選評 (内野 儀)
今回の劇評コンペについては、匿名審査となったことが昨年からの大きな変更で、評価のためのクライテリアを考えつつ、メール添付で送られてくる劇評について、メモを取っていった。昨年と比べると投稿本数は減ったものの、かなりレベルが上がったという印象があり、次の四つの項目をたてて自分なりの評価をすることにした。「文章力」、「構成力」、「作品記述」、「分析の枠組み」の四つである。その際、昨年同様、「観劇体験記ではない」、「描写だけでは成立しない」、「モノローグではない」、「劇評/批評は自己表現だが、ベタな自己表現ではない」という「~ない」ことも審査基準に入れ、また、「原作/戯曲テクストがある場合、それを読むべき」、「調査すべきことは調査すべき」、「問題提起や分析が明示的に書き込まれているべき」といった幾つかの「~べき」も昨年同様、そこに加えた。その結果の評価に従っていくつかの候補作を考えながら審査会に臨むことになったが、そこから先は、それぞれの劇評が取り上げた作品についての審査員個々人の見解や劇評の文章そのものの力が評価の論点となるので、ある程度は相対的たらざるをえない、と私は考えていた。
受賞作になった三名の方々の劇評については、上記のクライテリアをクリアしているということで、特に異存はなかった。昨年に引き続いての受賞となった百田知弘氏の劇評(『巨大なるブッツバッハ村』)については、これまた昨年の受賞作同様、分析的な突っ込みがやや足りないと感じたが、取り上げた上演を限られた字数で的確に記述する氏の文章力は健在であった。私としては、同じ『巨大なるブッツバッハ村』を論じた高橋英之氏のものののほうが、作品で重要な意味を持つ音楽の使い方についての細部への検証がしっかりしていると思われたが、調べたことにかえってとらわれてしまっている感があったことは残念である。なお、同じ高橋英之氏による『迷子になるわ』評もなかなかよくできた劇評だと思われたが、決定力に欠ける嫌いがあった。森川泰彦氏の『わたしのすがた』評は、きわめて自覚的に劇評として書かれているという意味でよくできており、その緻密な描写力もあり、作品評のお手本とでもいえる内容だった。さらなる広がりをという声もあろうが、作品そのものが特異な形式での上演であったことを考えると、この字数ではこれ以上を望むべきではないだろう。受賞作以外にも今回は佳作が多かったが、そのなかでも渡辺健一郎氏の『――ところでアルトーさん、』評は、やや衒学的な参照項に依拠しすぎてはいたが、作品のコアは逃していない劇評であるように思われた。最後になるが、小澤慧美氏の『ヴァーサス』評は、作品についてよりも、作品が喚起したテーマと筆者自身の生活/現実を力業で結びつける内容で、このようなコンペにおいては、「これは劇評ではない」ことになってしまうのだが、充分に読ませるものだったことを付言しておきたい。