フェスティバル/トーキョー トーキョー発、舞台芸術の祭典
若手カンパニー、 アーティストの自主公演を F/T がサポートする 「F/T 公募プログラム (F/T Emerging Artists Program)」。 |
F/T公募プログラム応援キャラクター、F/T公募プログ・ラムちゃんです。 |
最初の作品『Theatre of the Oppressed: In Search of Brecht』から『Dharma and The Silent Left Hand』まで、我々は変化し続けるシンボル、繰り返し、そして物語という形態をとらないシチュエーションを使用し、ベルトルト・ブレヒトの「異化効果」を作り上げようとしてきた。『American Dream Factory』はその最たるものと言える。舞台は12の夢で構成される。舞台上のインスタレーションは溢れかえる様々な大衆文化や消費財を象っており、「ドリーム・ファクトリー」として知られる記号の迷路の形になっている。ポスト80年代の生活を取り巻く、非人間的・機械的な世界が、演劇的に表象されているのである。そこで若者たちの世代の存在、労働、そして夢、また単純化された社会的期待で個人が均質化されていくのか、そして究極的には、資本主義社会の中でどうやって消耗していくのかをテーマとして探る。この作品は現代の個人が工業生産された夢から「目覚める」方法を問うていくものである。
これは単純にダンスのためのダンスである。私のダンスは私の身体と個性の中で生まれた。「私」は不可解であり、完全な個人であり、様々な要因によって成り立っている。それら全ての要素が私にダンスをさせるのである。踊っている間、自分自身にできるだけ忠実でいるために、私は自分自身から発せられる信号を最大限に増幅し、音楽的要因に変えていく。その為に私は鉄で作られた9つに分かれた舞台を使う。それは私の舞台であると同時に、楽器でもある。舞台上での私のムーブメント、そしてそれによって引き起こされる音が空間を満たし、増幅され、マイクやエフェクターを通してゆがめられる。鉄は私の気分や嗜好を最も簡潔な方法で伝えるものであり、その特性、そして想起させるものである。鋭さ、冷たさ、熱さ、強靭さ、硬さ、重さ。これらの言葉が表すもの、それが私のダンスである。
人と人とがどのようにコミュニケートすることができるのか、に興味がある。
もしくは、わたしと、あなたが、「私たち」に変換されるとしたら、どのような方法が可能なのか。
僕は、他者と関わりたい。それも“ちゃんと”関わりたいと思う。手を伸ばすから、伸ばした手を受け取って欲しい。伸ばされた手を受け取りたい。
そこで、演劇というフォーマットは、有効なのではないか。
演劇は、観客を必要とするのではない。そうではなくて、演劇は他者を必要とする。観客席に座るのは、理解し得ない徹底的な他者だ。俳優と、観客とが、他者として関わり合うことによって、演劇は成立する。つまり、この時、演劇という言葉は、舞台や、演技、あるいは戯曲といった狭義の意味ではなく、その「場」を意味している。
僕は、他者と関わる場として演劇を考える。あるいは他者に対する「命がけの飛躍」の場として演劇を考える(もちろん、それは、観客席に座っている時でも変わらない)。
僕は、もっと豊穣な演劇に出会いたい、と考えている。
つまり、もっとわかりえない他者、に出会いたい。
極東退屈道場は公演ごとに俳優を集める、個人プロデュースの形態をとって活動しています。
することがなくてぼんやりするのも「退屈」ですが、自らの実存をかけて、今から何をしようか深く思いめぐらすことも「退屈」だそうです。
わかりにくいので、区別して「深い退屈」というらしいのですが、どちらも見た目は、することがなくてぼんやりしているように見えるようです。
最近は日常の速度があがり、退屈を意識することが減ってきました。町中に退屈シノギがあふれています。
極東退屈道場は一貫して、そんな都市の機能とそこで暮らす人々の関係を描き続けてきました。特に、ネイティブではない都市生活者にこだわり、地下鉄、風俗街の雑居ビル、ロッカールーム、マンスリーマンション、都心のビジネスホテルなどの場所を観測し、その言葉と身体に注目。都市生活者にまつわる事象の断片を、俯瞰的な目線からノイジーに点描することで、切実な悲しみを透明な笑いに変え、都市自体を俯瞰する非線形の物語として切り取ってきました。
また、作品の演出を、劇作家と振付家の二人体制で行い、「〈日常会話〉ではない劇言語、〈動きたい〉に縛られない踊り」を信条に、互いに発語する体を点検しながらの創作を試みています。
高校生の頃、海外から取り寄せたハードコアのDVDには、殆ど演奏しない飲んだくれのおっさん3人がダラダラしている映像が収録されていた。数ヵ月後、観に行った静かな即興演奏のコンサートで、寝ている客や申し訳なさそうにトイレに立つ客を見つけた。
core of bellsが00年代前半に経験した音楽は以上の2つによって説明ができる。僕達が夢中で聴いていたハードコアや即興演奏から見出したものは、形式以上に「退屈」という状態であった。これは決してネガティブな意味でなく、むしろ「時間」に対する降参的な肯定としてであり、「音」以外の推移も音楽として捉える可能性を僕たちに拓いた。
換言すれば、「酔っ払いがダラダラしている時間」や「寝たり、トイレに行く客」が音と同等、もしくはそれ以上に音楽を構成していることに気づいたのだ。僕達がライヴで演奏することと、湘南新宿ラインで呑みながら帰ることを、一緒くたに考えるようになったのは必然的だった。
「音楽を構成する要素が音だけではない」という仮定の下に現れる時間は、意外にもローカルかつ個人的で、他人が理解するにはあまりに複雑な体系に帰着していった。僕達のライヴは、スタジオで馬鹿話をしながら演奏しているのを、他人に笑ってもらうようなものだから。
その時間をショーとして他人と共有することへの興味は未だ尽きないし、そういう渾然一体となった音楽を今後も演り、聴きたいと考えている。
設定/ストーリーを軸にして、演奏行為がパフォーミングアーツとしての強度をどれだけ持ちうるか、また、演奏以外のパフォーマンスが演奏自体やその聴こえ方にどのような影響を及ぼしうるか、という関心を推し進め、誰にも到達できない(したくもない)ふざけたアイデアを跳躍力にして、新たな音楽の境地と、いまだ名付けえぬパフォーマンスの在り方を探る。今まで作ったことのない50~70分の長さの作品に挑戦したい。
『Co-Lab: Seoul-Berlin』は、ムーブメント、オブジェ、イメージ、音楽とテキストが、即興的にじゃれあうように融合、表現されるワーク・イン・プログレスである。違う都市や空間に住んでいる他者とのコミュニケーションの過程で起こる様々な事象や環境に焦点を置き、その環境に付随する感情や思想、態度の進化の途中で起こる変化を辿る。遠く離れたソウルとベルリンという具体的な環境を舞台に、二人の人物がもう一方の興味や問題を、双方向のコミュニケーションを通して集め、探り、その中で見つけた興味や問題を交換し、フィードバックするのである。このように、同じ問題を違う視点から解釈するとき、同情、誤解、対立、協働、そして思想の発展という様々な体験が二人の間で起こるのである。オンラインでとっていたコミュニケーションの過程が舞台上のオフラインの場所でも継続して行われ、そのうちにメディアに惑わされることなく二人の人間は、時間と空間の中で存在している身体を使った新しい形のコミュニケーションを発見する。これはオープン型プロジェクトであり、未完結のままの会話も進行形として残し、そのコミュニケーションの新しい問題点や進化を約束するものである。
『The Bionarration of A Disjointed Body』のコンセプトは、「最大の都市」としてのジャカルタへの返答から発せられた、都市における事象や文化に反抗しない、演劇的コンセプトである。むしろ、認知や懐疑から解き放たれた竹の魂を奮い立たせる、その内面の反映としての働きをしているのである。その音、伝統舞踊の動き、反響、ファッション、スタイル、増幅は「体験し、思考する身体」から来るものだ。語りのアイディアは、竹の古風な個性からなる身体から発する。竹の真実の姿、それは身体、知力、心理的強靭さの長所の恩恵にあずかろうという人類の未来のメタファーの中にある。都市というハードウェアは、原則的でかつ揺るぎなく永続的な事象としての確固たる個人を支えるために重要である。竹の姿形というのは、境界なく際限なく増幅する未来的、文化的な空間なのだ。『The Bionarration of A Disjointed Body』は衣装、舞台装置、小道具に至るまでの素材に竹を使用し、詩的で古代的な印象を伝える可能性を探るものである。
ジエン社はこれまで一貫して、どこかやる気のない、力のたりない人々を描いてきました。「それが中心のテーマだったのだ」と今まで僕は考えてきましたが、ある人に、「これは現状の話しかしていないのではないか」といわれて以来、ふと考え込みます。
「やる気がない」という事が、どこかで個人の問題に帰結してしまう。しかしそうした感情は、周囲によって、世界によって、そうさせられているのではないか。
だとしたら、そうさせているものは何なのだろう。そこに対して、何か怒りの声を上げるべきなのか。あるいは、やる気がない事は、悪いことなのか? 実は豊かな事なのではないか。
ジエン社はこれまで、「外部に大変なことが起きているが、内部では、それに対してまったくやる気がない」という構造で演劇を作ってきました。私達は、外部の大変なことに対して、やる気を出すことができない、というか、関係ができない。そういう人々を、時にどうしようもなく、時にくだらなく、しかし、確実にそこに、それでも、しかたなく、否応なしに、そこにいるだろうと思いながら描いてきました。
そこにきて、2011年の3月の災害が、けっこう重くのしかかりました。無関心だし、無関係だけど、それでも今までのように、間抜けに楽しくやる気なくはいられない、焦りのようなものを、今私は感じています。できればその焦りやつらさ、苦いやる気のなさを、おもしろく舞台の上に表現できればと考えています。
こんな場面を想像して欲しい:殺人犯の死刑執行の直前の最後の告白。現在物議を醸している死刑についての問題を、あなたは心の底から自分自身に問うことになる。あなたは血に手を染めた殺人者を赦すことができるか?物語は、誘拐殺人犯を中心に展開する。始まりは一通の電話。家族全員が恐怖に怯え、母は警察を呼び、金を集め、泣いて祈ったが無駄だった。彼女に他に何が出来たというのか?娘は容赦なくレイプされ、折檻され、そして殺された。これらを殺人犯の告白と照らし合わせたとき、現代の法体制は真の正義を導き出すことができるのか?『Swallow』は33のシーンで構成され、リアルタイムのビデオ映像を取り入れ、更には空間を多面的に使用し、舞台を5つのセクションに分けて使用する。このことにより、観客は物語に深く取り込まれ、現実の冷酷さを直接目撃することとなる。
いっしょうけんめい喋る人は面白いと思います。けれども、その人をいっしょうけんめいにさせているものというのは何なんでしょう。たとえばお金とか、生活とか、プライドとか愛とかそういうのもあるかもしれません。
いずれにせよ、「誰か」が居るということがいっしょうけんめいにさせているのだと思います。
演劇は時間芸術であり、記号芸術であり、身体芸術であり、関係性の芸術です。ミクロな世界からマクロな世界まで自由に構成できるのが演劇の魅力です。舞台の上では太陽とミトコンドリアが対等に話すことだってできるのです。
じゃあ、わたしたちは?
わたしたちはどうやって話せばいいんでしょう?
集団:歩行訓練は、複数のレイヤーを繋ぎあわせて、私たちを動かすルールを組み立てます。それは大きな世界の力学かもしれないし、ごく小さな世界のそれかもしれない。どっちでもありえるような力の動きを設定し、そのルールの、それぞれのレイヤーでの破綻を探しています。
人と人が話すこと、あるいは人が勝手に話すこと、動くこと、まあわりとそういうふつーのことに興味があります。そしてそれがどんなに特別なことか、感じたい、味わいたいと思ってます。
それで、演劇とか、演劇じゃないこととかをやります。
古典と呼ばれるテキストは、つねに隔たりのあるイブツです。それを口にする俳優にとってそうであれば、一回きりでその作品を目にし耳にもする観客にとっては、なおさら遠い。テキストは、かつてその言葉を必要とした人々(作家やある時代の観客たち)の遺物/記録でもあり、一方で時間も国も宗教も言語も超えて現在に届けられる、決して理解の及ばない異物/記憶でもあります。テキストと私たちのあいだにある、相互理解の不可能性に立ち向かっていくことは、そのあいだにある無数の力の運動と、その運動に備わる暴力的な作用を眼差すことで、一層複雑な問題として立ち現れます。これらはテキストを駆使する俳優の身振りのいたるところに備わります。個々の俳優のあいだにも生じる。それらを眺めながら、「一体どうしたら生じてしまった諸問題をなかったことにせずに共存できるのか」と稽古場でいつも考えています。また、俳優たちの演技を通じて、世界に何かを存在させることの儚さや、存在が過ぎ去ったあとに到来する沈黙と向き合うことの勇気について考えています。これはほとんど「虚無への挑戦」(シオラン)と言ってもいい。ところで古い家が好きです。いま事務所として使っている一戸建ては、経年と先の震災で壁が崩れつつあり、半ば廃墟に近いところです。壁紙を剥がしたままのボロボロの壁を眺めながら、たまに声を響かせてみるのは面白い。ただ、やはり世界は沈黙していますが。
記憶を消費することはできるのか?触角、味覚、聴覚、嗅覚、視覚の五感を使い、『Morsels』はあなたを5人の女性芸術家の記憶を辿る特異な旅へと導く。作家、ジュエリー・デザイナー、音楽家、香りのアーティスト、食品化学の技術者。彼女たちの思想、欲望、夢が裸にされ、観客に消費され、味わわれ、包容される為に長い「食卓」に横たわっている。Studio Now & Thenは、新旧両方の方法を使って物語を紡ぐことを信条とするクリエイティブ集団である。我々の作品は、技術、インスタレーション、テキスト、そして映像を使って体験的な旅を作り上げる。思想家、演出家、作家、デザイナー、写真家、そして作曲家が集まって作品の全体像を描きあげる、丁寧にキュレーションされたブレーンの集まりと考えていただければ良い。この全体像の定義は停滞することなく、完全に定義されることもなく、むしろ、それぞれのプロジェクトに合った人員を集めたネットワークから成る、常に進化し続ける生命体なのである。
例えば日常の生活におけるような、意味のあるものがその意味のあるように見えるような場所ではなく、それらの意味がはぎ取られてしまい、あらゆるものがオブジェ化しすべてが並列に、同価値におかれるような空間をこそ、sons wo: は演劇として追求しています。
そこでは、あらゆるものが「どうしようもなくそこに現れる」しかなく、連続性をもたず、ひとつの風景として立体化することはありません。しかし、そういう感覚のなかでこそ、世界のなかに人生の根源的な孤独や、不安、もしくは転じて究極的な安らぎといったようなものがみえてくるのではないか。私たちは演劇を通じて、そういったかたちで世界をただ「見よう」ということだけを目的としています。
ですので、私たちの考える演劇は、広さとしては非常に限定的なものです。あくまでも演劇はそこの「ローカル」なものにしかならない、と考えています。ただその「地域」に強く根ざし、劇場という場所から、その見える範囲の世界の本来的な姿を眺めるような、そういうものを演劇として提示していきたい。あくまでもひとりの人間が、そこに立ってものを感じ、考えることのできる場所こそが、「開かれた自己内省のための場」として町のなかで機能すると考えています。
例えば恋人と何気ない会話をしている時に、ふとした行き違いをきっかけに、あぁ多分、どんなに言葉を交わしても、きっとこの人とこの事は死ぬまで解り合えないだろうと思う瞬間があります。どんな関係であれ、ましてや恋人なんだから想いを表明し合えば解り合えるはずだという、幸せな思い込みをさも真理のように僕は抱いているので、そういう場に遭遇すると、孤独だ、もう死にたい、と心が甘えてしまうのですが、実はそんな絵に描いたような幸福はやっぱり思い込みなのです。行き違いの瞬間、私は孤独を生きるのですが、それはまた、恋人が僕の呪縛から離れて固有の身体や思考を取り戻して「他者」として立ち現れる瞬間でもあります。家族や友人、同じ電車に乗り合わせた見知らぬ人の、個別の他者性を感受すること、そして自らの孤独を知ること。それには偏見や先入観等を積極的に解除していく必要がありますが、その作業は始める前から既に途方もなく困難であり、また非常に恐ろしくもあります。しかし、その困難や恐怖こそが、誰かと生きる・作る上での豊かさであり、喜びでもあるのだと思います。従って、自分にとって、何かを誰かとつくる、ということの立脚点や目指す標を、なるべくシンプルに分析してみると、「他者(自分)を感じる」ということ以上でも以下でもないのだと思います。あらゆることはそこからしか語られ得ないと考えています。
もしも私が「観客との関係についての創作を進めているところだ」と口にしたとき、それが文字通りのことだったとしたら?もしも私が、舞台上から観客を見つめ返したとき、一人ひとりの目を見て、その観客一人ひとりのことを認識できたとしたら?もしも私が、ステージに立つ私を見に来た観客と既に親しい関係になるような体験をしているとしたら?2011年の晩夏、私はベルリンでwww.gayromeo.comを通して60日間で40人とデートをした。私はそのデートの際に、この私たちの関係性に対する贈り物を相手にお願いし、そのお返しに「gayromeo」たちを招いて、ダンスを披露した。『あんたは私だけのメス犬になるんだよ』私の目を見つめながら、彼は微笑み、ひどいドイツ語訛りで言ったのだった。『わかったか?あんたは私だけのメス犬になるんだよ』
『Small Nanguan』は、「スモールシリーズ」の第4作品目となる。「スモールシリーズ」を通して、規模を小さくし集中性を高めたダンス・スペースとして再定義された空間において、ダンサーが伝える動き、感情を増幅した作品を創造してきた。伝統的な「南管」はホワイエで上演され、振付家の芸術的観点と響きあう。コンテンポラリーダンサーと共にこの伝統音楽の気品と精神を探求していくと共に、現代においての、その美学や思想に疑問を投げかける。これらのパラドクスの中で疑問とユーモアを展開する。
人間は科学の発展ともに死を遠ざける事を追求してきた。そして現代では高度な医療技術とスーパーコンピューターの発明によってポストヒューマンという可能性が見えてきている。ポストヒューマンの世界とは人体の神経信号を電気信号に変換する事で人間の感覚を情報化し、チップに永久保存ができるような時代だ。そうなれば私達は身体のしがらみから解脱し、永遠に生きることが可能になる。まるでSFのようだが、ある科学者は2040年代にはポストヒューマンが誕生すると予測している。
もしこの発言が現実になるのだとしたら、これからの30年間、人はどの様な精神や身体の変化の過程を踏むのだろうか。ポストヒューマンとヒューマンの狭間で衝突、緩和、混乱というような事が起こるのだろうか。
舞踏家土方巽は「命がけで突っ立つ死体」であった。私は「命かけないポストヒューマン」を突っ立たせようと思う。それは孤独に突っ立った死の舞踏家に共鳴し、反発しようとする新しい世代のポストヒューマン演劇。
『A Madman’s Diary』は魯迅によって書かれた初の口語体でのフィクションであり、現代中国文学最初の名作と言われている。1918年の四月に書かれたこの作品は、雑誌「新青年」の第4巻、第5章に納められている。魯迅は以前にこのフィクションが「『文学革命』の業績を証明し、『特異のスタイルと深遠な意味』によって若い読者にひらめきを与えるものである」と言っている。それ故に、新しい中国文学の始まりを告げた作品だといえるのである。『A Madman’s Diary』のテーマは、「家族構造と伝統的な美徳の危険性をあらわにする」ものであり、「人を食べる」ということだ。現代社会に暮らす我々にとって、このフィクションは、混乱する信仰と思考という今の生活体験に即したものである。この作品を通して、我々は魯迅および彼の「mad man」という考えを、相互交換することができるかもしれない。
創作していく段階において手法は、場を立ち上げていく過程において決定されている。手法は問わない。作品を未決定のまま、可能性を開いた状態で、集めたメモの言葉や集まった人たちの生理と重ねて作品を生み出していく。中心的なテーマとしては生と死を扱う事が多く、そういった根源的なものをコラージュや儀式というものをキーワードにしてかたちにしていく。そこに参加する役者やスタッフには創作過程で作品をつくるという行為に徹底的に意識を置かせる。そうする事で、「いま」、「ここ」という現在進行形の姿が現れることに時間を費やしていく。「人間を見る」という行為そのもの、身体があることを感触として立ち上がらせる為に、身体と言葉を配置していくことでライブ感のあるものをつくりだしていくことを目指しており、“演劇”という手法を素直に扱うことで、人間の思考の複雑さを描く方法を探っていき、人が本来持っている豊かさを肯定することが必要であると考えています。
★コンプレックスの昇華ポジティブな復讐
★届かない、萌え、画面越しのコミュニケーション、ケータイケータイ、ツイッター
★おはぎライヴはアイドルアニメソングをチャチにバカにして踊ってるだけじゃねえ、器はもっと広がるって
★手垢にまみれて、無かったことにされてたものを、それも含めての今だろーがよって笑い飛ばす
★何千人しかいない日本の小劇場のなかでケンカしててどうすんだって。やっぱり今日本で一番面白いフェスだから、世界中のひとと自分から提供しつつ刺激を交換しあってケンカしたい友達になりたい。結果だからとけあえるかどうかわかんないけどとりあえず手を上げろ!!
★時代はどんどん変わっていく。世界も、アキバも
時代は変わる中でいつの時代にも若者はいて
いつでもヒリヒリしてていつでも持て余してる
そんなものまで還元できるって
生きてるから明日がくる歳もとる
使い捨て時代に生きている私達が手に入れられるものは“瞬間的な快楽”であり永遠ではない!!すべては始まる前に終わっている!!
はじまるまえに終わらせてくれあなたの理解が瞬きする前に。ただただ追いつかない感動だけ
★悲劇だってかまわないあなたと生きたい(キラッ☆)芥子粒の命でも、私たち輝いてる 魂に銀河、流れてく
★待った 待った この先は知らないからね
(どうなっちゃっても関係なーい 決まっているのはひとつだけ)
ワ・タ・シ・は・かわいい☆
ないないないない意味などなーい!!!!!
原理的でありたい。そして同時に原理を疑い、考査し、表現し、高く飛ぶこと。
わたし達の団体は、「写真」と「身体行為」の関係性を、実験する団体です。
主宰の三野が、齋藤と一緒に考え、齋藤のプログラミングを応用した先端技術で、美術と音楽表現に用います。
写真イメージを言語イメージと同等に捉えて、その戯曲化。
そして、写真イメージを元にした、その身体化。
かつて写真を求める欲動は、写真機などが発明されるよりも遥かむかしより存在していたと考えています。
「コリントの娘」という西洋の重要なモチーフは、出立する兵士の恋人がいま、目の前の瞬間を永遠に留めようとする欲動を表します。
過去を過去の瞬間のままに留め続ける写真。それを見つめる欲動は、死者と通じようとするシャーマンの思想のように、過去との意思疎通を求めているようです。
このような原理的な人間の瞬間を永遠のものとしたい、という欲動を考える事は、演劇の再現性、反復を主軸とする構造と通じていると考えております。歴史的な意味での写真の本質を突き詰めた結果、写真家としての三野の立場は、デジタル化され続ける現在の芸術表現において、いまアナログな身体との出会いにより確立しました。
写真と身体行為の関係性は、いまの時代だからこそ、多くの人たちに向けて、その可能性を突き詰めて発表したいと考えております。
B-Floor Theatreはムーブメントやビジュアルメディアという際限のないツールを通して、現代の社会問題に対し常に取り組んできた。この作品を通しては仏教と、その現代の社会的コンテクストにおける存在を共有する。これは、国の最も大きな宗教勢力が仏教であるタイで演出家が生まれ育った故の作品である。彼女の視点は、我々が今日においてどのようにして宗教を具現化するのかを問う。演出家はこの問題についての視点を、他者、その中でも特に、似ている背景を持つ他者と、全く異なる背景を持つ他者その両者と、宗教や人生における問題への自覚を発見するために共有したいと考えている。
ピーチャム・カンパニーの目指す演劇のかたちは、「役者と観客との間での濃密な「出来事」の共有としての演劇」である。
作り手の生き様や眼差しが観客のそれと共感や反発を通じて交錯してゆくことで、作り手と観客とがともに新たな関係のしかたの地平を発見してゆくような<場>として演劇の上演を位置づけ、実践を続けている。
その上で、かつてありし世界への鎮魂とやがて来る世界への予祝という意味での祝祭となるような劇空間を創造し、演劇の本源的可能性を最大限に実現した演劇創作を目指している。
演出の特徴としては、他者の痕跡としての言葉と俳優の生身の身体と両者を支える社会構造・歴史構造との三者が緊張関係を内包しながら摩擦を続けることで生まれてくる、俳優の身体の意識的/無意識的なエネルギーの噴出を第一原理として、創作を行っている。
また、F/T11公募プログラムでの作品創作と批評的な場とを経過して、演劇における代理表象の問題の実践的掘り下げを行う必要を切に感じている。俳優が他者を演じることの可能性/不可能性に関する言説の再検証を行いながら、それを創作の場に接続することで、演劇という表現形態の実践を支える根源的な方法論的深化を模索している。
上記に加え、社会と演劇とを有機的に接続するような働きかけを模索することで、劇場という場を社会に対する問いと思考を誘発するサロン的な場へと織りなしてゆくことも目標として位置づけている。
「対話」に関心があります。例えば、普段誰かと会話をしている時に、この場合は目上の人との会話をしている時ですが、相手が急に「ほら、わたしはもうこんなお婆さんだから」とか「俺はこんな顔で不細工だから」というような事を言う事があります。そんなことを急に言われてしまうと、いつもなんと言い返したらいいのか分からなくなり、とりあえず「はぁ」と言って切り抜けます。痛みやキツさを帯びた相手のこのような言葉に対して、認める事も否定する事もできず、返答が見つからないのだと思います。つまりお互いに共有されているはずの「言葉」というものが一瞬のうちに共有不可能になり、共有する方法が崩壊するのだと思います。この話は例えで言いましたが、言葉の共有不可能や言葉の共有方法の崩壊というような事態を最近、身に感じる事が多くなりました。人への理解やお互いの抱える状況の把握の仕方、方法を演劇における「対話」をとおして考察し、作品化してみたいと思っています。それは「ほら、わたしはもうこんなお婆さんだから」という言葉に対して「そうですね」とも「そんなことないですよ、まだまだお若いですよ」という言葉を返すのではなく、もう少し別の方法で言葉を返そうとする事だと思います。
作品における戯曲の問題、その戯曲を実際に立ち上げた舞台作品の問題。この二つを特に意識してリクウズルームは活動してきました。何の疑問も持たず戯曲のセオリーとされている要素に対しオートマチックに寄り添うことで、俳優の存在(肉体と表してもよい)が曖昧になる舞台を目にするたびに、自分はナニを見ているのか解らなくなりました。表面的なストーリーを追うだけなら、テキストだけで十分なのです。その時、演劇のためのテキストの在り方がこれから先、きっと問われると直感しました。そして、言葉の意味と表面的なストーリーを捨てました。にもかかわらず膨大に言葉を用意しました。その未知と闘う俳優には確かに存在(肉体)の強さが通常よりも格段に上がりました。俳優(その人間)が確かに舞台上に立っていました。それが解ると今度は同時に、捨てたはずの戯曲のセオリーから、飛躍して劇言語の可能性を示唆する波として返ってきました。このプロセスこそがまさに僕が思う本当の物語だったのです。僕の役割は一生を賭けて探す、人間(世界)という物語をテキストと舞台を通じて「物語を探す物語」として提供するアーティストだと認識しています。
昔はとてつもない贅沢の中で生きてきたのに、現在は何も持たない男。恋人の為に夫を裏切り、そして恋人に捨てられた女。一度は硬く兄弟の契りを交わしたのに、今は遠く離れている3人の若い男。安宿の一室と、ある田舎に走る道。彼らは急いでいた、そして躊躇し、留まり、そして待ち続けた。来年の今頃には、今の辛かったことも忘れるほどに、毎日を過ごしていられるだろうか?4人の孤独な人間のモノローグと、ノイズ・プレイヤーのパフォーマンス、洗濯機の廻る音、プリンター、扇風機、中国の路地。長年西洋演劇と、ポストドラマ演劇の世界に身を置いてきた『At This Time Next Year』の作者は、今回中国の演劇文化に西洋の現代演劇の美学思想を取り入れようと試みる。
あなたが思う以上に悪い芝居はあなたへの演劇を作ることだけを考えているということ。そして悪い芝居が追いかけるのは「過去」じゃなくて、悪い芝居が興味あるのは「未来」じゃなくて、
「今」だということ。
「今」の継続の先に「未来」はあって、「未来」はいつまでも来なくって、
あなたが「未来」だと思って憂い、そして夢見ているのは「過去」のコピーであって、悪い芝居は「今」に興味があって、
あなたの「今」になりたくて、やがてあなたの「過去」になって、あなたは「未来」に「過去」の悪い芝居を重ねる。
あなたの「過去」にも「未来」にもなる。そんなあなたの「今」になりたい。
こんな「今」をつくりたい。 悪い芝居が追いかけるのは、あなただ。
そんな感じでやってます。
寄りかからず、寄りかからせず、丁度よい距離感で、誘いたい友だけを誘いたくなるような、
こっそり好きでいたいような、でもみんなに広めたいような、
でも好きというと変な目で見られるから広められないような、
その分1000000倍の体勢で観るような、そんな劇団に悪い芝居はなりたい。
芝居を観よう。芝居を観よう。どうせ観るなら悪い芝居を観よう。