F/T09春、『転校生』で多くの観客に感動の衝撃を与えた演出家・飴屋法水。この秋、彼が挑むのはサラ・ケイン作『4.48サイコシス』。デビュー作『爆破されて (Blasted)』以来、生々しい暴力や性の描写で、とかくスキャンダラスに扱われることの多かったイギリスの劇作家、サラ・ケインの遺作となった本作で描かれるのは、病める精神の内的世界。もはや明確な物語もト書きもなければ、配役の指示さえ消失し、モノローグやダイアローグと覚しきもの、数字や単語の羅列といった様々な断片から成るテキストは、戯曲としてはきわめて特異である。しかし、このスタイルはそれによって描かれる対象と完全に一致している。自己と他者との明確な境界が消え去り、しきりに死の方向へと自ら歩を進める精神。
今回ケインのテキストに対峙する飴屋法水は、これまで演劇、美術、音響、動物店経営など、多様なフィールドを越境しながら、一貫して「生命」を凝視し続けてきた。その間、彼は様々なメディアを用いて、日々の生活の中で埋もれつつある、今この瞬間にある生・存在の神秘、その不思議さや不気味さ、不確かさを可視化させてきた。そんな飴屋が、自死を選びながらも、最後に他者への開きをテキストに結晶化させたケインに接続する。彼女が書き残した、自らの内へ内へと向かう狂気と、そこにある生と死は、飴屋というフィルターを通すことによって、一作家や一精神病患者の個人的な出来事を越えた、私たちの共有のモノとして、今回リアルに立ち現われてくるだろう。それも我々には思いもつかない仕方で。
『4.48サイコシス』はサラ・ケインの最後の作品。彼女はこの作品の脱稿直後、上演を待たずに、99年2月20日にうつ病で自殺。初演は00年6月、ロイヤル・コート・シアター(ジェイムズ・マクドナルドの演出)。
「4.48」とは4時48分を意味し、当時うつ病に苦しんでいた彼女は、毎朝この時間に起床し、治療薬の影響の抜けた明晰な意識の下で、この作品を執筆していたと言われている。執筆時のインタビューで彼女が、「この作品では、現実と夢想との区別が失われた世界、自己と他者とを区別できなくなってしまった精神病患者の世界を描く」と語っているように、全編を通じテキストに、明確なストーリーのようなものは存在しない。精神病患者のモノローグや、患者と医師のものと思われるダイアローグ、単語の羅列や数列、カルテの一部らしきものなど、合わせて24の断片で全体は成り、統合失調症患者の内的心象風景ともいえる世界を構成している。そこには、うつ病に苦しみ、治療を受けていた彼女自身の経験や病院で見聞きしたものが確かに反映されているであろうが、この作品は単なる自伝的なものにはとどまらない。むしろ、これまで1作ごとに、内戦、家庭内紛争、カップル間、個人間の紛争と次第に焦点を絞ってきた彼女が、更に一歩進み、意識内における紛争・不和を扱った作品として、彼女の創作活動の一連の中で位置づけることができる。
ストーリーを持たない数多くの断片から成ることに加え、テキスト上では、上演に必要な役者の人数や性別も、テキストの中のどの部分が舞台上で実際に発話されるべき台詞で、それがどの俳優によってなされるべきかも全く指示されていない。舞台化に当たっては、多様な可能性が、演出家を始め、出演者や舞台スタッフに開かれている。
日本でのこれまでの上演には、川村毅演出による03年の第三エロチカ公演、03年から04年にかけての久保亜紀子による演出(サラ・ケイン作品上演プロジェクト「サラ・ケイン何かがはじまる」)、阿部初美演出による02年のリーディング公演を経ての06年舞台公演などがある。最近の上演となる06年の阿部初美演出では、ケインがテーマとする資本主義社会の都市の問題が、日本の現在の状況にも通じるという見地から、劇作家本人の伝記的要素を含む本作を、単なるイギリス人作家による遠い国の話という個人の枠には回収されない、社会的な広がりを持たせた舞台として上演する可能性が探られた。