劇評コンペ講評 (鴻英良)
まず最初の印象をいうと、今年の応募原稿は、去年のものより全体として格段によくなったと私は考えている。そもそも、昨年の応募原稿にしてからが、後に書かれたものの方が、最初に提出されたものよりも全体的によかった。それはすでに書かれたものを参照にしつつ劇評を批判的に書くという態度で演劇批評に臨んだ人が出てきたからであろう。 おそらく、今年度に応募した人たちは、昨年度の応募原稿を読みつつ、あるいは受賞作品を読みながら、何が要求されているのかを判断し、目の前にあるものを反省的に取り入れつつ、劇評を書いていったのであろう。これこそが歴史主義的な判断というものだ。 こうした私の想定は、継続的な劇評コンペそのものが、批評にとって意味があることを確証しているという主張につながるのである。
さて、劇評コンペの応募作品を読むにあたって、私が問題したのは、主に三つの点であった。ひとつは、批評の対象となった舞台をどのように描き出しているのかということ、つまり、それがどのような舞台であるのかをその舞台を見ていない読者にも伝えてくれているのかどうかということであり、そして、ふたつ目は、そのように描いて見せた舞台に関してどのような批評的判断を下しているのか、そして、三つ目は、その判断は、社会的、思想的、文化的、あるいは歴史的な視点などを考慮したとき、どのような根拠を持っているのかということであった。 今回の応募作品のほとんどは、最初の要請をクリアーしていたと私は思う。これは長足の進歩といえよう。これらの劇評を読みながら、それがどのような舞台であったのかを私は改めて思い出したし、それが私が見たものと違っていたとしても、その違いについて考えることは私にとっても意味のあることであった。だが、第2、第3の要請に応えているものは少なかった。いまだこのようにしかならないのは、おそらく、それは演劇批評とは舞台に対する讃歌なのだと誤解している人が多いからではないだろうか。 演劇を問題化すること、そのことによってわれわれが生きている世界について語ること、われわれ人間がいまどのような状況に置かれているのかをあきらかにすること、さらには、そこからの脱出の可能性はどこにあるのかを示唆すること、そのことこそが演劇批評に求められているのだということ、そのような意識から演劇批評を書く人間が出てくることを私は願っている。 つまり、演劇批評はひとつの批判的な創造行為なのである。そのような批評的行為を生み出そうとする視点からこそ私はこの劇評コンペに関わっているのだということを、私はここで言明しておきたい。