フォト・ロマンスアーカイブ

12月20日(日)にF/TステーションでF/T09秋劇評コンペ優秀賞発表・講評会が行われました。
受賞者の皆様、おめでとうございます!


<優秀賞受賞作品>

柴田隆子氏 美しい静寂の地獄絵図 ―『神曲―地獄篇』 

堀切克洋氏 「本物」はどこにあるのか――『Cargo Tokyo-Yokohama』評

百田知弘氏 『あの人の世界』 劇評


追って審査員の皆様からの各作品・全体についてのご講評をアップいたします。
どうぞお楽しみに!

2007年に観たラビア・ムルエの「これが全部エイプリル・フールだったなら、とナンシーは」は、優秀な作品が数多く上演されたTIFの中でも、チュニジアの「囚われの身体達」と共に、特別な輝きを放っていた。それは一つにはこの作品にレバノンから来たという付加価値がついていたからでもある。中東関係の仕事や研究をしているような人達を除いて、一般的な日本人にとってレバノンは馴染みの深い国とは言えない。また、レバノンについての正しい知識や現実に合ったレバノン像を持っている人は少ないと思われる。日本では「レバノン」という国に、「内戦」「危険」というイメージがあり、実際には1990年代以降しばらくの間、南部を除いて外国人もほぼ安全に旅行できたのだが、一部の物好きな人達(失礼、しかし筆者もその一人)以外は旅行者の数も決して多くはない。そして「エイプリル・フール」が東京で上演された前年の2006年には、首都ベイルートを始めレバノン全土が再びイスラエルに空爆されるという危機的状況に陥った(この想像し難い状態は、「エイプリル・フール」が上演されたにしすがも創造舎で同時に行われたビデオ・インスタレーションでも紹介された)。また当時は2002年の「911」事件に端を発する「中東=ムスリム諸国(レバノンはキリスト教徒の数と力がかなり強いのだが)」に対する米国の一種のネガティヴ・キャンペーンのようなものが今よりあった。そのような中、中東映画祭や中東講座を熱心に開催していた国際交流基金とレバノンやチュニジアの演劇を紹介したTIFの英断には今でも心からの喝采を送る。もっとも日本の知識人と国民は、米国などに比べると、はるかに冷静で中立的な視点で物事を見ていたのも事実である。

舞台の構成はごくシンプルだ。中央に吊り下げられたスクリーンとその操作卓があり、上手にはテーブルとソファが二脚。テーブルには一つだけ紙コップが置かれている。スクリーンの後ろは演奏者(主にシャルベル・ハーベルが担当)のためのスペースとなっている。
大きく分ければ、(1)テーブルとソファ=映画の監督(リナ・サーネー)と検閲官(ラビア・ムルエ)が、映画のコンセプトや内容に関して議論する場(2)スクリーン上=制作された映画のストーリー(3)操作卓とスクリーンの裏手=映画のために必要な演出を行う場所――と、三つの領域を行き来しながら公演は進行していく。

・劇と現実の接点である幕切れと幕開け

 寺山修司にとって、劇が終わった後で役者がステージに並んで観客の拍手喝采
を浴びるなんて許されないこと、トンデモナイ、アリエナイことだった。劇場の
内と外とは同じひとつの現実だ。観客は、劇が問題提起したことをそのまま家庭
や社会に持ち帰り、自分を主人公にしてすぐさま劇を始めなければならない。観
客席で安穏と芝居を楽しむことは許されないのだ。