」という社会と自己とのあいだの摩擦から生まれる絶えざる自己調整という"リニア"な対話から生まれる主体を保っているとするならば、後者は、「我は我なり」という"ノンリニア"で無反省な対話しか持ちえない根無し草の個人である。要は自分の行動や行為に対して「だって私がそう思うから」という、まるで非論理的な物言いしか示し得ないのが後者である。とはいえ彼らの言動は、外部でなく内部の嗜好性に徹した論理であるという点で逆説的に、良きにつけ悪しきにつけ、無条件にポジティブなものになり得る可能性を秘めている。要は自分の嗜好性に則して、みずからが法を編み上げ、その法に従うわけだから、そこには自己完結的な「ドリームランド」が創造されてくるわけだ。これは他国では文化的にあまり見られない非常に興味深い現象である。そして、ロロの『常夏』ではこの自己のドリームランド化が端的に見てとれた。
本作では、風呂美という名の浴衣姿の女子が冒頭まず登場し、その彼女が刹那に夢想する「女子高生が駆け回りながらカルピスを飲んでいれば、それは、もう誰がなんと言おうが夏」な場面が次々に展開される。それはスポ根漫画的な熱血を皮肉った淋しい笑いと、現実を無視した時空間を利用したシュールな飛躍感と、恋や告白やキスといった淡いノスタルジアを過剰に織り交ぜた、ポストモダン時代のシチュエーション・ロマンスとでも呼べる舞台だ。そこには太陽、恋、甲子園、宇宙旅行、『H2』、『探偵物語』が、自分好みのセレクトショップの陳列棚のようにランダムに並べられて在り、なぜそれらが隣り合わせに在らねばならないのか、ということに対する理由については、作・演出家の三浦直之がそれらを熱烈に好いているから、という自己完結的な答しか用意されていないように思える。要するに本作は始めから終わりの隅々まで、三浦が個人的に嗜好する快楽記号によって埋め尽くされ、東浩紀の言う「データベース消費」(物語でなくシミュラークルに潜むキャラ記号そのものを消費の対象とする文化のありよう)はもはや自明のこととなっている。三浦はさらにその先へと進み、完全に自分仕様にカスタマイズされたデータベース(=舞台上の世界)をみずから構築しようと試みる。つまり一世代前の70年代生まれの作家たちが物質主義なリアリティから遁世して、生死(前田司郎)、性と暴力(三浦大輔)、他者や環境との共棲(松井周)といった抽象的な主題に流れていったのに対し、80年代生まれの三浦直之はあらゆるマテリアルを貪欲に消費し、好みの商品データベースを構築していくことで、自分のアイデンティティを編み上げているように思えるのだ。しかもロロの役者たちは、経済不況、原発問題、雇用不振、政治腐敗、といった「現実」の社会問題をなるべくドリームランドに寄せつけないようにするためにか、無条件にポジティブなセリフを絶叫に近い大声で繰り返し放ち続ける。
例えば、<ホノル琉貴子江>と<山火事>というバスタブでじゃれ合い続ける姉弟の会話には、大文字の「現実」に対しての諦念をとっくに通り越した嘲笑が見てとれる。弟の山火事は38歳で、いつかバスタブから脱出して学校に行き甲子園に出場したいと姉に願う。だが、姉はそんな弟の願いにこう応える。
「え、実際の甲子園いってどうすんの? え、もしかして、本気で出場したいの? 山火事H2ちゃんと読んだ? ねえ、すっごい、大変なんだよ、甲子園いくのって、そんな簡単にいけるような場所じゃないんだから。[...]H2の方が絶対いいよ、ね」
ここでは「ドリームランド>現実」という前提条件が自明のものとしてあり、その掟を破るような要素は排斥される。そこには刹那の欲望にただただ忠実な水たまりのように自己完結的な世界が拡がり、現実とのつながりは自覚的に遮断される。要するにそこにあるのは個人の時間軸だけから抽出された「自分史」であり、現実や歴史との対話から相対的に編み上げられる「個人史」は存在しない。そして良かれ悪しかれこの「自分は自分」という必死にポジティブな鉄板の法典が、ロロの舞台に演劇作品としての奇妙な強度を与えている。
ここから第二の比較事項である「歴史」について論を進めるなら、三浦が生まれた2年後の、1989年に共産主義政権が崩壊したばかりのルーマニアの若者たちにとっては、歴史をないがしろにしたうえでの演劇はほぼ存在しない。あるいは存在するにしても、それらは国立劇場や商業劇場で上演されることが多く、言論の自由を謳歌することを第一の信条とするインディペンデントな小劇場作品のなかではありえない。79年生まれの現地在住の演劇批評家ユーリア・ポポヴィッチによると、主に80年代前後生まれの作家たちから「ニュー・ルーマニアン・ドラマ」という名で括られる新しい演劇形態(ブカレスク国立演劇映画大学の卒業生たちがはじめた現代史を主題に取るドキュメンタリー演劇)が誕生しており、彼らが新たな形式で「歴史」と向かいあい始めているのだという。
共産主義政権下の演劇人たちは自分の政治的スタンスを「ギリシャ悲劇やシェイクスピアの隠れ蓑をまとって、暗喩することしかできなかった」。だがようやく革命から20年が経ち、政治に直線的に対峙する芸術作品が作れるようになってきた。だからこそ近年では映画界でも、「ルーマニアン・ニュー・ウェーブ」の名で親しまれる高品質な実験映画が次々に制作され、カンヌ映画祭でクリスティアン・ムンジウ監督の『4ヶ月、3週間と2日』がパルムドールを受賞したりしているわけだ。そして演劇界でも同様に、今になってようやく明かされる「真実」を素材にとり、多くの劇作家・演出家たちが自在にドキュメンタリー演劇で遊び始めているのだ。
例えば、77年生まれの脚本・演出家ジャニーナ・カーブナリウの『X Centimetres out of Y Kilometres』は、近年暴露されたルーマニア版のゲシュタポともいえる秘密警察(セクリタテア)の公文書を「脚本」に取るドキュメンタリー演劇である。ただカーブナリウはそこに記された言葉を崇めてそのまま脚本化することはせず、むしろ、何度も何度も飽きるほど同じセリフをリピートすることで、言葉の価値を無化してみせる。要するに彼女は、そこに記された言葉など共産主義政権化の政治家によって生成されたどうにでも解釈可能な「木の言語」(条件法が文法から排された官製言語)であり、市民がこぞってその公文書を聖書のように扱うほうが危険だと警鐘を鳴らしているのだ。
仮に、その文書に「隣近所のおじさんが裏切ってウチのおじいちゃんを秘密警察に売った」と「真実」が記されていたとする。だがその「真実」そのものが、そもそもどういう文脈で誰の手により記された言葉なのか定かでない。その意図が分からないにもかかわらず、「真実の活字」を鵜呑みにして自分たちの生きる現実を根こそぎひっくり返してしまうのは危険すぎると彼女は諭すのだ。つまり、日羅(日本とルーマニア)の比較論に戻るなら、ロロが歴史を遮断した絶対的な「自分史」によって演劇作品を形成しようとしているなら、カーブナリウは歴史に疑いをかける相対的な「個人史」によって芝居を創造しようと試みているといえる。考え方は極端に異なるが、どちらも自分のアイデンティティ崩壊を防ぐための、自己防衛行為が根にある点では変わりがない。
この歴史に対する懐疑性、相対性は、85年生まれの演出家デヴィッド・シュワルツのドキュメンタリー演劇『Heated Minds』でも顕著である。本作では、チャウシェスク独裁政権崩壊直後に勃発した「ミネリアード」と呼ばれる1990年の暴動......、つまりイオン・イリエスク大統領の政府を支持する炭鉱夫たちと、旧共産党政権の幹部たちが引き続き政治の中枢に居座ることに抗議した民衆たちとの間で生じた衝突を、主題に取り舞台化する。ちなみにこの暴動は、すべてがイリエスク大統領の民衆を飼い慣らすための「自作自演行為」であったのではないかという嫌疑も現在に至るまである謎の事件であり、シュワルツは作家のミハエラ・ミチャイロフと共に30人のスタンスの異なる人間にインタビューをし、それを「ひとり三十役」の一人芝居として演劇化することで、誰の言葉も等価に意味がある、という相対的で曖昧で様々な「歴史の真実たち」を解き明かしてみせる。東京のロロの(作品に登場する)若者たちは現実への「不毛感」からもはや歴史に対する根を模索することを放棄してしまっているが、ルーマニアの若者たちは大文字の歴史に対して拭えぬ「不信感」があるからこそそれを放棄することができない。現実から飛躍してドリームランドに向かうことで「鉄板見解」を保持するのがロロの演劇だとするならば、現実を想像して様々な可変見解を提示してみせるのがシュワルツの方法論だといえる。
さて、日羅の若手作家の演劇作品の比較から、アイデンティティと歴史への対応の異なりを分析してきたわけだが、一点、誤解を避けるために付け加えるとするならば、これら日羅の演劇はどれも今ある滅茶苦茶な現実への全否定から生じるネガティブな表現形態ではない。すべては今の現実があるからこそのもの、2011年現在の現実という前提条件を好むと好まざるとに関わらず受け入れたうえでの表現であり、東京とクルージュという社会文化的土壌の上に咲いた花としては必然の美を保っている。つまり彼らにとっては自分たちの表現こそが何よりも「正常」であり、他の国の、地域の、表現フォーマットを拝借することなど到底考えられないのだ。
とはいえ最後にひとつ問題提起をするならば、演劇の表現者はそれで良くとも、演劇の観客には別の使命が与えられていることを忘れてはならない。つまりインターカルチュラルな対話が当たり前となった2011年現在の観客が、その正常さを「確かに普通のことだ」とありのままに鵜呑みにしては、それはあまりにナイーヴすぎるといえる。東京にせよクルージュにせよ、西欧諸国の大都市に比べると人口が非流動的であり、観客の相当数が同じ言語圏で育ち、つまりは文化需要の方法が均質的である劇場に座っていると、舞台上の「正常さ」に対しての客観性を保ちながら観劇をすることは確かに困難である。しかし多民族・多国籍な視点が舞台上にそそがれる事態が一般的となった諸外国の劇場では、すべての観客が、表現者の文化的ルーツから生じた不可避なメッセージを十全に理解できるわけではないため、なにか理解できない・伝わらない事柄が出てくると、その異物感をためつすがめつ精査することになる。そして平たく言うならば、この異物に対するなんともいえぬ気持ち悪さが、逆説的に観客の思考を刺激し続け、目のまえの舞台作品への理解を促していくことになる。だから私たち観客は、改めて自分に問わねばならない。「なぜ今ここにいる客席で、その表現が必然で正常なものであると思うのか?」。この質問に対する答えを、多角的に解読していく責務が現代の観客には負わされている。