簡潔に言ってそれは、同じ日本人の私にとっても強烈な異文化体験であった。そしてここで文頭の問いに立ち返るなら、おそらく私は他国の、他人種の、他宗教の、他世代の、つまりは他の文化の人々が今をどう生きているのか、という「同時代性」に触れることを喜びとするために、シアター・ジャーナリストという肩書きを利用して社会文化的なフィールドワークを続けているのだ。ミハイル・バフチンの「クロノトープ」(ギリシャ語で"時+場所")という概念を利用して説明するならば、すべてのパフォーミング・アートは特定のクロノトープの産物だ。そして筆者のみならず、おそらく少なからぬ数の観客は、「シアター」を媒介にそれを産み落としたその時その場の「カルチャー」をより詳らかに探求するために、劇場に足を運ぶのだろう。まただからこそ今年のF/T公募プログラムは「今、東京で生まれている」同時代性の萌芽を提示するプラットフォームとして機能していたという意味で、非常に有意義であったと思う。
では具体的にどのような「現在東京の特性」がそこから透けて見えてきたのか? それは主に以下2つのキーターム:「超適応」「集合主体」にまとめられるように思う。まずは第一の特性である「超適応」について、バナナ学園純情乙女組の演目を通して見ていきたい。
F/T初参加演目となった『バナ学バトル★☆熱血スポ魂秋の大運動会!!!!!』は、アキバ系地下アイドルの服装を模した男女45人が、正味60分のあいだ、観客の視覚・聴覚・身体感覚を麻痺させるほどのノイズ(まるで渋谷センター街10倍の騒音)のなかで全員が発狂したように身を削り歌い踊るという過激パフォーマンスである。団長(演出家でも作家でもなく、団長)の二階堂瞳子はそれを「絶叫オタ芸アイドルライブ」と命名しているが、身体が、汗が、唾が、海藻が、場内で乱れ飛ぶ彼らのパフォーマンスはまさに「絶叫」そのもの。ただ彼らのステージのもっとも興味深い点は、エントロピーが最高値に到達しようとする乱雑さの極みのなかで、不気味なほど絶対的な「秩序」を保持しつづけていることである。それは、渋谷の雑踏のなかで口論やケンカが乱発することなく秩序を保つことができる日本人特異な能力であると説明づけることもできるかもしれない。しかしこの秩序感はそれ以上に、テン年代世代に特に顕著な能力によりもたらせるもの----、より具体的に説くならば、「個性を生かせ」「自分らしく生きろ」と言われて育った先行世代が、挙げ句の果てに定職に就けずに苦しんでいる様を見て育った80年代生まれたちが、「自分探し」と逆方向の「場探し」へと視野をシフトし、その場に自分をオプティマイズ(最適化)するために培った「超適応」という能力にあずかるところが大きいように思う。
2010年9月16付の日経新聞記事『就職氷河期、個性は封印』という記事がネット上で話題を呼んだのは記憶に新しい。この記事では、まるでロボットのように服装、髪型、姿勢、表情まで統一された2010年度の日本航空の新入社員と、多彩な服装とくだけた表情で同式典に臨む25年前の新入写真の写真が併載され、現在は企業が多種多様な人材を求めなくなり、結果として「個性を表に出さない新入社員」が増えていると論がまとめられていた。要するに現在の新入社員に求められる能力は、社会学者・宮台真司が『宮台教授の就活原論』(2011)でクリアに指摘するように、いかに社風や企業文化に染まれるかという「適応力」。個々の能力や技量は二の次であり、まずは周囲の空気を読み、足波そろえてひとつの合意点に達していく能力が優先されるのだ。そしてこの適応力がみずからのサバイバルのために「過剰」な精度で発達したのが、テン年代世代の「超適応」とも呼ぶべき特異な能力なのだと思う。
年上世代からすればそれは「個性が失われた」として嘆くべき事態なのかもしれない。だが筆者はバナナ学園の統一化されたパフォーマンスを見ていて、そこに一種異様な力強さを感じた。そのパワーはまるで、何千匹という鰯が群れて巨大な魚群となることでサメに立ち向かっていくような緊急時の異常な団結力。無論、この団結力が盲目的な思考停止のうえに構築されていくと、ファシズムや戦争のような極限状態へと突入してしまうため、ここには表裏一体で非常に危険な要素も含まれているのだが、バナナ学園に限って語るなら、現時点では、アキバ系カルチャーへの諷刺という客観性が保持されている彼らからはそうした盲信は感じられない。バナナ学園の集団性は、大雑把な盲信のうえに成り立つものではなく、繊細な非言語コミュニケーションともいえる超適応のうえに成り立つもの。国が、地域が、自分の生活圏が崩壊しかかっている緊急事を察した二階堂と団員たちは、異常な密度で群れることで、一個人の絶叫の強度を増幅させようと試みているのかもしれない。
そして、この「超適応」の概念の延長線上で、第二のキータームである「集合主体」が掴めてくる。周囲に、環境に、役割に、みずからの経済的・生活的・自尊的サバイバルのために過剰に適応していった若者たちは、ある意味で当然の結果として、集合主体という概念に行き着く。この感覚は特に、85年生まれの西尾佳織が作・演出を務める鳥公園の『おねしょの沼の終わらない温かさについて』に顕著であった。
本作では、どこか遠くにある沼地の閉村で3人の女性Tさん、Lさん、Mさんが、みな「母」として子供を共有して養育している。「父」は不在だが、4人目の母ともいえる女装した男性イシマツがその役割を遙か遠い昔に担っていたのかもしれないことが微かに暗喩される。いずれにしろ彼らはそんな瑣末な近代的家族制度にはとらわれることなく、なんとなく全体で溶けあって、そこで淡々と暮らしている。だから子供たちが沼で遊び呆けているときに母の呼び声が遠くから響いても、その声の発話者が、Tさんなのか、Lさんなのか、Mさんなのかは、さほど重要な確認事項ではない。つまりそれは、3人の「集合主体」のような意志が高められ、まとめられ、言語化された最終形態としての発話であると言えるのだ。
社会学者のゲオルグ・ジンメルはその論考『大都市と精神生活』で、都市生活者は大量な情報量をどうにか制御して秩序を保つ自己保存のために、形式的に冷淡な態度を社会に対して取るようになると説いた。その結果、人づきあいは感性ではなく悟性で行われるように----、つまりは頭だけの損得勘定でのつきあいとなり、結果的に、都会人の孤独を招いていくと問題点を指摘した。またジンメルはその孤独からの突破口として、悟性的な共存ではなく、感性的なつきあいとしての「共在」論を提案した。
さて、ジンメルがこのような論を発表してからもはや100年以上が経ち、世界屈指の巨大都市のひとつである東京では、共存でも共在でもなく、さらにその先の進化系である「共棲」ともいえる集合のあり方が見えてきている。つまり、群れに帰属することによって自分のアイデンテティを保持するのでなく、群れそのものが自分のアイデンテティであり意志であるという逆転の原理。鳥公園の舞台を例にして語るなら、Tさん、Lさん、Mさんの声は個人の意志である以上に、たとえ一人一人が別個の主張を語っているように思えるときであっても、それは沼地で暮らすムラ的な集合体を保持するための声なのである。それらの声は、舞台中央に吊り下げられたバケツからヌメヌメとした汚泥がたえず溢れ落ちてくるように、ムラというひとつの集合主体の臨界点に達した意志として、誰かの口を借りて溢れ出てくるのだ。もしかすると80年代生まれの若者たちは、強烈に自己主張することを止めまわりに超適応することを第二の自然のように培ったことにより、集合意志こそが心地よい個人意志、という和の境地に達することができるようになっているのかもしれない。
以上が、2011年東京、という非常に特異なクロノトープで筆者が目撃した舞台の特徴である。三週間後にルーマニアの演劇際でほぼ同世代の80年代生まれの劇作家たちが、個としてかつての共産主義の歴史と向き合い、他でもない自分という人間に納得のいくヒストリーを紡ごうともがいていたという、言うならば個が国家にダイレクトに対峙する「直線的」な感覚とは対極的で、現代日本人の社会に対して直線的に向きあえない複雑なメンタリティを否応なく意識させられた。そういえば奇しくも、本年度のF/Tの総合テーマもこの「超適応」や「集合主体」の概念に、意識的にか無意識的にか連動しているように思える。そのテーマとは「私たちは何を語ることができるのか?」。「私は」という一人称単数でなく「私たちは」という一人称複数で問いがなされている点に、現在東京の狂おしいほど不安な時代性を感じざるを得ない。