今回、F/T11で6作品観劇した。その6つの作品がF/T11の全容というわけではないが、作品からは3・11の震災が日本社会全体に震撼を与えたということを確かに感じた。作品の大部分がダイレクトに震災の影響を受けている。大自然に対する畏れや都市や現代文明における自己認識の危機が作品に反映されているのだ。
例えば、捩子ぴじんの『モチベーション代行』では、東京という大都会でいかに生存していくかということが語られている。白井剛の『静物画』では、日用品が多く使用され、抽象空間においてシンプルな試みがなされた。神里雄大の『レッドと黒の膨張する半球体』では、メディアによって包囲されてしまった廃墟の世界が暗示された。カオス*ラウンジによるカオス*イグザイル展では、ダイレクトに震災のことを語っているのだが、アニメや漫画により内包されている。韓国のジョン・グムヒョンの『油圧ヴァイブレーター』は機械に対する人間の欲望が描かれている。(これは日本の作品ではないが、今回のF/T11に選出された作品であり、同じく集団の潜在意識における自然の排斥を取り上げている。)エネルギーみなぎるバナナ学園純情乙女組の作品は、表面的には震災とは無関係ではあるが、作品の最初から最後までパワー全開で力尽きるまで紅白に分かれた対戦が繰り広げられた。これは一種の感覚器官の津波とみることもでき、観客の存在意識を飲み込もうとしているともいえる。
今回私が見た作品の中に、自然の美しさというものは一切登場しなかった。これは、まさに今回の震災がもたらした結果といえるだろう。日中、東京の街を歩いていると、日本人が丁寧に手をかけてきた自然というものを感じた。例えば、上野公園の桜の樹のように、公園を訪れた人たちと共に存在しているのだ。日本人は常に自然と文明の中から一種の平衡を探し求めることができる国民だと感じていた。しかし、震災がこの平衡を崩してしまった。
人間は自然を責めることはできないし、また、自然の無情を変えることもできない。ただ黙って耐えるしかないのだ。しかし、今回のF/T11で私は物理の世界の地震が最終的に一種の隠喩へと変化したのを感じた。震災は都市や社会の巨大なコントロール不能な力の化身であり、皆、この社会と経済の津波に向き合っている。逃げるほか選択肢はないのだ。
あるいは、演劇に逃げるというのも一種の策略ともいえる。舞台上で震災に立ち向かう、または、震災の構造をあらわにする。日常生活に戻ったとき、それほど堪え難いということも感じないのだ。
日常そのものがリハーサルであるという捩子ぴじんの見解に戻り思い出されるのは、東京の街を歩いていて、まるでアニメに登場するかのような装いをしたビラ配りの人たちや制服を着た学生、スーツ姿のサラリーマンなど、彼らは生活を演劇とみなし、人間関係を一種のパフォーマンスとし、オフィスでの倫理を一種の脚本とみているのだ。捩子とは全く違う世界におり、リハーサルのチャンスもなければ、新たな可能性を見いだすこともない。彼らは社会やアニメ、ゲームから与えられた脚本や役柄を受け入れる。彼らは生活をリアルととらえているが、実際には彼らの生活ほどヴァーチャルなものはないのだ。
フェスティバル/トーキョーの一番の意義はここにあるのかもしれない。観客に一つの逃げ道を提供し参加してもらう。残りの人生を互いに励まし合い、新たな自然を創造することがここでは可能なのだ。
(翻訳:F/Tアジアコーディネーター 小山ひとみ)